再教育(4/5)
19.
転倒した学生は、河村の予想どおり捻挫であった。包帯で固定し、安静を指示した後、河村は凍傷の実験のため軍医学校に戻った。
実験を始めて三時間が経過した頃、河村は胸のむかつきと軽い腹痛を覚えた。
「やはり食中毒か……」
症状は徐々に悪化し、額に脂汗がにじみ始めた。少し嘔吐したあと、悪心は軽快したものの、今度は頭痛と眩暈に襲われた。
「帰って休むか、受診をするか。」
河村は迷いながら、実験器具を片付けはじめた。
窓の外では、日が傾き始めていた。西陽が練習場を赤く染め、その光の中に、あるはずのないブランコが揺れていた。誰ものっていないはずのそれが、ゆらゆらと風に揺れている。……いや、誰かいる。
──二階堂だ。
二階堂が膝に夢二を乗せ、ブランコに揺られていた。夢二に何か話しかけながら、二階堂は笑っていた。
「ああ、これは幻覚だ。」
河村は森本のことを思い出していた。
いつの間にか、ブランコは消えていた。
「少佐。」
背後から声がした。振り返ると、そこには二階堂がいた。だが、その姿は徐々に薄れていき、村上に変化した。
「忘れたくても、忘れられないのです。」
村上の姿もまた、二階堂と同じように、淡く消えていった。
──俺は、死ぬのか……。
思考が定まらないせいか、不思議と恐怖はなかった。
河村はそのまま床に腰を下ろし、やがて寝そべった。実験室の天井をぼんやりと見上げながら、ゆっくりと目を閉じた。
次に目を開けたとき、あたりは真っ暗だった。身体に痛みはなく、どこかをぶつけた様子もない。どうやら痙攣は起きなかったらしい。 河村はゆっくりと身体を起こし、慎重に立ち上がった。少しふらついたが、嘔気はかなり治まり、頭痛も軽くなっていた。
壁づたいに手を伸ばし、電灯のスイッチを探って点けると、そのまぶしさに思わず顔をしかめた。
時計を見ると、時刻は午後九時半を指していた。
河村は、宿直室から伊達の研究室に電話をかけた。
カチカチと規則正しいベル音が続く。出る気配はない──そう思った瞬間、不意に受話器の向こうから、ガチャリという音がした。
「分析化学研究室の伊達だが。」
懐かしくも、聴き慣れた声が響いた。
「河村だ。今から行ってもいいか。」
「何時だと思っているんだ、君は……」
呆れたような、だがどこか笑っているような声だった。
「まぁ、いつでも構わないがな。研究室でいいか?」
「ああ、頼みたいことがある。」
「気をつけて来いよ。」
河村は受話器を置いた。学校の様子からして、集団食中毒の可能性は低そうだったが、念のため宿直者に確認した。案の定、誰にもそれらしい症状は見られていないとのことだった。
水筒を持っているのを確かめ、河村はタクシーを拾った。帝大へ向かう道すがら、自分の症状をあらためて整理する。
まず、森本中佐の症状と酷似していること。だが、森本の死因とされた「流行性脳炎」にしては、発熱もなく回復過程をみても明らかに脳炎とは臨床症状が異なる。
食中毒なら、同じ食事をとった者に症例が出るはずだが、今のところ報告はないようだった。つまりこれは単独事例。
「やはり、何かの毒物か……」
河村は、膝の上の水筒に目を落とした。
20.
