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売れない声優の私が、なぜか大富豪に見初められました。  作者: つきしろえにし
第一章 それぞれの選択
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第18話「Link」

『では、このままLive2Dを使用した模擬配信をお願いします』


 黒瀬が卓のマイクへ身を屈めた。


『時間は五分程度。画面に想定コメントが流れますので、配信をしているつもりで進めてください』


『……はい』


 ブースの中で中村アズサが小さく頷くのが見えた。


 神代は壁際に戻ったまま、正面のモニターを見た。


 深紅の髪の子が、少しだけ首を傾けてこちらを向いている。



  * * *



 配信が始まった。


「こんばんは。マリナです」


 自分の声に合わせて、画面の中のマリナの口が動く。


 さっきまで散々動かしていたはずなのに、実際に配信が始まったと思うと、また少し緊張した。


 画面の右側にコメントが流れる。


 ――初見です。


「初見さん、いらっしゃい」


 そこまではすぐに出た。


 けれど、その次で言葉が止まる。


(……なんて返そう)


 初見の人に、マリナならどう声をかける。


 考えてから、ようやく続きを口にした。


「来てくれてありがとう。気楽に見てって」


 ほんの少し遅れた。


 自分でも分かる。


 配信者なら、もっとぽんぽん返せるのだろうか。


 考えている間にも、次のコメントが流れてきた。


 ――今日、仕事でミスしました。


(仕事でミス……)


 励ます。


 大丈夫だと言う。


 一瞬、そんな言葉が浮かんだ。


 でも、どちらも違う気がした。


 マリナなら、たぶん簡単に大丈夫とは言わない。


「……そっか」


 まず、それだけを置いた。


「まあ、あるよね。そういう日」


 少し間を置いて、続ける。


「今日はもう、何もしなくていいんじゃない」


 言ってから、自分の中で確かめる。


 無理に立たせなくていい。


 今日は座っていてもいいと伝えるだけでいい。


 次のコメントが流れた。


 ――マリナさん緊張してます?


「……してるよ」


 今度は、考えるより先に出た。


「初めてなんだから、するでしょ」


 自分で言って、少しおかしくなる。


 口元が緩んだ。


 画面の中のマリナも笑う。


(……あ)


 今のは、マリナならどう答えるかなんて考えていなかった。


 ただ、聞かれたから答えた。


 それなのに、不思議と違う感じはしない。


 次のコメントへ目を移す。


 少しだけ、さっきより息がしやすくなっていた。



  * * *



 三分ほど過ぎた頃、自分がほとんどモニターを見ていないことに気づいた。


 正面には深紅の髪の子が映っている。喋るたびに口が動き、時々まばたきをしている。


 それなのに目が向くのは、ガラスの向こうだった。


 中村アズサが視線を少しだけ落として、また上げる。逸らしきらずに、どこかへ残す。


 顎がわずかに引かれている。


 笑うときも、口の端だけが動く。


 最初にブースへ入ってきたときは、そんな顔をしていなかったはずだった。


 もっと固くて、真っ直ぐで、審査を受けに来た人間の顔をしていた。


 神代は瞬きを一つした。


(……こんな目だったっけ)


 切れ長に見えた。


 そんなはずはない。この人の目はもっと丸い。入ってきたときに見ている。


 髪は栗色だ。瞳も黄金色ではない。顔立ちも似ていない。


 それなのに、目が離せなかった。


 モニターの中の子ではなく、ガラスの向こうにいる人を見ながら、神代はマリナを見ている気になっていた。


(なんでだ)


