再教育(3/5)
14.
森本は朝から顔色が悪かった。
河村が心配そうに視線を送ると、森本は無理に笑って肩をすくめた。
「いやぁ、昨日ちょっと、飲み過ぎましてね。」
言い終えるや否や、口を押さえて席を立つ。 おそらく嘔吐だろう。数分後、口をぬぐいながら戻ってきた森本は、机のやかんから麦茶を注ぎ、ゆっくりと飲みはじめた。
そしてふいに、空を見上げるような目でつぶやいた。
「ああ、いけない。……花畑が見えてきた。あいつが手を振ってる。とても綺麗だ。」
そのまま少し微笑み、河村の方へ向き直る。
「今から遺書を書きますので、河村少佐が証人になってください。」
その言葉に、河村も、離れた席の耳鼻科医、佐古田も、顔を見合わせて驚いた。
「……馬鹿なことを言う前に、病院に行きましょう。すぐ隣です。」
河村が呼びかけると、森本はまた微笑んだ。
「書き終えたら、行きますよ。」
森本は、机の隅に置かれていたメモ用紙を取ると、ペンを走らせた。
──遺書
誰も悪くありません。全てを忘れたかったのは自分です。
昭和9年7月23日 森本浩二
15.
書き終えて立ちあがろうとした森本は崩れるように床に倒れた。
全身は硬く硬直しその目は焦点を結ばず、両手が胸の前でガクガクと震えている。痙攣は徐々に全身へと波のように広がっていった。
口元からは泡立った唾液が流れ、床に垂れた。
「舌を噛んでるかもしれない!」
佐古田が席を蹴って駆け寄り、森本の傍に膝をついた。 椅子を払いのけ、口をこじ開けようと指をかけるが、顎の筋肉が硬直し、思うようにいかない。
(⭐︎現在は否定されている医療行為です。)
「誰か来てくれ! 担架を!」
河村が叫ぶと、隣の事務室から数人の職員が駆けつけた。
森本の痙攣はまだ止まっていなかったが、教官たちの手を借りてなんとか担架に乗せ、隣接する施療病院へと運び出す。
搬送の途中で、脳神経が専門の村上大尉が息を切らせて駆けつけてきた。
真っ青な顔で痙攣する森本を一目見て、すぐに判断を下す。
「先に行って処置の用意をいたします!」
そう言い残して、村上は再び病院のほうへ走り出した。
処置室に入ると、すでに生理食塩水とバルビツール酸塩のアンプルが並べられていた。
村上は無言のまま、的確な手つきで静脈に針を通し、生理食塩水を接続した。
その手は落ち着いていたが、顔を伏せたとき、目尻には乾いた涙の痕が見えた。村上の指が森本の首筋に触れる。すぐに、その顔が強ばった。
河村もそっと手を伸ばし、総頸動脈を探るように指を当てた。……そこに拍動はなかった。
「……病理解剖を。病理の吉崎先生にご連絡をお願いします。」
村上は、震える声でそう告げた。
「私も立ち会います。」
村上はそう続けたが、顔面は蒼白で、足元はわずかに震えていた。
「無理はしないほうがいい。」
佐古田が声をかけたが、村上の意思は変わらなかった。
その晩、解剖は予定通り行われた。
担当した病理の吉崎大尉によれば、村上大尉が最後の縫合を申し出たという。
「お世話になった先輩ですから、せめて……綺麗に。」
そう言って、器具を手に取ったと。
河村はそれを聞いて、何も言わなかった。
ただ、翌朝ふと目にした、検案記録の末尾に記された村上の名前を、しばらく見つめていた。
16.
その日、村上は軍医学校に姿を見せなかった。森本の通夜にも、葬儀にも出席しなかった。
体調を崩してしばらく休む――そう皆が知ったのは、週の半ばになってからのことだった。
土曜日の午後、河村が篠山の部屋を訪れると、夢二が音もなく出迎えた。篠山は事務机に向かい、書類をじっと見つめていた。
「ああ、あなたでしたか。すっかり忘れていましたよ。」
河村の姿に気づくと、篠山は書類を一旦脇に置き、無言でココアを注いだ。
「村上大尉が休んだ分の仕事が、こちらに回ってきましてね。」
コップを手にしたまま、篠山は淡々と続ける。
「専門性の違いをまるで理解していない学校長の采配です。精神と神経は、別の学問なんですが。」
篠山は書類を持ってソファへと移り、腰を下ろした。その表紙に「解剖報告書」の文字がちらりと見える。
「それは……もしかして、森本中佐の?」
河村が静かに尋ねると、篠山は書類をテーブルに置いた。
「ええ。代わりに、あなたが見てくれますか?」
「いえ、私も専門がだいぶ違いますから。」
「違う視点も大切ですよ。」
篠山は書類を河村に渡すとココアを飲み始めた。
河村は表紙をめくった。
診断名:流行性脳炎解剖所見:脳実質に浮腫性変化、小出血散在あり。視床および海馬部に壊死性変化。
とくに海馬部の損傷が顕著だが、全体として脳炎の像と矛盾せず。
夏季であることから、流行性脳炎を第一に疑う。
流行性脳炎とは、蚊が媒介する感染症であり、現在で言うところの「日本脳炎」に相当する。
河村は静かに書類を置いた。
「少佐に触れた時、熱はありませんでした。」
河村が静かに告げると、篠山はココアを飲む手を止めた。
「病死ではなく、他の原因かもしれませんね。……興味深い話ですが、私は警察ではありません。首を突っ込む理由はないでしょう。」
篠山はペンを取り、「補足なし。」とだけ記し、署名をした。
「今日はここまでにいたしましょう。書類とはいえ人の死に触れるのは容易ではありませんから。」
17.
