第15話「控え室」
当日は、朝から雨だった。
新宿の駅を出て、傘を差して十分ほど歩く。指定されたビルは、通りから一本入ったところにあった。
受付で名前を告げると、四階へ上がるよう言われた。
エレベーターの中で、アズサは息を吐いた。
六年間、何度も繰り返してきた動作だった。
けれど今日、扉の向こうで求められるものは、これまでとは違う。
控え室は、思っていたより広かった。
パイプ椅子が壁沿いに並び、十数人が座っている。
年齢はばらばらだった。二十歳そこそこに見える子もいれば、明らかに自分より上の人もいる。服装もまちまちで、きちんとしたジャケットの人もいれば、パーカーの子もいた。
誰も喋っていなかった。
アズサは空いている椅子へ座り、鞄を膝に置いた。
部屋の前方に扉がある。名前が呼ばれたら、そこから入るのだろう。
しばらくして、スタッフが入ってきた。
「順番にお呼びします。終わった方はそのままお帰りいただきますので、お荷物はお持ちになってお入りください」
控え室には戻らない、ということだった。
誰かが小さく息を吸う音がした。
「あ」
隣から声がした。
アズサが顔を上げると、見慣れた顔がこちらを見ていた。
「アズサ!」
「え、アリアちゃん」
思わず声が出た。
「うそ、久しぶり」
「ねー。半年ぶりくらい?」
「そのくらいかも」
アズサは鞄を膝に置き直した。
「てか髪、明るくなってない?」
「分かる? 先週やったの」
アリアは毛先をつまんで見せた。
「似合ってるよ」
「でしょ」
西山アリア。専門を出た年がほぼ同じで、事務所は違う。オーデションで何度も一緒になるうちに、そのまま連絡先を交換した相手だった。
この人と会う場所は、いつもこういう部屋だった。
「アズサ、まだ声優やってんの」
「一応ね」
「へえ」
「なに、その顔」
「いや。えらいなーと思って」
「えらくないよ。辞めてないだけだもん」
アリアは椅子の背にもたれた。
「私、もうやめた」
アズサは体ごと向き直った。
「え。やめたって、声優?」
「うん」
「うそでしょ」
「ほんと」
あっさりしたものだった。
「いや、籍だけはまだあるんだよ。でも半年くらい何も来てないし、オーディションの情報も回ってこなくなってきたし。もういいかなって」
「そんな急に」
「急じゃないよー。ずっと考えてた」
アリアは笑った。
「で、今はライバーの方を片っ端から受けてる。今日のもその一個」
「片っ端って」
「ほんとに片っ端。今月これで四件目」
アズサは目を丸くした。
「四件!?」
「大手も個人勢のとこも全部。受かったところで決める」
「すごいね……」
「すごくないって。数撃ってるだけ」
アリアは指を折ってみせた。
「意外?」
「……ちょっと」
「だよねー」
「私さ、何でもできるって言われるんだよね」
アリアが前を向いたまま言った。
「明るいのも暗いのも、少年も、おばあちゃんも。全部いけますよって」
「うん。実際できるじゃん」
「そうなんだけどさ。そういう人って、いらないんだって」
「え」
「その役に一番ハマる人を呼べばいいわけでしょ。何でもできる人を呼ぶ理由がないの」
アズサは口を開きかけて、閉じた。
自分とは違う壁だった。
高さは、たぶん同じだった。
「その点さ、アズサはいいよね」
「よくないよ」
「よくない?」
「通らないもん」
「あー、それはね」
アリアが笑った。
「声はいいのに通らない。あるあるだわ」
「あるあるにしないでよ」
「だって、上の人たちが引退してくれないと無理じゃん」
「言わないでよ、そういうこと」
言いながら、アズサも少し笑ってしまった。
「ていうかさ」
アリアが身を乗り出した。
「あの資料、どう思った?」
「あー」
「あれだけしか来なかったよね」
「うん。性格の欄、空欄だったし」
「そう! それ!」
アリアが大きな声を出し、慌てて口を押さえた。
「よかったー。私だけかと思った。ファイル壊れてるのかと思ったもん」
「私も思った。ダウンロードし直したもん」
「一緒じゃん」
二人で少し笑った。
「四件受けてるけどさ、あんな募集要項ないよ。普通はキャラシートがあって、口調の指定があって、台本があるでしょ」
「だよね」
「あれ、ちょっとおかしいって」
「結局、どうやって作ったの? あれ」
