第20話「名前だけでも」
ビルを出たところで、アズサは足を止めた。
朝から降り続いていた雨が、いつの間にか上がっている。
濡れた歩道に、雲の切れ間から差し始めた光がぼんやりと映っていた。
傘を開く必要がないことに気づき、折りたたんだまま鞄へ戻す。
受かった。
何度、頭の中で繰り返しても、まだ実感がない。
マリナに選ばれた。
ずっと欲しかったはずの言葉をもらった。
なのに、足取りは軽くならなかった。
駅へ向かって歩きながら、鞄からスマートフォンを取り出す。
連絡しなければならない人がいる。
黒瀬からも、まず担当者へ伝えてほしいと言われていた。
連絡先を開き、白川の名前を押す。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってきた。
『もしもし、アズサちゃん?』
「白川さん」
『うん。終わった?』
「はい」
一度、言葉が止まった。
「……受かりました」
電話の向こうが静かになる。
『え』
「オーディション、受かりました」
『……ほんとに?』
「はい」
『よかったじゃない!』
弾んだ声が返ってきた。
『おめでとう、アズサちゃん。やったじゃない』
「ありがとうございます」
自分でも分かる。
声が、まるで喜んでいない。
白川も気づいたのだろう。
さっきまで明るかった声が、少しだけ落ち着いた。
『……どうしたの?』
「え?」
『受かったんでしょ?』
「はい」
『何かあった?』
アズサは足を止め、通り過ぎる人を避けて建物の脇へ寄った。
「あの」
『うん』
「専属でやってほしいって、言われました」
今度は、電話の向こうからすぐに返事が来なかった。
『……専属?』
「はい。マリナの」
白川が小さく息を吐く音がした。
『今どこ?』
「まだ新宿です。駅に向かってるところで」
『今日、このあと時間ある?』
「あります」
『じゃあ、会おう』
声が仕事のものに変わっていた。
『電話で済ませる話じゃなさそうだから』
「……はい」
* * *
事務所の裏手に、青い看板が出ている。
サードアベニューカフェ。
あの日と同じ店で、あの日と同じ窓際の席に座った。
白川が向かいに腰を下ろし、鞄を椅子の脇へ立てかける。
「改めて」
「はい」
「おめでとう、アズサちゃん」
さっきとは違う、静かな声だった。
「ありがとうございます」
「私が勧めといてなんだけど」
白川が少し笑う。
「本当に受かるとはね」
アズサもつられて笑った。
「それ、ひどくないですか」
「違う違う。そういう意味じゃなくて」
白川も笑いながら手を振る。
「これまで何度も見てきたから、アズサちゃんなら合うと思ったのよ」
少し得意げに口元を緩めた。
「私の見る目も、曇ってなかったってことね」
「自分で言います?」
「言うわよ。六年見てきたんだから」
「ふふ。そうですね」
運ばれてきたコーヒーに、白川が口をつける。
「それで」
カップを置き、表情を少し改めた。
「ちゃんと聞かせて。どういう条件なの?」
「はい」
アズサは鞄からメモ帳を取り出した。
「今回のプロジェクトの発起人で、神代さんという方がいるんですけど」
「うん」
「その方から、条件を提示されました」
開いたページへ目を落とす。
「まず、マリナの活動に必要な機材は、全部用意してくださるそうです。パソコンも、マイクも」
「……全部?」
「はい。それから、向こうから受けてほしいと言われたレッスンも、私が費用を払う必要はないそうです」
白川の表情から、少しずつ笑みが消えていった。
「ちょっと待って」
「はい?」
「機材もレッスン代も、向こう持ち?」
「そう聞きました」
「……へえ」
白川がコーヒーへ手を伸ばす。
けれど、口はつけなかった。
「それだけじゃなくて」
「まだあるの?」
「はい」
アズサは次の行を見る。
「毎月、私の手元に二十万円が残るように報酬を設定するって」
白川の手が止まった。
「……手元に?」
「はい」
「二十万?」
「はい」
「毎月?」
「……はい」
確認するたび、白川の眉がわずかに上がっていく。
「アズサちゃん」
「はい」
「その神代さんって、何者なの?」
「えっと……合同会社NESTの代表で、今回のプロジェクトの発起人だそうです」
「NEST……」
白川はスマートフォンを取り出した。