 さっきまでなら、モニターを見ていた。


 マリナが動くところを見たくて、あれだけ前まで出ていた。


 なのに今は、そちらを見る必要を感じない。


 声が聞こえるたびに、目は自然とガラスの向こうへ向かう。


 そこにいるのは中村アズサだ。


 分かっている。


 それでも。


 神代には、あの子がそこにいるように見えた。



 その時、卓のスタッフが小さく手を動かした。


 打ち合わせ通りだった。全員に同じことをしている。


 神代はそちらを見ていなかった。


 気づいたのは、ブースの中の人が動きを止めたからだった。



  * * *



 まばたきをした。


 視界が戻ったとき、アズサは何かが違うことに気づいた。


 最初は分からなかった。喋りながら、モニターの端を見る。


「……ん?」


 深紅の髪の子が、こちらを向いたまま止まっている。


 もう一度まばたきをしてみた。


 動かない。


「え、止まった?」


 画面をちゃんと見る。


 目を閉じきる寸前だった。上瞼が半分だけ下りたところで、そのまま固まっている。


「……なんで半目なの」


 思わず吹き出した。


 よりによってそこで止まるのか。決め顔でもなんでもない。ただの間抜けな顔だった。


 笑ってから、慌てた。


「え、ちょっと待って。どうしよう」


 配信中に機材が止まったらどうするのか。この一週間で見てきたはずだった。黙って直すのではなく、今何が起きているのか伝える。それは覚えている。


 覚えているのと、できるのは別だった。


(えっと、こういう時は……)


 考えている間にも、コメントが流れる。


 ――顔w


 ――半目かわいい


 ――スクショした


「ちょっと、スクショはやめて」


 考えるより先に口が出た。


 ――保存した


「早いって」


 自分でも笑ってしまった。


 止まった画面の中で、マリナがずっと半目のままこちらを見ている。


 どうしようもなかった。


(もう……何なの、これ)


 でも、さっきまであれだけ張っていた肩から、少し力が抜けていた。


 アズサは一度、深く息を吐いた。


 声は出ている。ヘッドホンの中に自分の声が返ってきている。それなら、聞こえてはいるはずだった。


「というか、声は聞こえてる?」


 ――聞こえてる


「そっか……よかった」


 肩から力が抜けた。


 顔が動かないだけだ。それなら、話せばいい。


「じゃあ、直るまでこのまま話してよっか。半目だけど」


 言ってから、また吹き出した。


 自分で言って自分で笑ってしまった。


 緊張が、さっきより薄い。


 あれだけ準備してきたのに、崩れた瞬間の方が息がしやすかった。


(なんだろう)


 さっきまでは、コメントが来るたびに考えていた。


 マリナならどう返す。


 どんな言葉なら、この子らしい。


 今はもう、それを考えていない。


 話すことを探した。


 特別なことは何も浮かばなかったので、今日ここへ来るまでのことを話した。それから、絵の話になった。


「ペンタブの芯ってさ、気づいた時には斜めになってるんだよね」


 ――わかる


「やっぱり? あれ、いつからあの形になってるんだろ」


 ――あるある


「よかった。仲間いた」


 コメントが返ってくる。それを拾って、また話す。


 誰かが遅れて入ってきたのが分かったので、今こういう状況なのだと一度説明した。


 そういうことを、考えずにやっていた。


(……さっきより、楽かも)


 上手く喋ろうとしていない。


 マリナらしくしようともしていない。


 ただ、向こうから来た言葉に返している。


 それだけなのに、会話が続いていく。


 画面の中のマリナは、まだ半目のまま止まっている。



  * * *



 ガラスの向こうで、中村アズサが笑っていた。


 半目で止まった瞬間、神代は思った。


(あ、中村さんに戻った)


 姿勢が崩れている。顎の角度も、視線の置き方も、さっきまでとは違う。


 隣で小さな音がした。


 矢野がタブレットに何かを書き込んでいる。ひどく速い手つきだった。


「矢野さん、何してるんです」


「ちょっと修正項目を」


「今?」


「今です」


 矢野は顔を上げなかった。


「……半目でも可愛く見えるようにしないと」


 神代は思わず笑いそうになって、口を押さえた。


 それから、また視線をガラスの向こうへ戻す。


 中村アズサは、まだ喋っていた。


 声は素のままだった。演技をしている感じはどこにもない。


 それなのに、神代は少しずつ違和感を覚えていた。


(……いつ戻った?)


