第22話「それぞれの取り分」
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中村さんから、専属について直接返事をしたいと連絡があった。
黒瀬からそう聞いたのは、数日前のことだった。
答えの内容までは聞いていない。
黒瀬曰く、
「それは当日、中村さんご本人から聞いてください」
とのことだった。
そして今日が、その日だった。
神代がNexus Liveに姿を見せたのは、約束の時間より少し早かった。
「おはようございます」
「おはようございます、神代様」
黒瀬は挨拶を返したあと、神代の顔を見た。
少し間が空く。
「……神代様」
「はい?」
「顔色、悪くないですか」
「そうですか?」
「悪いです」
即答だった。
神代は自分の頬を軽く触る。
「ちょっと寝不足で」
「何かありましたか」
「いや……」
少し迷った。
誤魔化しても仕方がない。
「中村さんのことと、黒瀬さんがこの前言ったことが、ちょっと引っかかってまして」
「私が?」
「ほら。人一人の人生を変えるだけの力があるって」
黒瀬の表情が止まった。
数秒して、ようやく思い出したように頷く。
「……ああ。あの話ですか」
「俺、あれから考えちゃって」
神代は椅子へ腰を下ろした。
「中村さんに、ずいぶんいい条件を出したじゃないですか」
「ええ」
「生活も保障する。機材も用意する。レッスン代も出す」
一つずつ指を折る。
「それって結局、こっちを選ぶように誘導してるだけなんじゃないかって」
黒瀬は黙って聞いていた。
「六年も声優を続けてきた人に、俺が金を使って、それを捨てさせようとしてるんじゃないかと思ったら……」
「神代様」
黒瀬が静かに遮った。
「少し、私の言い方が悪かったかもしれません」
「え?」
「私が申し上げたかったのは、そういうことではありません」
黒瀬は神代をまっすぐ見た。
「神代様は、このプロジェクトのエグゼクティブプロデューサーです」
「……はい」
「企画を立て、資金を出し、人を集めて、マリナというプロジェクトを動かしている」
一拍置く。
「その自覚を持ってください、ということです」
神代は黙った。
「演者の将来を心配される気持ちは分かります。ですが、中村さんが何を選ぶかまで、神代様が背負う必要はありません」
「……」
「選ぶのは中村さんです」
黒瀬の声は淡々としていた。
「神代様が負うべきなのは、その選択ではありません」
少しだけ言葉を強める。
「専属でやってほしいとお願いした以上、選んでくれた演者に対して、きちんと環境を用意すること」
「……ああ」
「そして、企画を立ち上げた以上、最後まで責任を持って運営することです」
神代はしばらく何も言わなかった。
「……なるほど」
「中村さんの人生を背負えと言ったつもりはありません」
「俺、完全にそっちだと思ってました」
「見れば分かります」
黒瀬が小さく息をつく。
「演者の心配をして、ご自分が潰れてどうするんですか」
「……すみません」
「謝るところではありません」
黒瀬は手元の資料を整えた。
「ただ、企画を立てた以上、責任は持ってください。それがエグゼクティブプロデューサーの仕事です」
「はい」
神代は、今度ははっきりと頷いた。
理屈は分かった。
選ぶのは中村さん。
自分が責任を持つのは、選んでもらったその先だ。
それでも。
「……来てくれるかなあ」
思わず口から漏れた。
「中村さんなら来られますよ」
「そうじゃなくて」
神代は椅子の背にもたれた。
「専属で、って方です」
「それは、ご本人から聞いてください」
「ですよねえ……」
黒瀬は呆れたように息をついた。
そのとき、応接室の扉がノックされた。
「失礼します」
スタッフが顔を覗かせる。
「中村様がお見えになりました」
神代は反射的に背筋を伸ばした。
「あ、はい」
「それと……」
スタッフが少し言い淀む。
「もうお一方、ご一緒です」
「もう一人?」
「ヴォイス・リンクの白川さんです」
「……白川さん?」
黒瀬の眉がわずかに動いた。
「中村さんのマネージャーでしたよね」