河村の話を聞いた伊達は、腕組みをしてしばらく考えていた。
「おそらく、神経毒の一種だな。あたりをつけて分析してみるが、時間がかかるぞ。」
「特に期限はありません。」
河村は小さく頷いた。
「薬理の知り合いにも声をかけてみよう。毒かどうかだけなら、明日には分かるだろう。」
十月の夜中、まだ暖房の入っていない実験室には、染み入るような寒さがあった。河村の顔はまだ少し青ざめていた。
「久しぶりに倶楽部に誘おうと思っていたが……やめた方がよさそうだな。温かい飲み物を淹れてやるから、飲んだら帰れ。」
伊達は河村とともに休憩室へ入った。河村をソファに座らせると、小さなミルク鍋に牛乳を注ぎ、火にかける。
「鍋まであるんですね。」
河村が興味深そうに言った。
「ああ、河村は初めてだったか。わりといろいろあるぞ。橘は“喫茶伊達”と呼んでいる。」
伊達は牛乳が吹きこぼれぬようにときおりかき混ぜながら、カップの中で何かを練っていた。やがて火を止め、温めた牛乳を注ぐと、ふわりと甘い香りが立ちのぼる。
──ココアだ。
ミルクを使っているせいか、篠山のものよりも柔らかな香りがした。
「茶菓子もあるが……」
伊達がココアを置きながら、河村の顔をうかがった。
「ええ、いただきます。」
その言葉に、伊達の心配げな表情がわずかに緩んだ。
戸棚からカステラを取り出すと、伊達はそれを小皿に乗せてそっと河村の前に置いた。
河村はカステラを一口運び、続けてココアをすする。どちらも、優しい味がした。
21.
翌日は土曜日だった。ココアを飲んで伊達と別れたあと、河村はすぐに休んだが、まだ少し体調はすぐれなかった。
欠勤しようかと迷ったものの、片付けきれなかった実験室のことが気になり、結局、普段通りに出勤することにした。
教員室に村上の姿はなかった。空いた机を見つめていると、佐古田が声をかけてきた。
「今日は休むそうだ。最近……疲れてたようだしな。」
佐古田は口に出さなかったが、その言葉の奥には「精神的に」という意味が滲んでいた。村上以外の欠勤者はなく、食中毒の話はなかった。
実験室は思った以上に散らかっていた。幸い、実験動物は残っていなかった。しかし、洗いかけの器具が流しに置かれ、床には水が散らばりひどい有様だ。
河村は雑巾で床の水を丁寧に拭き取り、実験器具を片付けた。記録ノートの文字は震えており、ところどころ読めない。
──うさぎに申し訳ないな。
無駄になった実験の残骸を眺めながら、河村は静かにため息をついた。
午後には面談も控えている。午前中は、これまでの実験結果の整理にあてることにした。
まだ頭はすっきりと働かず、複雑な考察には及ばなかったため、壊死範囲のスケッチ整理や、記録との対比表の作成といった単純作業に専念した。
22.
面談の前、河村は士官用の食堂を使う気になれず、昼食を抜いて篠山の部屋を訪れた。
篠山は事務机に向かい、何かを熱心に読んでいた。夢二が河村に気づき、「にゃあお」と挨拶のように鳴いたが、篠山は顔を上げることなく書類に没頭していた。
「篠山中佐。」
しばらくしてから声をかけると、篠山は物憂げな様子で振り向き、眼鏡を外した。
「ああ、もうそんな時間ですか……」
篠山は立ち上がり、慣れた手つきでココアを淹れた。
「村上大尉に論文の下書きを渡されていたのですが、読む時間が取れなくてね。先ほど読み始めたら、これがなかなかに面白い。」
そう言って、篠山は河村の前にそっとカップを置いた。
「どのような内容ですか?」
河村の問いに、篠山は少し考えてから、机の上の原稿を手に取った。
「投稿前のものですからねぇ。本来であれば、本人の承諾を得るのが望ましいのでしょうが……まあ、同じ施設内ですし。どうぞ。」
『ハナヤナギ(Chondria armata、ドウモイ)抽出成分のマウス交替行動に及ぼす影響』
論文の内容は、徳之島で駆虫薬として用いられる紅藻ハナヤナギ(現地名:ドウモイ)の過量摂取により、記憶障害と思われる症状が見られたという報告に基づいていた。
研究では、ハナヤナギ抽出成分をマウスに経口投与し、迷路試験における作業記憶への影響を記録。結果として、抽出成分は交替行動率を低下させ、マウスに記憶障害を引き起こす可能性が示唆された。
考察では、記憶障害を起こす用量と致死量が接近している点にも触れられていた。
河村は、パズルの最後の数ピースがはまるのを感じた。──ただし、完成した絵は「楽園喪失」だった。
「篠山中佐、今日の面談ですが……」
「中止にしましょう。」
篠山は事もなげに言った。
「今日使う予定だった教材は差し上げます。」
篠山が紙袋を差し出す。中を覗くと、熟れた林檎が二つ入っていた。郷里でかいだ懐かしい香りが漂ってきたが、見慣れたはずのその果実が、なぜか“知恵の実”のように見えた。
23.
