第12話「聞いていない!!」
今回は少し長めです。
お時間のあるときに、暇つぶしにでも読んでいただければ嬉しいです。
約束の時間の五分前、受付から内線が入った。
「神代様がお見えです」
「お通ししてください」
私は資料を揃えて立ち上がった。
三週間と言っていた東京滞在も、そろそろ終わりに近い。企画を受ける旨は先週のうちに伝えてある。今日は、正式な顔合わせの場だった。
制作担当とプロモーション担当に加え、経理と法務の担当者にも同席させている。
今後の実務を担う二人の紹介だけでなく、先週の会議で残した費用と権利の扱いも、今日ここで整理する予定だった。
「あ、それと」
受付の声が続いた。
「お連れ様が、もう一名いらっしゃるのですが」
私は手を止めた。
「……何名でお通ししますか」
「二名で」
そう答えて、受話器を置いた。
聞いていない。
会議室に入ってきたのは、確かに二人だった。
一人は神代。スーツも仕草も、前回と変わらない。
その後ろに、もう一人。
痩せた男だった。三十代半ばくらいだろうか。ジャケットは着ているが、どこか借り物めいて見える。髪も伸びかけのまま、あまり整えられていない。
目が合わない。というより、こちらを見ていなかった。部屋へ入るなり、隅に置かれた機材ラックへ目を向けている。
「お世話になります」
神代が頭を下げた。
私は営業用の笑みを作る。
「こちらこそ、お待ちしておりました」
それから、視線を隣へ移した。
「……そちらは?」
「あ、はい」
神代はまったく悪びれずに答えた。
「モデラーの矢野さんです。動かす人がいた方が早いと思って、連れてきました」
「矢野です」
男が小さく頭を下げる。
名刺を出そうとして鞄の中を二度探り、諦めたように手を引っ込めた。
「……すいません。持ってなくて」
「いえ」
私は名刺を受け取るために差しかけていた手を戻した。
隣で、制作担当が身を乗り出している。
「あの、失礼ですが」
いつもより少し高い声だった。
「矢野ユタカさん、ですか?」
男が顔を上げた。
「はい」
「えっ」
制作担当がこちらを見た。明らかに目を見開いている。
「黒瀬さん、あの矢野さんです。朝比奈ルルのモデルを作った人ですよ」
「ああ」
プロモーション担当も声を上げた。
「あの髪の。すごいって話題になったやつ」
二人が同時に話し始める。
矢野は視線を落としたまま、「はあ」とだけ返していた。
私は資料を持つ手に、少しだけ力を入れた。
モデラーの選定は、本来こちらの仕事だ。
制作の座組みを組み、外注先を決めるのも、事務所の裁量に属する。
先週の社内会議で、神代との窓口は私が引き受け、現場へ直接指示はさせないと決めたばかりだった。
だが、その方針を本人へ伝えるより先に、外部の職人が一人、もう連れてこられている。
順序が違う。
ただし神代は、Nexus Liveの現場へ指示を出したわけではない。自分でモデラーを探し、その本人を連れてきただけだ。
こちらが引こうとした線を越えたのではない。
線を引く前に、その向こう側まで走っていた。
私は横目で制作担当を見た。まだ矢野に話しかけている。この人が今どれだけ興奮しているか、長い付き合いなのでよく分かった。
矢野ユタカという名前は、私も知っている。数年前からフリーで活動し、大手からの依頼も断っていると聞く。うちの規模では、まず捕まらない相手だった。
その人間が今、目の前で借り物めいたジャケットを着て座っている。
筋を通してほしいと言ったところで、では断るのかという話になる。
断る理由が、またひとつもなかった。
「では、始めさせていただきます」
私は座り直した。
「先週お伝えしたとおり、弊社として、この企画を正式にお受けいたします」
「ありがとうございます」
神代が頭を下げた。
「まず、今後の進行についてご説明します。応募の受付、一次審査、そこから最終候補までの絞り込みは、弊社が主導します」
「はい」
「実務の窓口は、この二人です。制作面とプロモーション面で分けています」
二人が順に頭を下げた。
「それと、企画上の位置づけですが」
私は神代を見た。
「この企画のエグゼクティブプロデューサーは、神代様ということになります」
「エグゼクティブプロデューサー」
神代が、その言葉をゆっくり繰り返した。
「あの、アニメとか映画の最後に流れるやつですか?」
私の手が止まった。
制作担当が、小さく息を吸うのが聞こえる。
「……表記としては、そうなります」
