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売れない声優の私が、なぜか大富豪に見初められました。  作者: つきしろえにし
第一章 それぞれの選択
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第19話「選ぶということ」

扉がノックされた。


「失礼します」


 先に入ってきたのは、さっきコントロールルームでマイクを握っていたスーツ姿の男だった。


 その後ろから、黒いTシャツにジーンズ姿の男。


 さらに、タブレットを抱えた髪のはねた男が続く。


 ブースの向こうにいた三人だ。


 アズサは慌てて立ち上がった。


「どうぞ、そのままで」


 スーツ姿の男に促され、もう一度ソファへ腰を下ろす。


 三人も向かい側に座った。


 改めて向かい合うと、さっきまでガラス一枚を隔てていた相手とは思えないほど近く感じる。


「まずは改めて自己紹介を」


 スーツ姿の男が名刺を差し出した。


「Nexus Live代表の黒瀬リョータと申します。本日の選考では、審査全体を担当させていただきました」


「あ……中村アズサです。本日はありがとうございました」


 両手で名刺を受け取る。


 代表取締役。


 印字された肩書きを見て、やはりそうだったのかと思った。


「そして、こちらが」


 黒瀬が隣へ視線を向ける。


「今回のプロジェクトの発起人であり、エグゼクティブプロデューサーを務めていただいている神代様です」


(……様?)


 アズサは思わず顔を上げた。


 会社の代表である黒瀬が、隣の男を様付けで呼んでいる。


 その本人は、相変わらず黒いTシャツにジーンズ姿だった。


 さっきまでガラスの向こうで身を乗り出していた人。


 神代が名刺を差し出す。


「神代ユウイチです。よろしくお願いします」


「中村です。よろしくお願いいたします」


 両手で受け取り、名刺へ目を落とす。


 神代ユウイチ。


 その下には、合同会社NESTと書かれていた。


(……合同会社? NEST?)


 名刺を見ても、何をしている会社なのかはさっぱり分からない。


 アズサはもう一度、目の前の男を見た。


 服装だけなら、三人の中で一番立場が分からなかった。


 けれど、黒瀬の紹介を聞く限り、このオーディションそのものに深く関わっているらしい。


「それから」


 黒瀬が反対側へ顔を向けた。


「マリナのLive2D制作を担当している、矢野ユタカさんです」


 呼ばれた矢野が、わずかに肩を揺らした。


 膝の上に置いていたタブレットを脇へ寄せ、名刺入れを取り出す。


「あ……矢野です」


 名刺を一枚抜くのに少し手間取ってから、アズサへ差し出した。


「Live2Dの……モデルを作ってます」


「あ、ありがとうございます」


 アズサが名刺を受け取る。


 矢野は一度視線を落としてから、思い出したように顔を上げた。


「……あの」


「はい?」


「模擬配信の時、中村さん自身が、だんだんマリナになっていくのを見てて」


 アズサは目を瞬いた。


「すごく感動しました」


「……私が?」


「はい」


 矢野は大きく頷いた。


「頑張ってモデル作ります!」


 それだけ言うと、どこか照れたように視線を逸らした。


 アズサは返す言葉を探した。


 自分では、そんなつもりはなかった。


 マリナになろうとしていたのは、むしろ最初の方だった。


 途中からは、コメントに返して、笑って。


 最後の方なんて、審査を受けていることさえ少し忘れていた。


(……私が、マリナに?)


 言われても、まだよく分からなかった。


(この人が……)


 さっきまで自分と一緒に動いていたマリナ。


 あの子を動く形にした人。


 そう思って見ると、聞きたいことがいくつも浮かんできた。


 けれど、今ここで何から聞けばいいのか分からない。


 アズサは三枚の名刺を膝の上へ並べた。


 黒瀬リョータ。


 神代ユウイチ。


 矢野ユタカ。


 ガラス一枚を隔てて見ていた三人に、ようやく名前がついた。


「では、改めまして」


 黒瀬がアズサを見る。


「中村さん。合格おめでとうございます」


「……ありがとうございます」


 また、その言葉が来た。


 合格。


 返事はできる。


 けれど、その二文字はまだ自分の中でふわふわと浮いたままだった。


「この後の流れについて、簡単にご説明します」


 黒瀬が手元の資料を開いた。


「まず、中村さんは現在ヴォイス・リンク所属ですので、正式な契約や今後のスケジュールについては、ヴォイス・リンクさんとも協議させていただくことになります」


(白川さんにも……)