「ええ」
「事務所として来られたんですかね」
「私は聞いていません」
黒瀬の声が少し低くなった。
「とりあえず、お通ししてください」
数十秒後。
再び扉がノックされた。
「失礼します」
先に入ってきたのはアズサだった。
「本日はよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」
その後ろから、白川が入ってくる。
「失礼します」
黒瀬が立ち上がった。
「白川さん。本日はご同席いただけるとは伺っておりませんでしたが」
「ああ、すみません」
白川は軽く頭を下げる。
「今日はヴォイス・リンクとして来たわけではありません」
「と、言いますと?」
「有休です」
黒瀬が止まった。
「……有休?」
「はい」
白川は何でもないことのように答えた。
「私個人として、アズサちゃんについてきました」
黒瀬は一度アズサを見る。
アズサが申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません……」
「中村さんが謝ることではありません」
黒瀬は白川へ視線を戻す。
「ですが」
一拍。
「聞いていませんが」
「今、言いました」
白川がにこりと笑う。
黒瀬が黙った。
「まあ、いいんじゃないですか?」
神代が口を挟む。
黒瀬がゆっくりこちらを向いた。
「神代様」
「はい」
「今は黙っていてください」
「……はい」
アズサが口元を押さえる。
白川も小さく笑った。
「大丈夫です。今日は仕事ではありませんから。契約について口を出すつもりもありません」
「そうしていただけると助かります」
「ただ、おかしなことがあれば質問します」
「それを口を出すと言うんですが」
「質問するだけです」
黒瀬は数秒、白川を見つめた。
「……承知しました」
「ありがとうございます」
全員が席につく。
神代は向かいに座った白川を見る。
この人が、六年間アズサを見てきた人。
白川もこちらを見ていた。
「神代ユウイチさん」
「あ、はい」
「一度、お会いしてみたかったんです」
「俺にですか?」
「ええ」
白川がわずかに目を細める。
「アズサちゃんに、ずいぶん思い切った条件を出してくださった方なので」
「……ああ」
何と返せばいいか分からず、神代は頬を掻いた。
黒瀬が咳払いをする。
「そのお話は後ほどにしましょう」
「はい」
白川は素直に引いた。
黒瀬が資料を整える。
「では、中村さん」
「はい」
「数日前にお話しした専属についてですが」
アズサの背筋が伸びた。
「お考えは、まとまりましたか」
「はい」
一度、大きく息を吸う。
「私、マリナを専属でやります!!」
神代は目を見開いた。
「……本当ですか?」
「はい」
アズサが大きく頷く。
「よろしくお願いします」
「あ……こちらこそ!」
思わず勢いよく頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
「神代様」
「はい」
「まだ確認中です」
「あ、すみません」
姿勢を戻す。
白川が隣で小さく笑っていた。
黒瀬はアズサへ向き直る。
「中村さん。念のため、もう一点確認させてください」
「はい」
「先日、ヴォイス・リンクさんへご連絡した際にも伺っています」
黒瀬が資料へ目を落とした。
「マリナ専属として契約する場合、ヴォイス・リンクには在籍を続けられない。中村さんには退所していただくことになる、と」
退所。
その言葉に、神代の胸の奥がわずかに沈んだ。
六年。
反射的に、その数字が浮かぶ。
けれど、さっき黒瀬に言われたばかりだ。
選ぶのは中村さん。
彼女の選択まで、自分が勝手に背負うのは違う。
神代は小さく息を吐いた。
自分が責任を持つのは、この先だ。
「その点も含めてのお返事、ということでよろしいですか」
「はい」
アズサは隣の白川を見た。
白川は何も言わない。
ただ、静かに頷いた。
アズサが前を向く。
「分かっています」
「承知しました」
黒瀬が資料へ一つ書き込んだ。
「では、中村さんがマリナ専属として活動されることを前提に、正式な契約条件の確認へ進めます」
