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売れない声優の私が、なぜか大富豪に見初められました。  作者: つきしろえにし
第一章 それぞれの選択
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第21話「二つあるうちのどちらか」

 制服の袖に腕を通す。


 ボタンを上から留め、名札の位置を直す。


 何年も繰り返してきた動作に、もう意識はいらない。


 ロッカーの扉を閉めようとして、内側の鏡と目が合った。


 今日、オーディションに受かった。


 マリナに選ばれた。


 そのはずなのに、鏡の中にいるのは、いつもと何も変わらない自分だった。



 カウンターに入り、前のシフトから引き継ぎを受ける。


 日付が変わる。


 終電で戻ってきた客に鍵を渡し、おやすみなさいと声をかけた。


 やがてロビーから人の気配が消える。


 伝票を揃える。


 朝食の数を確認する。


 手はいつもどおり動いていた。


 頭の中だけが、昼間から戻ってこない。



 ――できれば、マリナ専属という形でお願いしたいです。



 神代さんの声が浮かぶ。


 毎月、手元に二十万円が残るように報酬を設定する。


 必要な機材はすべて用意する。


 向こうから受けてほしいと言われたレッスンにも、自分で費用を払う必要はない。


 一年で、登録者五万人。


 届かなければ、そこで今の条件は一区切り。


 条件だけを見れば、断る理由を探す方が難しい。


 それでも。


 今度は、社長の声が浮かんだ。



 ――専属でやるなら、退所してもらうことになる。



 手が止まった。


 ヴォイス・リンクを辞める。


 六年間いた事務所を離れる。


 もう、そこは曖昧ではない。


 白川さんにも聞いた。


 社長にも確認した。


 名前だけでも残せないかと頼んだ。


 それでも無理だった。


 マリナを専属でやるなら、声優事務所を辞める。


 そこまで分かったうえで、まだ答えを出せずにいる。



 伝票の角を揃える。


 六年。


 その間にもらった役を思い返す。


 名前のある役もあった。


 名前すらない役もあった。


 オーディションには何度も落ちた。


 一次を通って期待して、その先で落ちたことも、一度や二度ではない。


 それでも、辞めるとは言わなかった。


 続けてきた。


 ただ、それだけだったのかもしれない。


 でも、自分にとっては、その「それだけ」が六年だった。



 ――六年見てきたんだから。



 昼間の白川さんの顔が浮かぶ。


 少し得意そうに笑っていた。


 その人に、今度は自分から退所すると伝えなければならない。


 胸の奥が重くなる。



 マリナはやりたい。


 そこは、もう分かっている。


 画面の中のマリナと一緒に喋った時間は楽しかった。


 コメントを拾って、返して、笑って。


 最後の方は、オーディションを受けていることさえ忘れかけていた。


 もっとやってみたいと思った。


 神代さんから専属と言われたときも、嫌だとは一度も思わなかった。


 怖かったのは、そのために何を手放さなければならないのか。


 それだけだった。



 時計を見る。


 朝までは、まだ長かった。



  * * *



 窓の外が少しずつ白み始めた。


 夜の間に増えた仕事を片づけ、引き継ぎの書類をまとめる。


 考えは、何度回っても同じところへ戻ってきた。


 マリナ。


 声優。


 白川さん。


 六年。


 専属。


 そして、またマリナ。


 一周するたびに疲れるだけで、答えには辿り着かない。


 自動ドアが開いたのは、いつもの時刻だった。


「おはようございます」


 白髪をオールバックに撫でつけた西村が、いつものスーツ姿で入ってくる。


「あ……おはようございます」


 少し遅れて返事をした。


 西村がカウンターの前で足を止める。


「昨夜はいかがでしたか」


「静かでした。終電のお客様が何名かいらっしゃったくらいです」


「朝食の仕込みは」


「済んでいます。あと、延泊のご相談をいただいているお部屋が一件あります」


「承りました」


 いつもの引き継ぎ。


 いつもの朝。


 けれど、西村はその場を離れなかった。


 アズサを見る。


 一拍。


「……また、二つあるうちのどちらかですか」


「ふぇっ!?」


 変な声が出た。


 手にしていたボールペンがカウンターを転がる。


 慌てて押さえようとして、今度は伝票の束に肘が当たった。


「あっ」


 何枚かが散らばる。


 西村が何事もなかったように一枚を拾った。


「顔に出ていますよ」


「そ、そんなに出てますか、私」


