第17話「重なる」
「こんばんは。マリナです」
ヘッドホンから流れてきた声を聞きながら、神代はガラスの向こうを見ていた。
低く、少し掠れた声。
その掠れの奥に、妙に耳へ残る艶がある。
さっき名乗った時にも感じた、妙な引っかかりがまだ残っている。
「来てくれてありがとう。今日も、ゆっくりしていってね」
上手い。
それだけなら、今日何度も思った。
声優なのだから当然なのだろう。間の取り方も、言葉の置き方も、自分にはできないことばかりだ。
けれど、さっきまで聞いてきた人たちとは何かが違う。
「そんなに緊張しなくていいよ」
一拍。
「……私は見てるから」
励ましているのに、近づきすぎない。
優しいのに、甘やかしている感じもしない。
ずっと眺めてきたあの顔が、頭の中に浮かぶ。
深紅の髪。
黄金色の瞳。
黒いチョーカー。
もし、あの子が喋ったら。
そんなことを何度考えただろう。
声を決めたことはなかったし、口調も細かな性格も決めていない。
それでも、違うものを聞けば違うと感じた。
そして今は。
違う、と思わなかった。
「……またね。次もちゃんと来てよ?」
最後の言葉がヘッドホンから消える。
黒瀬が卓のマイクへ身を屈めた。
『では次に、アドリブをお願いできますか』
「……アドリブ、ですか」
中村アズサの声が返ってきた。
さっきまでとは少し違う。
素の声だ。
けれど、不思議とそこで何かが切れたようには感じなかった。
『はい。台本はありません。この場で自由に喋ってみてください』
ブースの中で、中村アズサが目を閉じる。
少し長い沈黙があった。
神代は黙って待つ。
何を話すのだろう。
やがて彼女が目を開けた。
「……みんな、今日はどんな一日だった?」
誰もいないはずの場所へ話しかける。
絵の話だった。
同じ線を何度も引いて、消して、それでもたまに一本だけ、すっと決まる。
その一本のためにやっている。
特別面白い話ではない。
笑わせるようなことを言っているわけでもない。
それでも、神代は聞いていた。
「……私も今、そんな顔してるかも」
彼女が小さく笑う。
「だから、無理して笑わなくていいよ」
一拍。
「今日も、お疲れさま」
声が途切れた。
静かになったブースを、神代はしばらく見ていた。
何だったのだろう。
上手かったから。
それだけではない。
声が好みだったから。
それも違う気がする。
さっきまでずっと感じなかったものが、今はある。
気づいた時には、口が動いていた。
「この子でいいんじゃないかな?」
「神代様」
すぐ横から声がした。
神代は黒瀬を見る。
「はい?」
黒瀬は一度だけ間を置いた。
「お気持ちは分かります。ただ……今の言い方は、少し違うかと」
「え?」
「『この子でいい』では、これまで受けていただいた方々を、最初から候補ではなかったように聞こえてしまいます」
責めるような言い方ではなかった。
「皆さん、それぞれ準備をして、時間を使って、ここまで来ていただいていますから」
「あ」
そこでようやく、自分が口にした言葉を思い返した。
「……すみません」
神代は素直に頭を下げる。
「そういう意味で言ったわけじゃなかったんですけど……言い方が悪かったです」
「はい」
黒瀬はそれ以上責めなかった。
「ただ」
少しだけ声が緩む。
「そうおっしゃりたくなったお気持ちは、分からなくもありません」
神代は顔を上げた。
「ですよね?」
「そこまで同意はしていません」
「あ、はい」
即座に返され、口を閉じる。
黒瀬はガラスの向こうへ視線を戻した。
「ですが、まだ審査は終わっていません」
「はい」
神代もブースを見る。
そこでようやく、自分がいつの間にか卓のすぐ近くまで来ていることに気づいた。
「……あれ」
さっきまで、後ろの壁にもたれていたはずだ。
いつ前に出たのか、まるで覚えていない。
黒瀬も気づいていたのだろう。
「先ほどから、ずいぶん前に出ておられましたよ」
「いつからです?」
「さあ」
わずかに間を置いて、黒瀬が尋ねる。
「それで、神代様」
「はい」
「なぜ、中村さんだと思われたんですか」
「なぜ……」
改めて聞かれると困った。
まだ、うまく説明できない。
神代は頭を掻きながら、ガラスの向こうを見る。
「なんでしょうね」
中村アズサは、次の指示を待っている。
「なんか……いたんですよ」
「いた?」
「マリナが」
黒瀬が黙った。
自分でもおかしな説明だと思う。
「いや、まだ上手く言えないんですけど」
神代は視線を外さなかった。
「今までの人を見てた時は、ずっと『上手いな』って思ってたんですよ」
「はい」
「でも、この人を見てる時は……それを考えてなかったというか」
そこで言葉が止まる。
「気づいたら、マリナを見てる気になってました」
黒瀬は何も返さなかった。
まだ、これ以上うまく説明できない。
しばらくして、黒瀬が小さく息を吐いた。
「わかりました」
ガラスの向こうへ目を戻す。
「では、Live2Dを使った実演に移ります。準備をお願いします」