 真っ先に担当マネージャーの顔が浮かんだ。


「契約がまとまりましたら、デビューへ向けた準備期間に入っていただきます。Live2Dの調整、トラッキングや配信ソフトの操作、実際の配信を想定したレッスン。機材の選定や、初配信へ向けた準備も並行して進めていく予定です」


 黒瀬が資料を一枚めくる。


 レッスン。


 機材。


 モデル調整。


 初配信。


 どれも「もし合格したら」の話ではない。


 これから自分がやることとして説明されている。


 少しずつ、合格という言葉の輪郭が見え始めた。


「ここから先は、契約条件についてのお話になります」


 黒瀬の声が、わずかに改まった。


「神代様から、ご希望されている条件がありますので」


 神代が小さく頷いた。


 それまでとは違って、少し姿勢を正す。


「中村さん」


「はい」


「マリナを中心に活動してもらいたいと思っています」


「……中心に、ですか?」


「はい」


 神代は一度言葉を切った。


「できれば、マリナ専属という形でお願いしたいです」


 アズサの指が、膝の上で止まった。


「神代様。そこは私から補足させてください」


「あ、はい。お願いします」


 黒瀬はアズサへ向き直った。


「中村さん。念のためご説明しますが、現在はヴォイス・リンクに所属されていますので、専属という形を取る場合、ご本人の意思だけで決められるものではありません。所属事務所との協議も必要になります」


「……はい」


「もちろん、その点はこちらも承知しています。そのうえで、まずは神代様のご希望としてお伝えしています」


(……ちゃんと言うんだ、この人)


 神代様、と呼んでいる。


 だからといって、何でも神代の言う通りというわけではないらしい。


 神代は改めてアズサへ向き直った。


「そのうえでの話なんですけど」


「はい」


「マリナを中心として活動してもらう以上、中村さんの生活は俺が保障します」


「……生活を?」


「はい。生活のために別の仕事をしながら、空いた時間でマリナをやってください、とは言いたくないんです」


 神代は一度言葉を切った。


「こっちが本気でやってほしいとお願いするなら、そのために必要な環境はこっちで用意するべきだと思っています」


 それから黒瀬へ視線を向けた。


 黒瀬が小さく頷く。


「具体的な条件については、私からご説明します」


 手元の資料へ目を落とした。


「報酬については、毎月、中村さんの手元に二十万円が残る形で設定する予定です。正式な支払い方法についてはヴォイス・リンクさんとの協議が必要になりますが、Nexus Liveを経由してお支払いします」