「あー……」
アズサは少し迷ってから、鞄の内ポケットへ手を入れた。
折りたたんだコピー用紙を出し、膝の上で広げる。
「なにこれ。うわ、描いたの?」
「考えるとき、描かないと進まなくて」
「相変わらずだ」
アリアが覗き込んでくる。
「てか、ほんと上手いよね。アズサの絵」
「そんなことないって」
「あるって。私が言うんだから間違いないの」
アズサは照れて、紙を少し傾けた。
「で、何が分かったの?」
「んー、髪とか」
「髪?」
「あの長さを下ろしてたら、机に向かったとき絶対落ちてくるでしょ。手も汚れるし。だから上げてるんだと思う」
「……あー」
「服も全部ゆるいし。見られる前提で選んでないなって」
「うわ、そこまで見る?」
「見るっていうか、目に入っちゃうだけ」
「入らないって、普通」
アリアは呆れたように笑った。
「あと、チョーカーがちょっと気になった」
「チョーカー?」
「うん。ほかは力が抜けてるのに、あれだけは自分でちゃんと選んでる感じがして」
「えー。ただのアクセサリーでしょ」
「そうかな。あれだけ、作り込みがすごいんだよね」
アリアがもう一度、紙へ目を落とした。
「ほかは?」
アズサは口を開きかけて、止めた。
二枚目に描いたものが、紙の下に隠れている。
「……あとは、まあ、いろいろ」
紙を折りたたんだ。
「なにそれ。ずるい」
「ずるくないよ」
「言えないんでしょ」
「……うん」
正直に頷くと、アリアが吹き出した。
「正直か」
「ごめん」
「いいって、いいって。当たり前だし」
アリアは手を振った。
「私だって言わないもん」
「私はね、元気な子にした」
「元気」
「配信って、明るい方がウケるでしょ。四件受けて分かったの。そこは共通だなって」
「……明るいだけじゃないと思う」
「え?」
「静かな人でも、ずっと見ていられる配信はあったから」
アリアが横目でこちらを見る。
「勉強したんだ?」
「一週間だけだけど」
「真面目だねえ」
「だって、やったことないし」
「まあ、審査は五分だからね。分かりやすい方が強いと思うよ」
「そうかも」
「たぶん今日、半分くらいは元気な子で来てる」
アリアは控え室を見回した。
パイプ椅子に、十数人が黙って座っている。
「まあ、私も違うとは思うけどね」
「え」
「あの絵、そういう顔してないもん」
アズサは驚いてアリアを見た。
アリアは肩をすくめた。
「そのくらいは分かるって。何回見てると思ってんの」
「じゃあ、なんで」
「分かっても、ほかに手がないから」
軽い言い方だった。
アズサは何も返せなかった。
前の扉が開き、スタッフが名前を呼んだ。
一番端に座っていた人が立ち上がり、荷物を持って入っていく。
扉が閉まった。
部屋が静かになる。
それからは、十分か十五分おきに一人ずつ呼ばれていった。
入った人は、誰も戻ってこない。
椅子が一つずつ空いていく。
誰も喋らなくなっていた。
二時間ほど経った頃、アリアの名前が呼ばれた。
「あ、私だ」
アリアが立ち上がった。
鞄を肩にかけ、少し伸びをする。
「じゃ、行ってくるね」
「うん」
アリアは二歩進み、それから振り返った。
「アズサ」
「なに」
「まだ、諦めてないでしょ」
アズサは答えられなかった。
アリアは笑った。
「顔に出てるよ」
それだけ言って、前の扉へ歩いていった。
扉が閉まる。
アズサは、その扉を見ていた。
同じ部屋に何度も座り、同じように落ちてきた人だった。
その人が、先に切り替えた。
残ったのは、アズサ一人だった。
パイプ椅子が並ぶ部屋に、自分の呼吸の音だけがある。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
膝の上で、鞄の持ち手を握り直す。
この三年、この部屋の向こうで負け続けてきた。
今日もそうなるかもしれない。
それでも、考えられることは全部やった。
一次の音源で、マリナの声を見つけた。
この一週間で、マリナとどうやって画面の中へ立つのかも考えた。
私の動きが、マリナになる。
マリナの動きが、私になる。
自分の魂を、マリナに預ける。
アズサは、ゆっくりと息を吐いた。
前の扉が開く。
「中村アズサさん」
名前を呼ばれた。
アズサは立ち上がった。