片手で何度か画面を操作する。
「……何も出てこないわね」
「え?」
「会社のホームページも見当たらない」
検索結果をいくつか開いていく。
しばらくして、今度は別のページへ移った。
「会社自体はあるわね。福岡の合同会社」
「はい」
「代表も神代ユウイチ。そこは名刺と一致してる」
さらに画面を滑らせる。
「でも、本当にそれくらいね。普通に検索して出てくる情報は、ほとんどないわ」
「そうなんですか?」
「ホームページもないし、神代さん本人の情報も見当たらない」
白川はスマートフォンをテーブルへ置いた。
「ずいぶん表に出ない人ね」
「私も、詳しいことは聞いてなくて」
「まあ……」
白川は少し考えてから、コーヒーに口をつける。
「Nexus Liveさんが間に入ってるなら、騙されてるとか、そういう話ではないでしょうけど」
「はい」
「それにしたって」
もう一度、アズサを見る。
「ずいぶん手厚いわね」
「やっぱり、そうなんですか?」
「そうなんですかって……」
白川が呆れたように笑う。
「機材もレッスンも用意して、生活できるだけの報酬まで出すのよ」
少し間を置く。
「少なくとも、駆け出しの子に提示する条件としては、私は聞いたことないわ」
「……そんなに」
「生活の心配はしなくていいから、マリナの活動だけに集中してくれってことでしょ?」
「はい」
白川はしばらく黙っていた。
「ずいぶん本気ね、その人」
その言葉に、アズサは返事ができなかった。
本気。
確かに、そうだった。
「ただ、条件があります」
「でしょうね」
白川がすぐに返した。
アズサはメモ帳へ目を戻す。
「一つの区切りとして、一年。その間にチャンネル登録者五万人を目指してほしいって」
「五万人」
「届かなかった場合は、そこで今の生活保障を含めた条件を終了するそうです」
「それまでにかかったお金は?」
「返さなくていいって。違約金もないそうです」
「……なるほど」
白川が腕を組んだ。
「甘いだけじゃないのね」
「はい」
「環境は用意する。その代わり、ちゃんと結果は求める」
「そういう話でした」
白川が小さく頷く。
それから、テーブルに置いたスマートフォンへもう一度目を落とした。
「……一度、会ってみたいわね」
「え?」
「神代ユウイチって人に」
「白川さんが、ですか?」
「そりゃそうよ」
白川は顔を上げる。
「六年見てきたうちの子に、こんな条件を出してる人なんだから」
「うちの子って……」
「何よ。間違ってないでしょ」
アズサは少しだけ笑った。
白川も口元を緩めたが、すぐに表情を戻す。
「まあ、それは置いといて」
コーヒーカップへ手を伸ばす。
「電話で言ってた専属の話」
「……はい」
「具体的には、どう言われたの?」
「神代さんから、できればマリナ専属という形でお願いしたいって」
「できれば、ね」
「はい」
「Nexus Liveさんからは?」
「私だけで決められる話じゃないから、ヴォイス・リンクとも協議が必要だって言われました」
「そこはちゃんとしてるのね」
白川が小さく頷いた。
「で、アズサちゃん」
「はい」
「専属になるってことが、どういうことか分かってる?」
アズサの指が、メモ帳の端で止まった。
「……声優の仕事は、受けられなくなる」
「そう」
白川は静かに頷いた。
「少なくとも、今までみたいにはいかない」
「はい」
分かっている。
オーディション会場でも、何度も考えた。
それでも、改めて白川の口から聞くと、言葉の重さが違った。
「あの」
アズサは顔を上げた。
「籍だけ、残すことってできませんか」
白川が瞬きをした。
「籍だけ?」
「はい」
「どうして?」
「この前、オーディション会場で会った子がいて」
「うん」
「アリアちゃんっていうんですけど、前からオーディションでよく一緒になってた子で」
白川は黙って続きを待った。
「その子、声優はもうやめたって言ってたんです。でも事務所には籍だけ残ってて、今はライバーのオーディションを受けてるって」
「なるほど」
「だから、私もそういう形にできないのかなって」
話しながら、自分でも分かっていた。
同じではない。
アリアは仕事が来なくなり、籍だけが残っている。
自分はこれから、別の場所で専属になろうとしている。
それでも。