* * *
「まず、中村さんは現在、まだヴォイス・リンクに在籍されています」
「はい」
「そのため、本契約の効力が発生するのは、ヴォイス・リンクの退所手続きが完了してからとなります」
「分かりました」
「契約期間は、まず一年です」
黒瀬が資料を一枚めくる。
「先日お伝えした通り、その間の目標をチャンネル登録者五万人とします」
「はい」
「五万人に届かなかった場合、違約金や、それまでにかかった費用の返還を求めることはありません。ただし、生活保障を含む現在の条件はそこで終了します」
アズサが頷く。
「また、マリナの活動に必要なPC、マイク、その他配信機材については神代様側で負担します。こちらから受講をお願いするレッスンについても、中村さんの自己負担はありません」
白川は黙って聞いていた。
「報酬については、毎月、中村さんの手元に二十万円が残るよう設定します」
「そこなんですが」
白川が口を開いた。
黒瀬の視線が動く。
「白川さん」
「質問です」
「口は出さないと」
「質問はすると言いました」
「……どうぞ」
「その二十万円は、配信収益とは別ですよね?」
「はい」
黒瀬が頷いた。
「マリナの活動に専念していただくための固定報酬です。配信から発生する収益については、別途分配します」
「その割合は?」
「中村さんが六。Nexus Liveが四を予定しています」
「私が六……」
アズサが聞き返した。
「事務所さんより多いんですか?」
「ええ」
「神代さんの取り分は?」
白川の視線がこちらへ向いた。
神代は答える。
「ありません」
「……ない?」
「はい」
「広告収入も?」
「取りません」
「スーパーチャットも?」
「取りません」
「メンバーシップも?」
「取りません」
「企業案件は?」
「それもいりません」
白川はしばらく神代を見つめた。
「……何で取らないんですか?」
「それは中村さんが配信したり、案件やったりして稼いだお金でしょう。俺が取るのは違うかなって」
「……」
「俺が配信するわけじゃないし、案件に出るわけでもない。中村さんが働いて稼いだお金なんだから、中村さんとNexus Liveさんで分ければいいでしょう」
白川はまだこちらを見ていた。
「……見返りを求めなさすぎじゃないですか?」
「そうですか?」
「そうですよ」
少し間を置く。
「あなた、頭がおかしいんじゃないですか?」
「白川さん!!」
アズサが声を上げた。
「初対面ですよ!」
「分かってるわよ」
「分かってて言ったんですか!?」
「いやいや」
神代も思わず身を乗り出した。
「今説明したでしょう」
「説明は聞きました」
「ちゃんと理由あるじゃないですか」
「その理由を聞いた上で言ってるんです」
「ひどくないですか?」
そのとき。
「……ふっ」
小さな音が聞こえた。
神代は横を見る。
黒瀬がわずかに俯いている。
「黒瀬さん、今笑いました?」
「笑っていません」
「絶対笑いましたよね?」
「話を進めます」
「いや」
「神代様」
「はい」
「話を進めます」
「……はい」
白川が黒瀬を見る。
「苦労されてるんですね」
「白川さん」
「はい」
「話を進めます」
「はい」
黒瀬が一度咳払いをする。
「ただし」
資料が一枚めくられた。
「グッズについては別です」
白川の眉が動く。
「別?」
「ああ、それですね」
神代は姿勢を正した。
「マリナのグッズについては、純利益の六十パーセントを俺がもらいます」
白川が止まった。
「……六十?」
「六十パーセントです」
「そこは取るんですか!?」
「取ります」
即答した。
「さっき、中村さんが稼いだお金だからいらないって」
「だから、それは配信とか案件の話です」
「グッズは?」
「別です」
神代は人差し指でテーブルを二度叩いた。
とん、とん。
「これは絶対に譲れません」
白川が目を瞬く。
「理由を聞いても?」
「マリナだからです」
神代は白川をまっすぐ見た。
「配信するのは中村さんです。喋るのも、リスナーと向き合うのも、案件に出るのも中村さん。そこで中村さんが稼いだ分から俺が取るのは違う」
