再教育(5/5)
24.
河村は鞄が教官室にあることに気づいたが、今戻るわけにはいかずそのまま廊下を歩いた。昼食をとっていないせいで腹が鳴った。
河村は紙袋の中から林檎を取り出し息を吹きかけた。そのまま子どもの頃のようにズボンで林檎をごしごしと磨いた後、齧りつく。甘酸っぱい汁が口の中に広がった。
──知恵の実を食べたアダムとイブは羞恥を知り、楽園を追われたという。
「何も知らない楽園と、知ってしまったが故の地獄ではどちらがマシなんだろう。」
河村は一人つぶやいた。
その時「にゃあ」と声がした。廊下の向こうに夢二を抱いた篠山がいた。篠山は河村を見てため息をついた。
「せっかく戸締りをしたのですが。」
篠山が来た道を引き返す。河村は黙って後に続いた。
河村の話を聞き終わった篠山はあきれたように言った。
「面倒なので、報告はいたしませんよ。森本少佐は脳炎で、あなたは食中毒ですからね。」
篠山はカップを置き、少しだけ視線を落とした。
「秘密を誰かと共有することは、あなたの負担を少しだけ軽くする。」
一呼吸置いて、静かに言葉を続ける。
「見極めなさい。誰を選ぶかを。
裏切らず、そして……壊れない相手を。」
その日の夜、伊達から味噌汁を経口投与したマウスが痙攣を起こして死んだ報告を受けたが、もうどうでもいいことだった。
次の週からの篠山の面談は、ひどくいい加減なものだった。
凍傷の論文を見せてチェックを受けたり、ひたすらココアを練らされたり。
「絵本でもどうぞ」と言われたかと思えば、「夢二と遊んでおきなさい」と丸投げされた日もあった。
──本当に、適当だった
「ようはやってる定です。」
篠山は眼鏡を拭きながら言った。
「あなたの甘さは何をやっても変わらないでしょうから。」
25.
凍傷の論文が仕上がった十二月。年明けから海軍省に戻る辞令が下りた。予定より、少し早かった。
最後の面談の日、夢二は河村の膝にいた。「話せる秘密なら、話しにおいでなさい。私の定年までは、責任を持ちましょう。」
窓の外には雪がちらついていた。温かいココアも、篠山の濃紺の冬服も、今はもう違和感がなかった。
河村は立ち上がって礼を言おうとしたが、動けなかった。夢二が膝の上で眠りはじめていたからだ。
「では、私はお先に。」
篠山が立ち上がる。河村が少し驚いた顔をすると、篠山は笑った。
「嘘ですよ。」
篠山はコンロへ歩いていき、火をつけた。ココアを作っているようだったが、いつもより時間がかかっていた。「どうぞ」と出されたココアは、牛乳が使われていた。口をつけると── あの日、伊達が作ったものと同じ味がした。
窓の外の雪は、うっすらと積もりはじめていた。
膝の上の夢二は、静かに眠りに落ちていた。
次回から通常営業です。




