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売れない声優の私が、なぜか大富豪に見初められました。  作者: つきしろえにし
第一章 それぞれの選択
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第15話「交わる」


 ガラスの向こうで、さっきの候補者が一礼してブースを出ていった。


 扉が閉まると、神代は壁にもたれたまま、空になったブースを眺めた。


「神代様」


 横に来た黒瀬へ顔を向ける。


「次で最後の候補者ですが……今までの方はいかがでしたか」


「んー」


 神代は腕を組んだ。


「みんな上手いんですよね。プロだし、当然っちゃ当然なんですけど」


「候補としては?」


「二人前に受けた人かな。今のところは」


 黒瀬が手元の資料をめくる。


「ですが、あまり納得されているようには見えませんね」


「んー……」


 少し考えてから、神代は答えた。


「ピンとこなかったからかな。なんていうか、無難な感じで」


「無難、ですか」


「上手いは上手いんですけど。聞いてて、『あ』ってなる瞬間がなくて」


 黒瀬は何も言わなかった。


「まあ、最後まで諦めてないですけどね」


 そう続けて、神代は手元の資料をめくった。


 残りは一枚。


 次で最後だ。



 しばらくして、ブースの扉が開いた。


 入ってきたのは、栗毛のショートヘアの女性だった。


 スタッフに案内されながら中へ入ってきた彼女が、ふとこちらを見る。


 目が合ったので軽く会釈すると、彼女も少し驚いたようにしてから、小さく頭を下げて正面へ向き直った。


 神代は手元の資料へ目を落とす。


 中村アズサ。二十六歳。


 ヴォイス・リンク所属。声優。


 経歴欄にはいくつかの作品名と役名が並んでいたが、神代には知らないものばかりだった。


(六年か)


 短くはない。


 それだけ続けていても、目立った代表作はない。端役や小さな役が中心らしい。


 今日ここまで、何人もの候補者を見てきた。


 経歴だけなら、もっと華やかな人もいたし、配信経験のある人や、すでに登録者を抱えている人もいた。


 だから、この人だけを特別に見る理由はない。


 ないはずなのだが、神代はもう一度ガラスの向こうへ目を向けた。


(何だろうな)


 自分でも、よくわからない。


 ただ、少しだけ気になった。



 彼女がマイクの前に立ち、位置を確認して背筋を伸ばす。


 スタッフが開始を告げると、彼女は小さく息を吸って口を開いた。


「ヴォイス・リンク所属、中村アズサです。本日はよろしくお願いします」


 その第一声で、神代の指が資料の上で止まった。


(……あ)


 声には出なかった。


 さっき黒瀬に言ったばかりの、その感覚。


 低い。


 少し掠れている。


 それでも耳にざらつく感じはなく、その奥にはわずかな艶があった。


 初めて聞くはずなのに、妙に耳になじむ。


 何かが、すっと収まった。


 何に、と聞かれてもまだ答えられない。


 神代は資料から手を離し、ガラスの向こうに立つ女性を見た。


(なんだ、今の)


 理由は、まだわからない。


 ただ、さっきまでとは少し違った。



  * * *



 名前を呼ばれたのは、控え室に入ってから二時間ほど経った頃だった。


 アズサは鞄を肩にかけて立ち上がり、スタッフの背中を追って廊下を歩いた。


 窓の外はまだ雨だったが、この高さまで来ると雨音までは届かない。


 突き当たりにある扉には、「STUDIO A」と書かれていた。


「こちらです」


「ありがとうございます」


 礼を言って扉を押す。



 正面には、大きなガラス窓があった。


 その向こうがコントロールルームになっていて、卓の前に音響スタッフが座り、さらにその後ろには三人の男が並んでいる。


 左にいるのはスーツ姿の男だった。眼鏡をかけ、ネクタイの結び目まできっちり整えている。表情もほとんど動かない。


(この人が一番偉い人かな)