テーブルの資料を指す。
「でも、アクリルスタンドとかタペストリーとか、売るのはマリナの姿でしょう?」
「……ええ」
「深紅の髪も、金色の瞳も、あのチョーカーも。最初にマリナをこういう子にしたいって考えたのは俺です」
一度言葉を切る。
「デザイナーさんに描いてもらって、矢野さんに動かしてもらった。でも、あの子の元を作ったのは俺です」
白川は黙って聞いていた。
「だから、マリナそのものを商品にするところだけは、俺も取り分をもらいます」
「それが六十パーセント」
「はい」
「六割でも、かなり取りますよね」
「俺としては、六十でもまだ少ないと思ってますけど」
「え?」
「まあ、契約上しょうがないですね」
白川が言葉を失った。
黒瀬が横から補足する。
「神代様は、演者の稼働によって発生する収益と、キャラクターそのものの商品化を分けて考えておられます」
「……なるほど」
白川がもう一度こちらを見る。
「極端ですね」
「そうですかね」
「極端です」
黒瀬が資料へ視線を戻した。
「グッズについては、製造費等を差し引いた純利益の六十パーセントを神代様側へ。残りを中村さんと弊社で分配します」
「はい」
「ボイス販売やデジタルコンテンツなど、分類の判断が必要なものについては、その都度協議します」
全員が頷いた。
「続いて、活動上の指揮系統についてです」
黒瀬の声が少しだけ硬くなる。
「活動スケジュールはNexus Liveが管理します。また、神代様が中村さんへ直接、配信や収録の指示を出すことは原則ありません」
「あの」
神代は手を上げた。
「はい」
「俺が企画を提案するのも駄目なんですか?」
「駄目ではありません」
黒瀬は即答した。
「ただし、一度私を通してください」
「黒瀬さんを?」
「はい」
黒瀬が資料を置く。
「神代様はエグゼクティブプロデューサーです。企画を考えていただくこと自体は、むしろお願いしたいところです」
「ですよね」
「ですが」
少し得意げになった神代へ、黒瀬が続けた。
「思いついた企画を、そのまま中村さんへ持っていくのはやめてください」
「……なんでです?」
「実現可能かどうかを誰が確認するんですか」
「あ」
「スケジュールは?」
「ああ……」
「予算、スタッフ、権利関係。必要であれば配信プラットフォームの規約についても確認が必要です」
「予算なら俺が――」
「それを管理しているのは私たちです」
黒瀬が即座に遮った。
「……はい」
「神代様が資金を出されることと、予算を管理することは別です」
「そうなんですか?」
「そうです」
黒瀬は淡々と続ける。
「いくら使えるからといって、思いつくたびに予算を増やされては、こちらも計画が立てられません」
「でも、必要なら出しますよ?」
「その必要性を判断するのも私たちです」
「……黒瀬さん?」
「私たちです」
「はい」
神代が大人しく頷いた。
「ですから、企画を思いついたら、まず私に話してください。こちらで実現可能か確認してから、中村さんへ提案します」
「なるほど」
「その順番だけ守っていただければ、企画を出していただくことに問題はありません」
「分かりました」
神代が頷く。
「じゃあ、面白そうなの思いついたら黒瀬さんに言えばいいんですね」
「そうしてください」
「深夜でも?」
「営業時間内にしてください」
「……はい」
白川が小さく吹き出した。
神代がそちらを見る。
「今、笑いました?」
「いえ」
「笑いましたよね?」
「お気になさらず」
黒瀬が資料をめくった。
「では、契約内容について、ご質問はありますか」
アズサは改めて書類へ目を落とした。
白川も隣から目を通している。
「私は大丈夫です」
「白川さんは?」
「私ですか?」
「ここまで質問されていますので」
「では一つだけ」
白川は書類を閉じた。
「アズサちゃんにとっては、かなりいい契約だと思います」
アズサが顔を上げる。
「固定の報酬があって、配信で成果を出せばその分も入る。機材もレッスンも負担してもらえる。一年で五万人という目標はあるけど、届かなかったからって借金を背負うわけでもない」