「へえ」
「企画全体の責任者です」
私は少し姿勢を正した。
「予算と方向性に関わり、デザインとキャスティングについて最終承認を行う。その立場を、神代様に担っていただきます」
「なるほど」
神代はテーブルへ目を落とした。
深く考えている顔ではない。
そういうものか、と受け止めているだけに見えた。
「そのうえで、一点」
私は続ける。
「最終的に、どなたにこの子を演じていただくか。その決定は、神代様にお願いしたいと考えています」
神代が顔を上げた。
「……いいんですか?」
「はい」
「俺、素人ですけど」
「存じています」
私は声を変えなかった。
「最終候補までは、こちらで責任を持って絞ります。誰を選ばれても、タレントとして成立する方だけを残す。その中から、この子に誰の声を入れたいかを決めていただきたい」
神代は黙って聞いていた。
「数字や実績だけでは測れない部分があります。この子を作った神代様の判断を、最後は信じます」
しばらく、沈黙が落ちた。
神代はテーブルの一点を見つめたまま、動かなかった。
「……分かりました」
それまでより、少し低い声だった。
「しっかり選びます」
私は何か言おうとして、やめた。
言葉が見つからなかった。
この人は、ついさっきまで自分の肩書きの意味すら知らなかった。それが今、人ひとりの人生に関わる決定を任され、初めて表情から軽さが消えている。
何を考えたのかは分からない。
ただ、その重さを受け取ったことだけは分かった。
「あの」
沈黙を破ったのは、矢野だった。
「絵、出していいですか」
「どうぞ」
神代が頷く。
矢野は鞄からタブレットを取り出し、テーブルの中央へ置いた。
画面を見て、私は言葉を失った。
深紅の髪。黄金色の瞳。黒いチョーカー。
三方向から描き起こされている。
先週見たものと、同じ子だった。
同じ子のはずなのに、もう別物に近い。
「……これは?」
「描き直してもらいました」
神代があっさり答えた。
「AIのままだと動かすのに向かないと言われまして。元の印象は変えないようにお願いしています」
制作担当がタブレットを引き寄せた。
指で拡大し、戻し、別の資料へ切り替えていく。色番号の一覧。瞳の拡大図。チョーカーの展開図。
「……これ、どなたが?」
「雨宮トワさんです」
答えたのは矢野だった。
制作担当の手が止まる。
「雨宮トワさん?」
「はい」
「『群青』の?」
「そうです」
部屋が静かになった。
プロモーション担当が、小さく口を開けたまま画面を見ている。
私は膝の上で指を組んだ。
先週、私たちは会議室で、生成AIの三面図をそのまま制作には使えないと判断した。元の印象を残したまま、プロに描き起こしてもらう必要がある、と。
その説明を、私は今日これから神代へするつもりだった。
だが、必要だった工程は、すでに終わっている。
一週間の間に、目の前の男は業界でも名の知られたモデラーを見つけ、その紹介で第一線のイラストレーターへ描き直しを頼んでいた。
こちらには、一言もないまま。
「素晴らしいと思います」
私はそう言った。
実際、そう思った。
「では、最後に契約と費用の扱いについて確認させてください」
私は法務担当へ視線を送った。
「まず、キャラクターの権利についてです」
法務担当が資料を開く。
「雨宮トワさんが描き直したデザインと、矢野さんが制作するモデルの著作権を、どなたが保有する形にするか。神代様のお考えを伺えますか」
「雨宮さんと矢野くんには、こちらから報酬を支払っています」
神代が答える。
「なので、権利もNESTにあると思っていたんですが」
「報酬をお支払いしただけでは、著作権は移転しません。譲渡について、別途契約を結ぶ必要があります」
「そうなんですか」
神代は目を瞬いた。
それから、隣へ顔を向ける。
「矢野くん。マリナのモデルの著作権、NESTへ譲ってもらう形で大丈夫?」
「いいですよ。報酬も十分いただいてますし」
矢野は、ほとんど考えずに答えた。
「では、正式な契約書はこちらで用意します。必要な修正や衣装追加、将来の立体化などを行える範囲も、契約の中で整理します」
「お願いします。雨宮さんにも確認します」
神代はスマートフォンを取り出し、その場でメールを送った。
法務担当が次の資料を用意している間に、テーブルの上でスマートフォンが震える。
「雨宮さんも大丈夫だそうです。契約書ができたら送ってください、と」
「……早いですね」