 審査の責任者か、会社の上の人か。見た目だけなら、そのどちらかに思えた。


 真ん中にいる男性は、黒いTシャツにジーンズ姿だった。三人の中では明らかに一人だけラフで、どういう立場なのか見当がつかない。


 その男性と目が合った。


 向こうが軽く会釈したので、アズサも反射的に頭を下げる。


(……誰だろう)


 右の男はジャケット姿だったが、どこか体に馴染んでおらず、借りてきたもののようにも見えた。タブレットを抱え、こちらの顔を見たかと思えば、すぐに画面へ視線を戻している。


(……なんだろう、この並び)


 考えかけて、やめた。


 審査の前に余計なことを増やしても仕方がない。


 ガラスの向こうへ軽く一礼して、ブースの中央へ進んだ。



 ブースは思っていたより狭かった。


 マイクスタンドと譜面台が置かれ、壁一面を防音材が覆っている。


 スタッフに促されてマイクの前へ立つと、スタンドの高さを直し、口元との距離を取った。


 この動作だけは、考える必要もなかった。


 六年間、何度も繰り返してきたことだ。


 いつもの場所のはずなのに、今日は部屋の空気だけが違って感じられる。


「ヘッドホン、お願いします」


 受け取って装着すると、耳の奥にかすかなノイズが混じった。


「こちら、台本になります」


 続いてA4の紙を一枚渡される。


 アズサはそれを受け取り、譜面台へ置いた。



 台詞は五つのまとまりに分かれていた。


 配信のあいさつから始まり、緊張している相手への言葉、失敗した相手への言葉、少し距離を縮めるための言葉、そして配信の終わりまで。


 ざっと目で追ってみたが、驚きはなかった。


 むしろ、近すぎるくらいだった。


 この一週間、クローゼットの中で削り続けてきたものと、方向がほとんど同じだ。


 押しつけない。


 踏み込みすぎない。


 だからといって、突き放しもしない。


 少し離れたところから、ただ見ている。


 紙の下には、小さく注意書きがあった。


 キャラクター設定を踏まえ、自然な会話として演じてください。


 台詞間の間、声色、表情は自由。


(自由、か)