白川はそこで神代を見る。
「お金の使い方は、いまだによく分かりませんけど」
「そこまだ言います?」
「言います」
そしてアズサへ向き直った。
「決めたんでしょ?」
「……はい」
「だったら」
白川が契約書をアズサの前へ戻す。
「ちゃんと読んで、納得して、自分で名前を書きなさい」
アズサはしばらく契約書を見つめた。
やがてペンを取る。
最後にもう一度、ゆっくりと内容を確認した。
そして署名欄に書き込む。
中村アズサ。
神代も自分の欄へ署名した。
黒瀬が二人の署名を確認する。
「先ほどご説明した通り、正式な効力が発生するのはヴォイス・リンクの退所手続き完了後となります」
「はい」
アズサが頷いた。
「では」
黒瀬が別の資料を取り出した。
「今後のスケジュールについてご説明します」
* * *
「デビューに向けて、Live2Dの調整、配信ソフトや機材の操作確認、配信を想定したレッスン。それ以外にも、初配信へ向けた準備があります」
「はい」
「できれば来週から、ある程度集中的に進めたいと考えています」
「あの……」
アズサが口を挟んだ。
「はい」
「一つ、ご相談があって」
アズサは一度、息を整えた。
「私、今ホテルで夜勤のバイトをしていて」
「伺っています」
「六年続けてきたところなんです」
また、六年。
神代の胸がわずかにざわついた。
けれど何も言わない。
今はアズサの話を聞く。
「お世話になった支配人もいますし、急に明日から辞めますというわけにはいかなくて」
アズサは膝の上で手を組んだ。
「まだ、辞めることも伝えていません」
「そうでしたか」
「はい」
「退職を申し出てから、実際に辞めるまで一か月くらいはかかると思います」
黒瀬をまっすぐ見る。
「その間だけ、デビュー準備とバイトを両立させてもらえないでしょうか」
黒瀬は資料へ目を落とし、少し考えた。
「最後までシフトには入られるおつもりですか」
「はい」
「夜勤も?」
「はい」
「分かりました」
黒瀬が頷く。
「では、その一か月を準備期間として組み込みましょう」
「いいんですか?」
「急ぐことより、無理のない状態でデビューしていただく方が重要です」
アズサの肩から力が抜けた。
「ありがとうございます」
「それに」
神代が口を開いた。
「六年いたところなんでしょう?」
「……はい」
「だったら、ちゃんと区切りをつけてから来てもらった方がいいですよ」
神代はそれ以上言わなかった。
白川が一瞬だけ神代を見る。
「では」
黒瀬がペンを取った。
「ホテルのシフトを確認させてください」
「あ、はい」
アズサはスマートフォンを取り出した。
「今月と来月の分なら、もう出ています」
「夜勤明けにレッスンを入れるのは避けます。睡眠時間も考慮して組みますので」
「ありがとうございます」
アズサが画面を黒瀬へ見せる。
その横から、白川もちらりと覗き込んだ。
「……相変わらず、結構シフト入ってるわね」
「そうなんですよ」
白川はしばらくシフト表を見ていた。
「六年も、よくバイトと両立してたわね……」
アズサが少しだけ笑う。
「慣れちゃってたので」
「慣れで済ませることじゃないわよ」
白川は小さく息を吐いた。
「これからは、ちゃんと健康に気をつけなさいよ」
「……はい」
黒瀬は二人のやり取りを聞きながら、シフトを書き留めていった。
Live2Dの調整。
配信機材の選定。
操作確認。
レッスン。
これまで紙の上にしかなかった計画に、中村アズサの予定が入り始める。
神代はその手元を黙って見ていた。
専属でやってほしい。
そう言ったのは自分だ。
中村アズサは、それを選んだ。
ならば。
ここから先は、自分たちの番だった。
* * *
打ち合わせを終え、アズサと白川が席を立った。
「今日はありがとうございました」
「ありがとうございました」
黒瀬も立ち上がる。
「今後の日程については、改めてこちらからご連絡します」
「よろしくお願いします」
白川が先に扉へ向かう。
アズサもその後を追いかけようとして、ふと足を止めた。