その言葉を境に、コントロールルームの空気が切り替わった。
正面のモニターが切り替わり、卓の端にいたスタッフが機材の前へ移る。別のスタッフも画面を確認しながら操作を始めた。
誰も慌ててはいない。
それぞれが自分の持ち場で、迷いなく手を動かしている。
矢野もタブレットを操作しながら、何度か正面のモニターと見比べていた。
さっきまで審査をしていた部屋が、その一言を境に制作の現場へ変わったように見える。
神代には、何をどう操作しているのか半分もわからない。
ただ、全員の意識が一斉に同じところへ向いたことだけはわかった。
『中村さん、お待たせしました』
黒瀬が卓のマイクへ身を屈める。
『これからLive2Dを使った実演に移ります。準備をしますので、そのままお待ちください』
正面のモニターに、深紅の髪が映し出された。
神代は思わず息を止める。
「神代さん」
隣から矢野が小声で呼んだ。
「これ、選考用なので。完成版じゃないです」
「はい」
「表情もまだ少ないですし、動きも簡単なものだけです」
「わかってます」
わかってはいた。
それでも、モニターから目を離せなかった。
* * *
ヘッドホンから、そのまま待つように言われた。
アズサは譜面台の台本を脇へ置き、正面のモニターを見る。
画面が切り替わった。
深紅の髪。
黄金色の瞳。
見慣れているはずの少女が、そこにいた。
アズサは小さく息を吸った。
三面図では何度も見ている。自分でも何十枚と描いてきた。
それでも、画面の中にいるマリナは、紙の上で見ていた時とは少し違って見えた。
表情はまだ少なく、長いポニーテールの動きも簡素だった。
それでも、そこにいる。
『中村さん、聞こえますか』
「はい」
『今からトラッキングの確認をします。こちらの指示に合わせて動いてみてください』
「わかりました」
『まず、正面を見てください』
アズサはモニターへ顔を向ける。
画面の中のマリナも、正面を向いた。
『では、一度まばたきをお願いします』
目を閉じて、開く。
黄金色の瞳も閉じて、開いた。
アズサの動きが止まる。
もう一度、まばたきをした。
マリナも同じようにまばたきをする。
(……動いた)
わかっていたはずなのに、不思議だった。
『首を少し傾けてみてください』
言われた通りに傾ける。
画面の中で、マリナも同じ方向へ首を傾けた。長いポニーテールも、大きなまとまりのままその動きについてくる。
今度は反対側へ傾けてみる。
やはり、ついてくる。
『ありがとうございます。では、少し笑ってみてください』
笑ってくださいと言われて笑うのは、少し難しい。
それでも、口元をわずかに緩めた。
画面の中で、マリナが笑った。
思わず、アズサの喉から小さく息が漏れる。
六年間、キャラクターに声を当ててきた。
笑っている役なら、その表情に合わせて笑う声を出す。
泣いている役なら、その涙に合わせて声を作る。
けれど、自分の表情までキャラクターに伝わることはなかった。
今は違う。
これまで、自分からキャラクターへ渡せるのは声だけだった。
今は違う。
笑えば、マリナも笑う。
角度を変えると、その変化までついてきた。
(声だけじゃない)
その言葉が、自然と浮かんだ。
目線も、首の傾きも、口元のわずかな動きも、自分からこの子へ渡っていく。
アズサはゆっくり顔を右へ向けた。
マリナもついてくる。
左へ戻せば、同じように戻った。
視線を少し下げると、黄金色の瞳もわずかに下を向く。
「面白い」
気づけば、アズサの口元がまた緩んでいた。
当然、画面の中のマリナも笑う。
(あ、それは違う)
その顔を見た瞬間、アズサの動きが止まった。
今の笑い方は、自分の癖だった。
マリナなら、もう少し静かに笑う。
口元だけをほんの少し緩める。
何十枚も描いてきた顔を思い出しながら、笑い方を変えた。
画面の中の表情も変わる。
(……そう。こっち)
背中の内側が、じわりと熱くなった。
今度は首を傾ける。
さっきより少しゆっくり。
傾けきる直前で、ほんの一拍だけ間を置く。
マリナも同じように動く。
次は視線を外してみる。
完全には逸らさず、相手をまだ見ているように少しだけ残す。
画面の中にも、その仕草が現れた。
アズサはモニターから目を離せなくなっていた。
最初は、自分がマリナを動かしていた。
まばたきをすれば、まばたきをする。
首を傾ければ、首を傾ける。
でも、いつの間にか少し違っていた。
画面の中のマリナを見て、
この子なら、どう動くだろう。
そう考えてから、自分の体が動いている。
自分が動かしているはずなのに、マリナを見て、自分の方が変わっていく。
どちらが先なのか、途中からわからなくなっていた。
自分がマリナを動かしている。
それなのに、マリナに自分が動かされているような気もした。
『中村さん』
ヘッドホンから声がして、アズサは我に返った。
「あ、すみません」
いつの間にか、指示もないのにずっと動かしていたらしい。
少しだけ顔が熱かった。