「……手取りで、二十万?」


「はい」


 黒瀬は淡々と答えた。


「また、こちらから受講をお願いするレッスンについて、中村さんに費用を負担していただくことはありません。そちらも神代様のご負担となります」


「レッスン代も……?」


「はい」


 アズサが神代を見ると、神代は何でもないことのように頷いた。


「こっちがお願いして受けてもらうものですから」


 さらに神代が続ける。


「マリナの活動に必要な機材も、こちらで用意します。PCもマイクも、必要になるものは全部です」


 アズサの頭の中では、すぐに計算が追いつかなかった。


 手取りで二十万円。


 機材は用意してもらえる。


 レッスン代もかからない。


 生活のためにホテルの夜勤へ行かなくてもいい。


 声の仕事だけを考えて、一日を使える。


 六年間、そんな生活ができたことは一度もなかった。


「あの……」


 アズサは少し迷ってから口を開いた。


「生活を保障していただけるというのは……どこまで、なんでしょうか」


「どこまで?」


「その……ずっと、というわけではないですよね」


「ああ」


 神代は小さく頷いた。


「そうですね。そこは、ちゃんと目標を持ってやってもらいたいと思っています」


 先ほどまでと変わらない口調だった。


 けれど、答えははっきりしていた。


「ただ、人気も出ずにだらだら配信を続けてもらっても、俺も困りますし、リスナーにとってもいいものにはならないと思うので」


 アズサは黙って続きを待った。


「一つの区切りとして、一年です」


「一年……」


「一年で、チャンネル登録者五万人を目指してもらいます」


 五万人。


 その数字だけが、妙にはっきりと耳に残った。


「そこに届かなかった場合は、その時点でいったん打ち切りとさせてもらいます」


「……打ち切り」


「はい」


 神代は曖昧に笑わなかった。


「神代様。そこは私から補足させてください」


 再び黒瀬が口を挟んだ。


「中村さんに違約金や、それまでにかかった費用の返還を求めるという意味ではありません。一年を一区切りとして、生活保障を含む現在の条件を終了する、という意味です」


「あ……はい」


 神代が何かを口にすると、黒瀬が必要な部分だけを拾って、現実の形に直していく。


 そのやり取りを見ていると、二人の役割が少しだけ分かった気がした。


「生活を保障する以上、こっちも中村さんに結果を求めます」


 神代が続ける。


「そこは最初から、お互いに分かっていた方がいいと思っています」


「……はい」


 恵まれている。


 たぶん、かなり。


 そう思う。


 なのに、胸の奥には別のものが引っかかっていた。


「……少し、考えさせてください」


 口にしてから、アズサは膝の上で組んだ指に力を入れた。


 合格した。


 ずっと欲しかった言葉を、ようやくもらえた。


 それなのに、その先に待っていたのは、ただ喜ぶだけでは済まない話だった。


 マリナを中心に活動する。


 一年間で、登録者五万人。


 届かなければ、そこで一区切り。


 生活は保障される。


 機材も、レッスンにかかる費用も負担してもらえる。


 ホテルの夜勤を続ける必要はなくなる。


 声の仕事だけを考えて、生きていける。


 それは、六年間ずっと欲しかった環境のはずだった。


 なのに。


(……声優は?)