 半目で止まった瞬間、あの人は完全に中村アズサだった。


 慌てて、笑って、スクショはやめてと素で言っていた。


 そこまでは分かる。


 そのあとだ。


 いつマリナへ戻った。


 神代は記憶を巻き戻した。


 声を作り直した瞬間はなかった。姿勢を正した瞬間もない。息を吸って演技に入る、あの分かりやすい間もなかった。


 ただ喋っていただけだった。


(じゃあ、どこだ)


 分からない。


 そもそも、戻ったという言い方が正しいのか。


 神代はガラスの向こうを見た。


 中村アズサが笑っている。


 半目のマリナを笑い、コメントに返して、自分の話をしている。


 間違いなく、中村アズサ本人だ。


 それなのに。


(……マリナだ)


 境目がない。


 探しても見つからないのは、最初から存在しないからだった。


 神代はそこで、ようやく分かった気がした。


 マリナらしい台詞を言うからマリナなのではない。画面の中で絵が動いているからでもない。


 人との距離の取り方。低い声の底に残る温度。踏み込みすぎない優しさ。相手を急かさずに待つ間。置いていかれた人へ戻る癖。


 あの人が元から持っているものが、そのままマリナにつながっている。


 同じ人間ではない。二人は別だ。


 それでも、確かにつながっていた。



 卓のスタッフが手を戻した。


 モニターの中で、半目だった子がまばたきをして、こちらを向いた。


「あ、戻った」


 中村アズサの声は普通だった。大げさな安堵もない。


「よかった。ずっとあの顔だったらどうしようかと思った」


 ――もう遅い


 ――保存済み


「だから早いって」


 そのまま模擬配信は終わった。


『ありがとうございました。そのままお待ちください』


 黒瀬がマイクを切った。


 部屋が静かになる。


 神代は壁から背を離した。


「黒瀬さん、すいません……」


 言いながら、自分でも少し驚いていた。


 声が落ち着いている。


「この子です」


 黒瀬がこちらを向いた。


「神代様、先ほども申し上げましたが……」


「この子なんですよ」


 被せた。


 声は荒げていない。押しつけてもいない。


 ただ、もう迷っていなかった。


 黒瀬はしばらく神代を見ていた。それから視線をガラスの向こうへ戻す。


 少し間があった。


「……そうですね」


 黒瀬が言った。


「私も見ていて、中村さんだと思いました」


 それだけだった。


 押し切られた顔ではない。最初から最後まで自分の目で見て、同じところへ辿り着いた顔だった。


 黒瀬が卓のマイクへ手を伸ばした。



  * * *



 ブースの中で、アズサはヘッドホンを外していいのかどうか迷っていた。


 終わった、とは言われた。


 けれど、何がどう伝わったのかは分からない。


 半目で止まった。


 慌てた。


 スクショはやめてと言った。


 途中で笑ってしまった。


(……あれで、よかったのかな)


 声優のオーディションなら、まだ分かる。上手く読めたか、役に合っていたか、その判断は自分でもある程度つく。


 今日のこれは、何を見られていたのかすら分からなかった。


 途中からは、審査を受けていることさえ少し忘れていた気がする。


(もっとちゃんとやった方がよかった……?)


 そう思ったところで、半目のマリナが頭に浮かぶ。


(……いや、あれは無理でしょ)


 少しだけ口元が緩んだ。


 それでも、手応えという言葉を探してみると、手の中には何も残っていない。


 ヘッドホンから、声が入った。


『中村アズサ様』


「はい」


 背筋が伸びた。


『合格です』


 言葉が、耳の中を滑っていった。


「…………え?」


 聞き間違えたのかと思った。


 合格。


 その二文字が頭の中で一度跳ねて、それから戻ってくる。


 一次を通ったことなら何度もある。二次へ進んだこともある。


 けれど、最後まで残って合格と告げられたのは。


(いつぶりだろう)


 思い出せなかった。


 嬉しいはずだった。


 それなのに、その言葉は自分のものとして下りてこない。どこか高いところで浮いたまま、着地する場所を探している。


 心臓だけが、少し遅れて速くなり始めた。


 アズサはマイクの前に立ったまま、小さく口を動かした。


「……合格」


 声には、ならなかった。


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