河村が紙袋を手に教官室へ戻ると、村上がいた。土曜日の午後であるため、他の教官たちはすでに退勤していた。村上は河村の姿を見て、驚きと安堵が入り混じったような表情を浮かべた。以前よりも痩せ細り、今にも消えてしまいそうな姿だった。
ふいに、村上が深々と頭を下げた。
「私は、少佐を殺そうとしました。」
河村は目を閉じ、大きく息を吐いた。予想はしていたが、まさか相手の口から直接その言葉を聞くとは思っていなかった。
「それは、私が森本少佐に似ていたからですか。」
村上が小さく頷く。ぽたぽたと涙が頬を伝うのが見えた。河村は村上を椅子に座らせ、落ち着くまで背中をさすった。嗚咽が治まるまで、静かに寄り添っていた。そして、声をかける。
「……話してくれますね。」
村上は、途切れ途切れに語り始めた。自分と森本が先輩後輩以上の仲であったこと。村上に縁談が決まり、森本が身を引いたこと。それでも、二人とも完全には別れきれなかったこと――。
「あの人が、僕に言ったんです。すべてを忘れたい、って。このまま別れるのに、僕の顔を毎日見るのが辛いって……それは、僕も同じでした。」
村上の声は震えていた。
「僕が研究していた“記憶を消す毒”の話をされた時、最初は全力で止めました。……でも、どこかで――これで救われるかもしれないって、思ってしまったんです。」
村上は、森本に相談されてから何度も何度も実験を繰り返し、至適濃度を計算したという。それでもなお躊躇し、思いとどまっていたのだと。
だが、森本に寂しげな笑みで「ありがとう」と言われ、最終的には毒を渡してしまった。
「結果は……最悪でした……」
村上は声を詰まらせ、そのまま泣き崩れた。
「浩二さんがいなくなって、僕の世界から色が消えました。何度も後を追おうとしましたが……“俺に何かあっても、生きてくれ”って……言われていて。……ずるいですよね。」
鼻をすする音が、二人きりの教官室に静かに響いていた。
村上が河村の味噌汁に毒を入れたのは、衝動からだった。森本が亡くなって以来、ぎりぎりのバランスで保っていた心が、雨漏りによる机の移動で崩れた。森本と同じ声が聞こえる――それが、村上を静かに壊していったのだ。
「……僕は、これから自首します。それで河村少佐に許されるとは、思っていませんが。」
村上が河村をまっすぐに見つめる。河村はゆっくりと息を吐いた。
「森本少佐は、流行性脳炎で亡くなられた。私は味噌汁を飲んで、吐いて、幻覚を見たが……あれは、きっと味噌汁が傷んでいたんでしょう。」
「でも……それでは……」
村上の声が揺れる。河村は黙って背を向けた。森本に似ていると言われた、その背中を。
「森本少佐は、最後にこう言いました。“花畑であいつが手を振ってる。とても綺麗だ。”」
泣き声が、背後から小さく漏れた。河村はそのまま言葉を続けた。
「生きることが、あなたにとっての贖罪です。森本少佐を救えなかった分、病と戦い、人を救ってください。」
河村は振り返らず、静かに部屋を出ていった。
かなりマニアックな毒にしてみました。
ちなみにまだこの時代、グルタミン酸が神経伝達物質とわかっていませんでした。