「名前だけでも、残しておきたいんです」
白川はすぐには答えなかった。
少し考えるように視線を落とす。
「……確か」
「はい」
「専属契約を結ぶ場合、うちに籍を置いたままにはできない規定だったはずなのよね」
胸の奥が、わずかに沈んだ。
「やっぱり、無理ですか」
「まだ決めつけない」
白川がすぐに返した。
「私もうろ覚えで言いたくないから」
鞄へ手を伸ばす。
「一度、社長に確認しましょう」
「今からですか?」
「今から」
白川は伝票を手に取った。
「こういうのは、ちゃんと確認してから考えた方がいいわ」
「……はい」
アズサもメモ帳を閉じた。
* * *
社長室では、アズサの向かいに社長が座り、白川が隣で資料を広げた。
説明が始まる。
神代ユウイチという人物。
合同会社NEST。
Nexus Liveとのプロジェクト。
マリナというキャラクター。
そして、アズサがその演者として合格し、専属での起用を打診されていること。
社長は腕を組んだまま聞いていた。
途中で一度も口を挟まない。
「――なるほどね」
説明が終わってから、社長が資料を手に取った。
ぱらぱらと捲る。
「その話、どこから来た」
「うちに届いていた募集です。私が見つけて、この子に勧めました」
社長がしばらく黙る。
「……ああ、あれか」
思い出すまでに、少し間があった。
ここにも届いていた。
「個人での応募になりますので、事務所は関与していません。ただ、専属の打診が来た以上、先にご相談すべきかと」
「筋は通ってる」
社長が資料をテーブルへ戻した。
「で、専属か」
背もたれに体を預ける。
「籍を残したままでは無理でしょうか」
白川が身を乗り出した。
「無理だ」
即答だった。
「在籍したまま他所の専属契約は結べない。規定にある」
「特例は」
「作れんよ。他の子に示しがつかん」
社長が視線をアズサに移した。
「専属でやるなら、退所してもらうことになる」
その一言が部屋に落ちる。
分かっていた。
頭では、分かっていたつもりだった。
それでも実際に言葉にされると、胸の奥が締まった。
「社長」
白川の声が硬くなる。
「この子は六年うちで頑張ってきました。何か方法はないんですか」
「白川」
社長は静かだった。
「気持ちは分かる。だが規定は規定だ」
「……」
「それに」
もう一度、アズサを見る。
「悪い話じゃないと思うがな。専属で大きなプロジェクトに関われるチャンスだ。うちに残って、今のまま燻り続けるより、よっぽど――」
「社長」
白川が遮った。
「それは、アズサちゃんが決めることです」
社長が少し驚いたように白川を見る。
それから、小さく肩をすくめた。
「……そうだな。すまん」
部屋に沈黙が落ちた。
アズサは膝の上で握っていた手を、ゆっくりと開いた。
ここに残るなら、マリナの専属にはなれない。
マリナを選ぶなら、六年間いたこの事務所を離れることになる。
どちらも欲しい。
けれど、それはできない。
「あの」
声を出すと、二人の視線がこちらへ向いた。
「少し、時間をいただけませんか」
社長が何も言わずに続きを待つ。
「ちゃんと考えてから、答えを出したいです」
少しだけ間があった。
「ああ」
社長が頷いた。
「それでいい」
「ありがとうございます」
アズサは深く頭を下げた。
* * *
社長室を出ると、白川が隣を歩いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「……アズサちゃん」
「はい」
「今日はもう帰る?」
「あ」
アズサは腕時計を見る。
「すみません。このあと、バイトなので」
「……今日も?」
「はい。夜勤です」
白川が何か言いかけて、やめた。
「そう」
「じゃあ、私そろそろ行きます」
「うん」
アズサは小さく頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「また連絡して」
「はい」
数歩進んでから、振り返る。
白川はまだ廊下に立っていた。
軽く手を上げると、白川も同じように返した。
アズサはそのまま歩き出した。
マリナを選ぶのか。
声優を続けるのか。
答えはまだ出ていない。
「それでも今夜は、いつも通りホテルのフロントに立つ。
夢を追いながら働く日々を、六年間ずっと続けてきたように。」




