3
乳母は年季の入った顔に柔らかな皺を刻んだ、優しげな老婆だ。名前はマーリエ。見た目と職業から想像できるとおり、仕事に誇りを持っている。表情はいつも穏やかで、世話をする手つきには年季がある。終始こちらを不気味がっているのは変わらないけど、乳母としての職務と自分の誇りが勝つらしい。幸運といえば幸運だ、乳母くらいはまともなやつがついてくれた。
食事はメイドが運んでくる。なぜ「らしい」かと言うと、ここからが肝心なのだ。部屋の入口は、指紋認証みたいなものの代わりに“魔力認証”で固められている。登録されているのはマーリエと父、それから多分執事長が一人。扉に細い刻印が走り、そこに登録された魔力の波形以外は通さない仕組みだ。父が淡々と説明しているのを赤子のくせに聞いてしまった。貴族の執念ってやつを、本気で見せつけられた気分だ。
それだけならまだしも、一番イヤな部分は別にある。父の言葉を拾った。
「――出られぬように封印を施す。領内の者が不用意に接触したり、儀式や好奇で連れ出したりしないように。ここは地下だ。外界への扉は一切閉ざす。」
要するに、物理的にも魔術的にも“ここから出られない”ようにされている。父は“責任”と称して、家の権力をぜんぶ注ぎ込んでいる。ああ、これが“子を守る”の形なのかと、赤子のくせに呆れる。狂いたくはない。けど、これはちょっとな…。
部屋自体は奇妙に気を配られている。床一面に敷かれた厚手の絨毯は足元だけでなく、音や振動を吸うようになっているらしい。壁紙は優しい黄色で、普通なら安心を誘う配色だが、ここにあると妙に作り物めいて見える。赤子用の小さなベッドが端に置かれ、積み木や布の絵本、音の出るおもちゃがいくつも積んである。店のキッズコーナーみたいに安全基準は満たしている、けれど“客”を預けるための透明な仕切りが見えないだけで、不気味さは増す。誰もが見られる場所ではなく、見せないための場所だからだ。
乳母が鼻歌を小さく歌いながら、食事を運んでくる。メイドは扉の前で一礼し、マーリエの魔力を確認してから皿を差し出す。メイドの手は震えている時がある。震えを隠すために笑顔を張っているのも見抜ける。可哀想だが、ここにいる自分には関係がない。生きているだけで勝ち。そう思い直す。
父は名を与えると言った。アクマレン。名を呼ばれると、乳母が小さく頷いた。父の視線は冷たく、誇りと恐れが混じったような曖昧なものだった。私はそのとき、生まれたてのくせに、なんだか恥ずかしくなった。自分の名が「悪魔の子」だなんて、世間に宣言するようなものだ。だが、これもまた一族のやり方らしい。見せしめにも、責任の所在をはっきりさせるための“象徴”にもなる。
夜になると、部屋の隅に置かれた玩具の影が長く伸び、壁の黄色が蝋燭の光で怪しく揺れる。ときどき父が地下の扉の前で何か言葉を唱えるのを、耳を澄ませば聞ける。封印の確認だろう。マーリエはそれを見て、私の額をさすってから「眠れ、レン」と低く囁く。囁きには確かな温度がある。たとえ世界が自分を悪魔呼ばわりしようとも、この老人だけは違う――それだけで随分と心は和らぐ。
私はベッドの中で小さく拳を握る。将来どうなるかは知らない。外に出る日が来るのか来ないのか、その前にここで年をとるのか否かもわからない。でも、思うところはひとつだけだ。狂いたくはない。人間のふりをして、笑って、機会があれば出てやる。まあ出られるかどうかは別問題だが、それはその時考えればいい。
乳母の歌が止んだ。扉の魔力印が静かに光を弱める。外では父の足音が遠ざかる。地下室の空気がゆっくりと落ち着きを取り戻すと、私は目を閉じた。
――レン、って呼ばれるたび、奇妙に悪趣味な重さを感じるが、気にしないでおこう。名前なんてのは飾りだ。飾りは飾っておけばいい。生きるための道具は、別に自分で作れば済むことだ。