翌日の月曜日、村上が出勤してきた。以前はふっくらしていた頬はこけ、色白の肌は白を通り越して青ざめていた。
「夏風邪を拗らせてしまって……。休みの間、ご迷惑をおかけしました。」
そう言って皆に頭を下げた村上は、多少元気こそないものの、机に向かい淡々と仕事をこなした。
森本の荷物は、喪主を務めた弟のもとへ送られ、空になった席に白い菊の花が飾られていた。
それからしばらくは、何事もなく時が過ぎた。
土曜日の面談は事例検討へと移り、「こんな場面で河村はどうするのか」と、多少気持ちを削られるような内容だったが、河村は次第にそれにも慣れ始めていた。
風向きが変わったのは、室戸台風が上陸した後のことだった。
台風は西日本を中心に大きな被害を出したが、帝都・東京にも豪雨と強風をもたらした。 教員室のある棟は古い建物で、防風雨によって防水層が損傷したらしく、河村の机には水溜りができていた。
森本は四十九日も明けており、「もうそろそろ」と花瓶が取り去られた。そこに河村が移動し、河村の元の席は、盤置き場になった。
村上の様子がおかしくなったのは、それからだった。最初は、ただ落ち着きがない程度に見えた。
だが、急に涙ぐんだかと思えば、妙に明るく振る舞ったりと、精神状態の不安定さは整形外科医である河村の目にも明らかだった。
河村は篠山中佐に相談しようかと考えながら廊下を歩いていた。そのとき、背後から声がかかった。
「浩二さん。」
村上の声だった。
森本が亡くなってから、間違えられることはもうなくなっていたはずなのに。
「振り返らないでください。河村少佐だと分かっています。……森本先輩が、もういないことも。」
村上は、嗚咽まじりにそう言った。
「ごめんなさい。そのまま……どうか、そのまま歩いて行ってください。お願いですから……」
最後のあたりは、ほとんど聞き取れないほどに声が震えていた。
河村は、二人がただの先輩後輩ではないことを感じたが、かける言葉が見つからなかった。 言われたとおり、振り返らずにそのまま歩き、篠山の部屋を訪ねた。
しかし、篠山は留守のようだった。扉の前では、夢二が短く鳴いたり、爪を研いだりして暇を潰していた。
「お前も締め出しか。」
河村が抱き上げると、夢二は身体を軽く捻って、器用に腕から逃げ出した。
今日は帰るか、と河村が身体の向きを変えたそのとき、夢二が足元に走り寄り、じゃれつき始めた。
「……お前は、どうしたいんだ?」
河村がしゃがみ込んで撫でると、夢二はまた嫌そうに、廊下の端まで逃げていった。
18.
翌日の村上は、怖いくらいに落ち着いていた。
昨日のことで吹っ切れたのだろうか。河村はそのことには触れず、午前を静かに過ごした。
昼になると、教官たちは交代で将校用の食堂へ向かう。米飯と味噌汁、それに簡単なおかずが並び、好みのものを取る方式だ。
河村が食堂に入ると、すでに村上の姿があった。河村は鯖の味噌煮と漬物を選び、村上の横に腰を下ろした。
「もう大丈夫ですか?」
声をかけると、村上は軽く頭を下げた。
「ご心配をおかけしました。」
その時、食堂の入り口から声がかかった。
「河村少佐、訓練中に派手に転倒した者がおりまして。」
河村は箸を置き、立ち上がって入り口へ向かった。
救護室にいた学生は足を捻っていたが、骨折はしていないようだった。
「午後、念のためレントゲンを撮って固定しよう。病院の方に来なさい。」
河村が食堂に戻ると、村上の姿はすでになかった。食事は少し冷めていた。
「早めに食べて、病院の方へ行こう。」
河村は味噌煮と米をかき込んだ。味噌汁に口をつけた時、わずかな違和感を覚えた。具は葱と豆腐のはずなのに、海藻の旨味がしたのだ。
「……鍋の洗いが悪いのか?」
河村はそこで食事を終えた。
念のため、自分の水筒をよく洗って味噌汁を入れ、サンプルとして保管した。あわせて、厨房にも鍋の点検を依頼してから、病院へと向かった。
昨日、大学の同期と飲みすぎました。
東京タワーの近くでした。水交社で飲んだ気分です。




