第14話「AS ONE」
通知が来たのは、提出から四日後の夕方だった。
件名を見た瞬間に、内容は分かった。
――二次選考(実技審査)のご案内。
落ちたときは書き方が違う。この件名なら通っている。
アズサはベッドの上で本文を開いた。
日時。場所。新宿のスタジオ。持ち物は特になし。
その下に、二次選考の内容が記されていた。
選考用の簡易Live2Dモデルを使用した、模擬配信形式の実技審査。
マリナとしての自己紹介。
短時間のフリートーク。
想定コメントへの応答。
審査時間は、一人あたり五分程度。モデルの操作方法については、当日スタッフから説明する。
アズサは、そこまで読んで指を止めた。
「……配信」
声に出してみても、書かれている内容は変わらなかった。
台本を渡され、指定された役を演じる。そういう審査なら、六年間ずっと受けてきた。
けれど今回は、画面の中でマリナになり、自分の言葉で話し続けなければならない。流れてくるコメントにも、その場で返事をする。
そんなことは、一度もやったことがなかった。
配信経験もない。人前で五分間、台本もなく話し続けた経験すらない。
一次を通った喜びが、胸の中で急速にしぼんでいく。
今回は少しだけ違う。
そう思っていた。
少しどころではなかった。
これまで受けてきたオーディションとは、競技そのものが違う。
アズサはスマホを枕元へ置き、仰向けに倒れ込んだ。
音源審査だけなら、この六年、落ちたことはほとんどない。
問題は、いつもその先だった。
この三年、二次を通ったことは一度もない。
スタジオに入り、名前を呼ばれ、演じて、それで終わる。後日連絡しますと言われ、数日後に電話が来て、白川が申し訳なさそうに切り出す。
毎回そうだった。
今回は、得意なはずの演技だけでは足りない。
プロも一般も混ざった募集だと聞いている。配信経験のある人もいるはずだった。自分より若く、コメントへの返しにも慣れていて、画面の前で話すことを怖がらない人。
六年かけて積み上げたものが、そのまま有利になるとは限らない。
絶望というほどではない。
ただ、かなり絶望に近かった。
* * *
通知から二次選考までの一週間、アズサは珍しく昼のレッスンを一度休んだ。
正確には、白川へ連絡して別の日への振替を頼んだ。
『体調悪いの?』
「いえ」
『じゃあ、仕事?』
「配信を見て、勉強したくて」
電話の向こうで、少し間があった。
『……配信?』
「二次審査が、Live2Dを使った模擬配信らしくて」
『そういう内容なのね』
「はい」
『それで、レッスンを休むの?』
「休むというか、振替で」
『珍しいじゃない』
責めている様子はなかった。
それがかえって居心地を悪くした。
「すみません」
『謝らなくていいわよ』
白川が小さく笑う。
『本気なのね』
「……たぶん」
『そこは言い切りなさいよ』
呆れたように言われたが、振替は認めてもらえた。
昼間からカーテンを閉め、アズサはノートパソコンの前に座った。
人気のあるVTuber。デビューしたばかりの新人。雑談、ゲーム、歌、作業配信。
目についたものを片端から開いていく。
最初は、何を見ればいいのかも分からなかった。
声が明るい。話題が途切れない。コメントへの反応が速い。笑い方が大きく、話しながら画面の中のモデルがよく動く。
気づいたことをノートへ書き出してみたものの、どれも自分にできる気がしなかった。
アズサはノートパソコンのカメラアプリを起動した。
画面には、机の前に座る自分の姿が映った。配信用のモデルはない。映っているのは、いつもの自分だった。
それでも、画面の中にマリナがいるつもりで録画ボタンを押す。
「こんばんは。マリナです」
そこまでは言える。
一次の音源で見つけた声だった。作っていない、自分の低い声。マリナなら残す温度だけを選んだ声。
けれど、その先が続かなかった。
「今日は……」
今日は、何だ。
マリナなら何を話すのだろう。どんな言葉を選び、どんな顔で笑うのだろう。
そう考えるほど、口が動かなくなる。