「あの、神代さん」
「はい?」
振り返ったアズサが、少し申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみませんでした」
「え?」
「白川さんが、失礼なこと言って……」
神代は一瞬きょとんとしてから、何のことか分かったらしく笑った。
「ああ」
軽く手を振る。
「気にしてないですよ」
「でも、初対面なのに……」
「白川さんは、中村さんのことが心配だから言ったんでしょう?」
アズサが顔を上げた。
「六年も見てきたんですから。それくらい心配するのは当然だと思います」
「……」
「だから、本当に気にしてないですよ」
「ありがとうございます」
「アズサちゃん、行くわよ」
廊下から白川の声が飛んできた。
「あ、はい!」
アズサは慌てて扉へ向かう。
その途中でもう一度振り返った。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
神代が笑顔で軽く手を上げた。
* * *
Nexus Liveを出てしばらくして、アズサは隣を歩く白川を見た。
「もう、白川さん」
「何?」
「やめてくださいよ、ああいうこと言うの」
「ああいうこと?」
「神代さんに、頭がおかしいんじゃないですかって……」
白川が小さく笑う。
「だって、本当にそう思ったんだもの」
「そういう問題じゃないです!」
アズサは困ったように眉を下げた。
「神代さん、黒瀬さんより偉いんですからね?」
「分かってるわよ」
「全然分かってるように見えませんでしたけど」
「大丈夫よ、アズサちゃん」
白川は前を向いたまま言った。
「少なくとも、あの人はそんなことで怒る人じゃないわ」
「なんで分かるんですか」
「見てれば分かるわよ」
白川が少しだけ歩調を緩める。
「あなたの退所の話が出たとき、神代さん、顔色変わってたでしょ」
「……え?」
気づいていなかった。
「ほんの一瞬だけどね」
白川は思い出すように目を細めた。
「専属でやるって聞いたときは、あんなに嬉しそうだったのに。退所って言葉が出た途端、急に黙っちゃって」
「……」
「ずいぶん気にしてたんじゃない?」
白川がアズサを見る。
「あなたが六年いた事務所を辞めること」
アズサは何も言えなかった。
「だからまあ」
白川が少し笑う。
「少なくとも、アズサちゃんのことを何とも思ってない人じゃないでしょ」
「……そうなんですかね」
「そうじゃなかったら、あんな顔しないわよ」
しばらく歩いてから、白川が口を開いた。
「それにしても、黒瀬さんもやるわね」
「黒瀬さんが?」
「ええ」
白川が小さく笑う。
「神代さんに全権を委ねてない」
アズサは首を傾げた。
「企画を出すのはいい。でも、一度自分を通せって言ってたでしょ?」
「ああ……」
「スケジュールも、現場への指示もNexus Liveが管理する。神代さんが思いついたことを、そのままアズサちゃんにやらせることはできないようになってる」
「そうですね」
「だから、神代さんがどれだけお金を出してても、好き放題にはできない」
白川の表情が少しだけ緩む。
「無茶な要求をされても、黒瀬さんのところで止まるようになってる」
アズサは今日の黒瀬を思い出した。
神代が何か言うたびに話を戻し、必要なところではきちんと線を引いていた。
「……安心したわ」
「え?」
「アズサちゃんが行くところ」
白川は少しだけ笑った。
「ちゃんと止める人がいるみたいだから」
アズサは何も言わず、白川の横顔を見た。
「まあ」
白川が肩をすくめる。
「止める人が必要な時点で、どうなのって話だけど」
「白川さん……」
「冗談よ」
そう言って笑った。
やがて駅に着いた。
改札の前で、二人は足を止める。
「じゃあ、私はこっちだから」
「はい」
白川が一歩進みかけて、ふと振り返った。
「次に会うのは、退所の日かしらね」
アズサは少しだけ目を伏せた。
「……そうですね」
白川は小さく手を上げ、そのまま改札を抜けていった。
アズサは、白川がホームへ続く階段を上がっていくまで見送った。