「今日は特に」


 目尻に皺を寄せて笑う。


 アズサは言い返せず、散らばった伝票を集めた。


「今度のは、少し大きいようですね」


「……」


 何も話していない。


 オーディションのことも。


 受かったことも。


 今、何を選ぼうとしているのかも。


 それなのに、この人は時々こういうことを言う。


 西村が拾った伝票の端を、とんとんと揃えた。


「答えが出ないときは」


 視線は手元に向いたままだった。


「ご自分が、やるべきだと思う方を選んでおくものです」


「やるべき……」


「どちらを選んでも、後悔はするものですから」


 揃えた伝票を元の場所へ戻す。


「それなら、ご自分で納得できる方がよろしいでしょう」


 アズサは何も言えなかった。


 何に迷っているのかも聞かない。


 どちらを選べとも言わない。


 西村はそれ以上何も言わず、いつものように軽く会釈した。


「今日はお天気も持ちそうですね。お疲れさまでした」


「……お疲れさまです」


 そのまま奥へ入っていく。


 振り返らなかった。



 誰もいなくなったフロントに立つ。


 ――ご自分が、やるべきだと思う方を選んでおくものです。


 その言葉だけが残った。


 アズサはカウンターを拭く。


 さっき拭いたところを、もう一度拭いた。


 やるべきだと思う方。


 頭の中で繰り返してみる。


 けれど、答えはまだ出なかった。



  * * *



 勤務を終え、ロッカーで私服に着替える。


 ホテルを出ると、朝の空気が頬に触れた。


 道路には、まだところどころ水たまりが残っている。


 駅まで歩く。


 電車に乗る。


 窓の外を流れる景色を眺める。


 その間も、ずっと同じ言葉がついてきた。



 ――やるべきだと思う方。



 部屋へ戻る。


 靴を脱ぎ、鞄を床へ置いた。


 シャワーを浴びる。


 濡れた髪のまま冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を取り出した。


 ベッドの端へ腰を下ろす。


 ようやく、何もしなくていい時間になった。


 一口飲んで、息を吐く。


 静かだった。


 ホテルではずっと動いていた手も、今は止まっている。


 すると、また西村の声が浮かんだ。



 ――ご自分が、やるべきだと思う方を選んでおくものです。



「……やるべき、か」


 小さく呟く。


 どちらを失いたくないか。


 ずっと、そればかり考えていた。


 声優を辞めたくない。


 六年を無駄にしたくない。


 白川さんのところを離れたくない。


 でも。


 その考え方をしている限り、たぶん答えは出ない。



 自分が、今やるべきだと思うこと。



 アズサはペットボトルをテーブルへ置いた。



 ――これで最後にする。



 オーディションを受ける前に、自分で決めたことだった。


 次で駄目なら、区切りをつける。


 そう決めて出した書類だった。


 その最後の一枚が通った。


 何年も越えられなかったところを越えて。


 最後まで残って。


 選ばれた。


 誰かの代わりではない。


 マリナを演じる人間として、自分が選ばれた。



 六年間やってきたから、ここまで来られた。


 低い声も。


 演技も。


 間の取り方も。


 役を考える癖も。


 全部、六年間で身につけてきたものだった。


 マリナを選ぶことは、それを捨てることなのだろうか。



「……違う」



 小さく口にする。


 六年を置いていくんじゃない。


 持っていく。


 声優として積み重ねてきたものを、全部持ったままマリナになる。


 そう考えた途端、ずっと同じ場所を回っていたものが止まった。



 アズサはスマートフォンを手に取った。


 白川さんの名前を開く。


 指が、通話ボタンの上で止まる。


 今これを押せば、もう「考えています」ではなくなる。


 それでも。


 押した。



 一回。


 二回。


 三回。



『もしもし?』


「白川さん」


『アズサちゃん?』


「はい」


『どうしたの?』


 アズサは一度、大きく息を吸った。


「……決めました」


 電話の向こうが静かになる。


『うん』


 スマートフォンを握る手に力を込める。


「私、マリナを専属でやります!!」


 言葉にした瞬間、胸の奥にあったものが、すとんと収まった。


 少しの沈黙。


 やがて、白川さんの声が返ってきた。


『……そっか』


 その声は、少しだけ寂しそうで。


 でも、優しかった。


『じゃあ、最後までちゃんと見届けないとね』


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