アズサは数秒の沈黙に耐えきれず、録画を止めた。
「無理……」
机の上のノートには、コメントの拾い方や話題のつなぎ方が並んでいる。
昼のレッスンを休んでまで、自分は何をしているのだろう。
「……何してるんだろ、私。声優なのに」
やると決めたのは自分だ。
それでも、六年かけて積み上げてきた場所から、自分で横道へそれているような気がした。台本を読み、役を考え、一つの台詞を何度も磨いてきた。それなのに今は、見知らぬ配信者の相槌や笑い方を真似しようとしている。
声は、もう見つけている。
足りないのは、声ではなかった。
それでも、配信を見るのはやめなかった。
話題の切り替え方。コメントを拾う順番。沈黙ができたときに何をしているのか。笑いながら、どこを見ているのか。
声優として演技を聞くのではなく、画面の中でその人が何をしているのかを、一つずつ見ていった。
何人も見ているうちに、違いが目につくようになった。
話の上手い人ほど、ずっと面白いことを言っているわけではない。
ゲームで道に迷えば、迷っていることをそのまま口にする。コメントが止まれば、自分から問いかける。飲み物を取りに行くときにも、何も言わず画面の外へ消えたりはしない。
機材の調子が悪くなれば、黙って直すのではなく、今何が起きているのかを伝えている。
コメントも、すべて拾っているわけではなかった。話を広げられるものを選び、前に出た話題とつなげ、途中から来た人まで置いていかないようにしている。
画面の向こうに人がいる。
そのことを、忘れない。
それが配信なのかもしれなかった。
配信者の声だけでなく、動きにも目が向くようになった。
笑えば、画面の中のモデルも目を細める。考え込めば首を傾げ、コメントを読むときには視線がわずかに下がる。
モデルが勝手に動いているわけではない。
中にいる人が笑うから、笑う。
首を傾げるから、同じように傾く。
その人の癖も、迷いも、何気ない仕草も、画面の中の姿へ移っていく。
アズサは、自分がマリナのモデルを動かしているところを想像した。
自分が笑えば、マリナが笑う。
言葉に迷えば、マリナも少し黙る。
自分が首を傾げれば、深紅の髪が揺れる。
私の動きが、マリナになる。
そして、画面の中で動くマリナを見ているうちに、今度は自分の方が、その表情や仕草に引かれていく。
マリナの動きが、私になる。
どちらかが、一方を動かすだけではない。
自分がマリナを動かし、マリナが自分を変えていく。
その日の夜、アズサはもう一度ノートパソコンのカメラを起動した。
画面に映っているのは、いつもの自分の顔だった。マリナのモデルはない。赤い髪も、黄金色の瞳も、黒いチョーカーもない。
それでも、画面の中に彼女がいるつもりで椅子へ座り、録画ボタンを押した。
「こんばんは。マリナです」
やはり、その先が続かない。
アズサは録画を止め、机の上へ視線を落とした。
この一週間で描いたマリナの絵が、何枚も並んでいる。
コメントを読んでいる顔。作業中に髪をかき上げる姿。飲み物を片手に、少しだけ気を抜いている横顔。
ずっと、この子のことを考えてきた。
どういう暮らしをして、何を好み、どんなときに笑うのか。声や口調だけではなく、絵の外にある生活まで想像してきた。
けれど、マリナならどうするのかと考えるたび、答えが遠ざかっていく。
マリナは、まだ絵の中にしかいない。
自分から言葉を選ぶことも、コメントを読むことも、話題に困って黙ることもできない。その声を出し、迷い、笑い、次の言葉を探すのは、結局アズサ自身だった。
「……そっか」
小さく呟いて、椅子の背にもたれる。
これまで、自分はマリナを完成した役だと思っていた。どこかに正しい性格と声があり、それを見つけて、間違えずに演じればいいのだと。
けれど、配信には台本がない。
視聴者が何を言うのかも、その場になるまで分からない。マリナだけに答えを求めても、返す言葉は生まれない。
マリナだけでは足りない。
だからといって、自分一人で話せば、ただの中村アズサになってしまう。