「仕事中じゃなかったみたいです」
神代は何でもないことのようにスマートフォンを伏せた。
矢野は、報酬を十分にもらっていると言った。
雨宮トワも、ほとんど迷わず了承している。
一体、いくら払ったのだろう。
聞くべきことではない。少なくとも、今この場で確認する議題ではなかった。
二人が良いと言うなら、問題はない。
私は浮かんだ疑問を胸の内にしまった。
「著作権をNESTへ集約すること自体に、弊社から異論はありません」
法務担当が続ける。
「ただし、弊社が演者の選考、育成、配信管理、営業まで担う以上、契約期間中の独占的な利用権は必要です」
「独占的な利用権?」
「契約期間中、マリナを弊社以外の事務所で活動させたり、弊社の承諾なく第三者へ利用させたりしない、ということです」
私は言葉を引き継いだ。
「明日、別の会社へ移しますと言われてしまえば、こちらも事業として動けません。神代様を疑っているわけではありませんが、互いのために契約へ残しておきたいんです」
「そんなことはしませんよ」
神代はすぐに答えた。
「でも、契約にしておくべきなのは分かります。活動中の運営は、Nexus Liveさんへお任せします」
「配信、宣伝、企業案件、イベント。モデルの調整や衣装追加に必要な外部委託についても、運営上必要な範囲で弊社が行える形にします」
「はい。ただ、グッズについては別にしてください」
神代が言葉を挟んだ。
「どのような商品を出すのか、権利者であるNESTにも事前に確認をお願いします」
「NESTの承認を得たうえで、商品化を進めるということでしょうか」
「はい。俺からグッズの企画案を出すこともあると思います。その場合も、こちらだけで勝手に進めず、Nexus Liveさんへ相談します」
「双方の事前承認を必要とする形ですね」
「それでお願いします」
法務担当が資料へ書き加える。
「活動終了後の扱いはいかがしますか」
「過去の配信を残すのは構いません」
神代は少し考えてから続けた。
「ただ、活動終了後に新しく配信したり、商品を出したりする場合は、NESTへ確認してください」
「販売中の商品の在庫や、すでに進行している案件については、一定の猶予期間を設けさせてください」
「それも大丈夫です」
法務担当が頷き、手元の資料へ書き込んでいく。
「次に、費用の支払いについて確認します」
今度は経理担当が口を開いた。
「弊社が制作窓口となって見積もりと発注内容を取りまとめ、契約名義と請求先はNESTとする形でよろしいでしょうか」
「はい。キャラクターデザイン、モデル制作、衣装追加など、マリナそのものにかかる費用は、Nexus Liveさんを窓口にしてNESTが負担します」
神代は迷わず答えた。
「日常的な配信管理や営業、人員にかかる費用は、弊社で負担するという認識でよろしいでしょうか」
「はい。そちらまで全部こちらで持つつもりではありません」
「承知しました」
「発注前の見積書と、支払いに必要な請求書は、なるべく早めに俺へ送ってください。そちらで立て替えが発生した場合は、領収書を添えてもらえれば、すぐに精算します」
経理担当が頷き、ペンを持ち直す。
「それから、収益の配分ですが」
「配信の広告収入、スーパーチャット、企業案件については、演者さんとNexus Liveさんで分けてください。俺の取り分は要りません」
制作担当とプロモーション担当が、ほとんど同時に顔を上げた。
「神代様の取り分を、設けないということですか」
「はい」
「マリナの制作費をご負担いただいたうえで?」
「その分、演者さんの比率を高くしてほしいです」
神代は指を二本、テーブルへ置いた。
「俺の希望は、演者さんが七で、御社が三です。難しければ六対四でも構いません。どちらにしても、演者さんの方を多くしてください」
経理担当が私を見る。
通常なら、その場で決められる話ではない。
ただ、マリナそのものにかかる費用をNESTが負担し、そのうえ配信収益を要求しない。条件として、こちらに不利なものではなかった。
「プラットフォーム手数料や決済手数料などを差し引いた後の入金額を、分配の対象とする形でよろしいですか」
「それでお願いします」
「企業案件については、内容ごとの直接経費を確認し、同じ比率を基本として契約案を作成します」
「はい」
「では、グッズの収益についてはいかがでしょうか」
神代の表情が、わずかに変わった。