 ここまで丸ごと自由に任される台本は、これまでのオーディションではほとんどなかった。


 だからといって、できるという確信があるわけでもない。


 上手に読むことなら、六年間やってきた。


 でも、求められているのは、たぶんそれだけじゃない。


 それを、この一週間で知った。


 アズサは紙から目を離し、ゆっくり息を吐いた。


 あの子はまだ紙の中にいる。


 自分から話しかけることも、笑うこともできない。


 声を出すのは、自分だ。


 そして。


 この子に魂を授けるのも、自分だ。


 アズサは背筋を伸ばした。



 案内していたスタッフがコントロールルームへ戻り、扉が閉まる。


 ブースの中に一人きりになると、ほどなくしてヘッドホンから声が入った。


『それでは、所属とお名前をお願いします』


 アズサは小さく息を吸う。


「ヴォイス・リンク所属、中村アズサです。本日はよろしくお願いします」


 自分の声が、ヘッドホンの中へ返ってくる。


 ガラスの向こうで誰かが動いた気がしたが、確かめる前に次の声が入った。


『では、台本をお願いします』


「はい」


 譜面台へ視線を落とす。



 一行目。


 『こんばんは。マリナです』


 そこで一度、目が止まった。


 この一言だけは、これまで何度も口にしてきた。


 クローゼットの中でも、ノートパソコンのカメラの前でも。


 けれど、そのどれも誰かに聞かせるためのものではなかった。


 今日は、聞いている人がいる。


 アズサは息を整えた。


「こんばんは。マリナです」


 張らない。作らない。


 自分の喉から出てくる高さのまま、ただ言葉を置く。


 技術を捨てたわけじゃない。


 足すために使ってきたものを、今は余計なものを削るために使う。


「来てくれてありがとう。今日も、ゆっくりしていってね」


 語尾は上げず、歓迎していることだけを声の奥に残した。


 紙の上の次の行へ視線を移す。


 緊張している相手へ向けた言葉だった。


「そんなに緊張しなくていいよ」


 少しだけ速度を落とし、ひと呼吸置く。


「……私は見てるから」


 その一言だけ、ほんの少し距離を縮めた。


 見張るのでも、手を引くのでもない。ただ、ここにいると伝える。


 次の台詞へ進む。


「失敗した?」


 責めるのではなく、答えを急かさず相手の様子を見る。


 自然と口元が緩んだ。


「ふふ。まあ、そういう日もあるよ」


 小さく笑ってから続ける。


「まだ終わってないでしょ?」


 強く押さない。


 立ち上がるかどうかは、相手に残しておく。


「そんな顔しないの」


 ここでは、ほんの少しだけ砕けた。


「うまくいかない日くらい、誰にでもあるよ。今日は少し休んで、また明日やればいい」


 言い終えて、ひとつ息を継ぐ。


 残るのは、配信を終えるための三行だった。


「今日はここまで」


 名残惜しさは足さない。


「来てくれてありがとう」


 もう一度、間を置く。


「……またね。次もちゃんと来てよ?」


 最後だけ、ほんの少し口元を緩めた。


 言い切ると、ブースの中に静けさが戻った。


 しばらくして、ヘッドホンから声が入る。


『ありがとうございます。とても良かったです』


 声の感じから、スーツ姿の男だと思った。



『では次に、アドリブをお願いできますか』


「……アドリブ、ですか」


『はい。台本はありません。この場で自由に喋ってみてください』


 心臓が跳ねた。


『テーマはありません。今感じていること。この場所のこと。何でも構いません』


 トークバックが切れ、ブースに静けさが戻る。


 アズサは目を閉じた。


 台本はないし、正解もない。


 夜勤のフロントでは、目の前の相手を見て、その場で言葉を選ぶことを何度もやってきた。


 けれど、それとこれとは違う。


 今は、何も返してくれないカメラの向こうへ話さなければならない。


 目を開け、もう一度あの三面図を思い浮かべる。


 深紅の髪と黄金色の瞳。


 そして、相手を急かさない目。


 この子なら、こんな時に何を喋るだろう。


「……みんな、今日はどんな一日だった?」


 もちろん、答えは返ってこない。


 それでも、誰かが聞いているつもりで続けた。


「私は最近、ずっと同じ絵を直してる。線を引いて、消して。また引いて、違うなって消して。ああいうのって、地味にしんどいんだよね」


 最初の言葉が出ると、次は少しだけ楽になった。


「でも、たまに一本だけ、すっと決まる時がある」


 少し間を置く。


 ガラスの向こうにいる三人ではなく、その先にいる誰かへ話す。


「たぶん、その一本のためにやってる」


 息を継いでから、ここへ来る途中の光景を思い返した。


「ここに来る途中で、すごく疲れた顔の人を見たんだけど、その人、ほんの少しだけ空を見てた」


 その横顔を思い出す。


「何かを諦めてない顔だった」


 自然と声が柔らかくなった。


「頑張ってる人って、ふとした時に、そういう顔するよね」


 そこで一度、言葉を止める。


「……私も今、そんな顔してるかも」


 口にしてから、自分で少しおかしくなった。


 小さく笑う。


「だから、無理して笑わなくていいよ」


 誰かに向けた言葉だった。


 同時に、少しだけ自分にも向いている。


「今日も、お疲れさま」


 最後の言葉を置き、アズサは口を閉じた。



 ふとガラスの向こうを見ると、黒いTシャツの男が身を乗り出していた。


 卓の縁に手をつき、こちらを見ている。


 さっきまでは後ろに立っていたはずなのに、いつからそうしていたのか、アズサにはわからなかった。


『……ありがとうございます』


 少し間があってから、声が届いた。


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