 胸の奥に、その問いだけが残った。


 六年間。


 売れなかった。


 端役ばかりだった。


 オーディションに落ちた回数なんて、もう覚えていない。


 それでも、やめなかった。


 やめられなかった。


 その六年間を、今ここでどうすればいいのか。


 神代はすぐに頷いた。


「もちろんです」


 少しだけ表情を緩める。


「まあ、こういう話は最初にちゃんとしておいた方がいいと思いますので」


「……はい」


「後から聞いてないってなるのが、一番よくないですから」


 アズサは小さく頷いた。


 目の前には、ようやく見つけたかもしれない新しい道がある。


 そのはずなのに。


 今まで歩いてきた道が、急に背中側へ遠ざかったような気がした。


 そこで黒瀬が口を開いた。


「正式な契約については、ヴォイス・リンクさんとの協議が必要になります」


 アズサへ向き直る。


「本日の内容を、まず中村さんから所属事務所へお伝えいただけますか」


「私から……ですか?」


「はい。先ほどお渡しした名刺に私の連絡先がありますので、ご担当者様からご連絡いただければ、以降はこちらでお話しさせていただきます」


 アズサは膝の上に置いた名刺へ目を落とした。


「担当は白川さんなので……白川さんに話せばいいですか?」


「はい。お願いいたします」


「それでは、本日はここまでとなります。ありがとうございました」


 黒瀬がそう告げると、アズサは膝の上の名刺をまとめて立ち上がった。


「……ありがとうございました」


 三人へ頭を下げる。


 応接室を出ていくその足取りは、どこか重かった。


 扉が閉まる。


* * *


 神代は、閉じた扉をしばらく見ていた。


「……なんか」


「はい?」


 黒瀬が資料をまとめながら顔を上げる。


「オーディションに受かったのに、あんまり嬉しそうじゃなかったですね」


 神代は首を傾げた。


「俺、なんか悪いこと言いましたかね?」


 黒瀬の手が止まった。


「……専属、ではないですかね」


「専属?」


「中村さんは、六年間声優を続けている方です」


「ああ……」


「合格したと思ったら、その直後に今までの活動をどうするか考えてください、と言われたようなものですから」


 神代は腕を組み直した。


「……なるほど」


 そこまでは考えていなかった。


「でも、できれば専属でやってもらわないと……」


「ええ」


 黒瀬は否定しなかった。


「こちらとしても、専属でやっていただける方が助かります」


「ですよね」


「配信のスケジュールも組みやすいですし、レッスンや収録も含めて、マリナの活動を優先していただけるのであれば、運営としてもありがたいです」


 黒瀬はそこで少し間を置いた。


「ただ、中村さんにとっては、単に活動の形を決めるだけの話ではないんだと思います」


「……ああ」


 六年間。


 神代はその数字を、ただ経歴として聞いていた。


 声優を六年やっている。


 それだけだった。


 その六年間に何があったのか。


 何を諦めずに続けてきたのか。


 その先に何を見ているのか。


 そこまでは考えていなかった。


「……たしかに」


 神代は小さく息を吐いた。


「彼女のことは、何も考えてなかったですね」


「と、言いますと?」


「マリナをどうするかばっかり考えてました」


 神代は少し考えてから続けた。


「中村さんが今まで何をやってきたかとか、それをこれからどうしたいかとか……そこまでは考えてなかったです」


 口にしてから、少し眉を寄せた。


「……まずかったですかね」


「専属を希望されたこと自体は、問題ないと思います」


 黒瀬は首を横に振った。


「こちらとしても、その方が望ましいですから」


「ですよね……」


「ただ、中村さんにとっては大きな選択になる。それだけです」


 黒瀬が少しだけ表情を緩める。


「だからこそ、今日は返事を求めなくて正解だったと思います」


「……そうですね」


 神代は小さく息を吐いた。


「それに」


「はい?」


「そこまで考えるエグゼクティブプロデューサーは、そういませんよ」


 神代は黒瀬を見る。


「……そういうもんですか」


「そういうものです」


 黒瀬は一度そこで言葉を切った。


「ですが、神代様は少し自覚された方がいいかもしれません」


「何をです?」


「あなたには、人一人の人生を変えるだけの力がある。そのことを、です」


* * *


 ホテルへ戻った神代は、コンビニで買ってきた缶のハイボールを開けた。


 つまみの袋を破り、デスクの上へ置く。


 テレビはつけていない。


 静かな部屋で一口飲んだところで、ふと黒瀬の言葉が蘇った。


「あなたには、人一人の人生を変えるだけの力がある。そのことを、です」


「……人生を変える、か」


 神代はハイボールを一口飲んだ。


 中村アズサ。


 声優を六年。


 今日、自分はその人に言った。


 マリナを中心に活動してほしい。


 できれば、専属で。


 生活は保障する。


 機材も用意する。


 レッスンにかかる費用も負担する。


 できるだけ不安なく、マリナに集中できる環境を作る。


 そのつもりだった。


 けれど。


 神代の手が止まった。


「……待てよ」


 条件を良くする。


 生活の心配をしなくていいようにする。


 必要なものは、こちらで全部用意する。


 そう思って並べたものが、別の形に見え始める。


 こちらを選んだ方がいい。


 そう思わせるために、金を使っているだけなんじゃないか。


「俺……金で断りにくくしてるだけじゃないのか」


 こっちへ来れば生活は保障する。


 機材も用意する。


 レッスン代も出す。


 そうやって、一つずつ条件を積み上げて。


「……こっちを選ぶように、誘導してるんじゃないのか」


 そこまで考えて、神代の顔から血の気が引いた。


「俺は……彼女に、六年を捨てろって言ったのか?」


 六年。


「……六年だぞ」


 口にした瞬間、その時間が急に重さを持った。


 自分にとっては、経歴に書かれた数字でしかなかった。


 でも彼女にとっては違う。


 二十歳そこそこから今日まで。


 その時間を使って、続けてきたものだ。


「……っ」


 胃の奥が強く縮んだ。


 神代は口元を押さえ、椅子を蹴るように立ち上がった。


 そのままトイレへ駆け込み、便器の前に膝をつく。


「うっ……」


 喉の奥までせり上がってくる。


 何度かえずきながら、神代は便器の縁へ手をついた。


 投資なら、失敗しても金が減るだけだ。


 けれど、人の人生はそうじゃない。


 自分の一言で、中村アズサが六年間歩いてきた道を変えるかもしれない。


 そんな重さを背負う覚悟なんて、したことがなかった。


 しばらくして、神代は荒い息を整えた。


「……専属で来てくれるなら」


 誰に聞かせるでもなく、呟く。


「せめて、最高の環境を彼女に提示しよう」


 それくらいしか。


 今の自分には、できない。


 神代は便器の前に座り込んだまま、しばらく動けなかった。



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