「製造費や販売手数料、保管費、発送費などの必要経費を売上から先に精算して、その後に残った純利益の七十パーセントをNESTがいただきます」
経理担当のペンが止まった。
「七十パーセント、ですか」
「はい」
「それは、さすがに……」
経理担当が言葉を濁し、こちらへ視線を向ける。
「商品企画や製造会社との調整、販売管理、在庫管理は、弊社が担うことになります。残りの三十パーセントから演者への還元も行うとなると、弊社側の取り分が少なすぎます」
「分かっています」
神代はすぐに答えた。
「ただ、マリナのデザインやモデル、今後の衣装追加にかかる費用はNESTが負担します。それに、配信の広告収入やスーパーチャット、企業案件について、こちらは取り分を求めません」
「ですが、純利益の七十パーセントは、条件として受け入れるのが難しいです」
神代は黙った。
指先で、テーブルを一度だけ叩く。
「では、六十パーセント」
「神代様」
「これ以上は譲れません」
それまで穏やかだった声が、初めて明確に相手を遮った。
「配信で生まれる利益は、演者さんと御社で分けてください。その代わり、マリナというキャラクターを使って生まれた利益については、権利者であり、費用を負担するNESTにも相応の取り分が必要です」
経理担当が私を見る。
六十パーセント。
決して軽い数字ではない。
だが、NESTがマリナの制作費を負担し、配信収益を要求しないことまで含めて考えれば、一方的な条件とも言い切れなかった。
「……純利益の六十パーセントをNESTへ。残りの四十パーセントを、弊社と演者で分配する形ですね」
「はい」
「必要経費の範囲と精算時期、在庫の扱いについては、契約書に明記させてください」
「お願いします」
経理担当が、最後の一行を書き加えた。
五億円を出資し、マリナそのものにかかる費用も負担する。
配信で生まれる利益は演者と弊社へ譲りながら、成功した場合にNESTが回収できる道筋だけは、きちんと残している。
神代という男は、飄々としているようでいて、肝心なところだけは確実に押さえてくる。
採算を度外視しているのかと思えば、譲れない線では一歩も退かない。
何を考えているのか、やはりよく分からなかった。
* * *
顔合わせは一時間ほどで終わった。
二人が立ち上がると、制作担当がすぐに矢野を捕まえ、何かを尋ね始めた。矢野は目を伏せたまま、ときどき早口で答えている。
「神代様」
私は声をかけた。
「少しだけ、よろしいですか」
「はい」
廊下へ出て、扉を閉めた。
神代は、いつもと変わらない顔で立っている。
「矢野さんの件です」
「あ、はい」
「素晴らしい人選だと思います。うちからでは、まず声も届かない方です」
「そうなんですか?」
本当に知らなかったらしい。
「ただ」
私は言葉を選んだ。
「制作の座組みは、本来こちらで組ませていただく部分です」
神代が瞬きをする。
「今後、外部の方へ依頼される場合は、事前にご相談いただけますか」
少し間があった。
「あ」
神代の表情が変わった。
「すいません。そうですよね」
あっさりと頭を下げる。
「いい人だったので、つい」
「……はい」
「今後は気をつけます」
私は頷いた。
それ以上、言うことがなかった。
言えることもなかった。
二人を見送ってから、私は会議室へ戻った。
テーブルの上に、三面図のコピーが一枚残っている。
深紅の髪の女の子が、静かにこちらを見ていた。
この一週間で、この企画は私の知らないところで二度動いた。
一度は、矢野ユタカを見つけたこと。
もう一度は、雨宮トワにデザインを描き直してもらったこと。
どちらも、先週こちらが問題として挙げた部分を、先回りして解決している。
だから止められない。
止める理由がない。
ふと、思った。
神代にとって、Nexus Liveはマリナを世に出すための器なのかもしれない。
こちらを軽く見ているわけではない。むしろ、任せるに足ると判断したからこそ、あれだけの金を出したのだろう。
それでも、あの人が見ているのは会社ではない。
その向こうにいる、まだ声を持たない少女だけだ。
もしこちらが断っていたとしても、きっと別の場所を探していた。
本人は、そんなふうに考えたことすらないのかもしれない。
あの人は、たぶん次も同じことをする。
悪気がないからだ。
だからこそ、止めにくい。
胃のあたりが、少し重くなった気がした。
私は資料を閉じ、会議室の電気を消した。