どちらか一人では、画面の中に立てない。
「私とマリナで、一人なんだ」
声に出すと、胸の奥に引っかかっていたものが、少しだけほどけた。
普段、役を演じるときに、アズサは自分を失わない。台本を読み、役の考え方を探り、声や呼吸、間を組み立てていく。
役が乗り移るような、いわゆる憑依型ではなかった。
役との間には、いつもわずかな距離がある。
けれど今回は、声だけを貸すのでは足りない。
役が入り込んでくるのを待つのでもない。
自分から預ける。
間も、迷いも、不器用さも、ずっと隠してきた低い声も。自分の中にあるものを、全部マリナへ預ける。
「私の魂を、マリナに預けるんだ」
その代わりに、マリナの姿を借りる。
アズサがマリナを一方的に演じるのではない。二人で一人になって、画面の向こうにいる人へ話しかける。
そう考えると、もう一つ気づいた。
配信中に素が出ても、必ずしも失敗ではない。
これまでは、役を演じている途中で自分が出れば、役から外れたことになると思っていた。作っていた声が崩れた。素が漏れた。そう考えて、すぐに隠そうとしてきた。
けれど、二人で一人なら、自分が出てもおかしくない。
マリナの中からアズサが漏れるのではない。
最初から、アズサもマリナの中にいる。
迷ったり、慌てたり、思わず地声が出たりしても、それを含めてマリナになる。
作った役からアズサが漏れるのではない。
アズサごと、マリナになる。
アズサは姿勢を直し、もう一度録画ボタンを押した。
「こんばんは。マリナです」
今度も、作った声ではなかった。
普段より少し低い、自分の声だった。
「来てくれて、ありがと。まだ何を話すか、ちゃんと決めてないんだけど」
次の言葉は、すぐには出てこなかった。
それでも、さっきのように慌てて録画を止めることはしなかった。画面の向こうに誰かがいるつもりで、その人が待っていることを忘れないように口を開く。
「よかったら、少し付き合って」
上手くはない。
配信らしい華やかさもなければ、気の利いたことを言えたわけでもない。それでも、最初に録った声より、ずっと近くにマリナがいる気がした。
マリナだけが話したのではない。
アズサ一人で話したのでもない。
二人で、一つの声を出していた。
二次までの一週間、アズサは昼のレッスンを一度振り替え、空いた時間のほとんどを配信の勉強に使った。
夜勤を終えて部屋へ戻ると、眠る前に配信を見る。起きてからもノートパソコンを開き、話し方やコメントの拾い方、沈黙のつなぎ方を確かめた。
合間にはマリナの絵を描き、何度も模擬配信の練習を繰り返した。
最初は数十秒で止まっていた言葉が、一分になり、三分になった。
五分を通して話せたのは、前日の夜が初めてだった。
その横には、練習の合間に描いたマリナの絵が何枚も重なっていた。
誰に見せるわけでもない。頼まれてもいない。
ただ、配信を見るほど、彼女ならどう動くのかを考えるようになった。
コメントを読んで、口元だけで笑う顔。
返事を考えながら、わずかに視線を逸らす顔。
言葉に詰まり、それでも相手を待たせまいと口を開く顔。
手が動くから描いていた。
描いているうちに、少しずつ分かる気がした。
配信が上手くなる方法は、まだ分からない。
けれど、マリナとして何を大切にしたいのかは、前より見えていた。
最後の練習を終え、アズサは録画を止めた。
配信を見た。話し方も、コメントの拾い方も、沈黙のつなぎ方も観察した。自分でも何度も声を出し、マリナならどう動くのかを考え続けた。
私の動きが、マリナになる。
マリナの動きが、私になる。
自分の魂をマリナに預けて、二人で一人になる。
それが正しいのかは、まだ分からない。
けれど、今の自分にできることは、もう残っていなかった。
「考えられることは、全部やった」
誰もいない部屋で口にすると、不思議と少しだけ落ち着いた。
アズサはノートパソコンを閉じた。
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