再教育(2/5)
5.
「次回から面談は土曜の午後にしましょう。業務中に行き先を勘ぐられずに済みますからね。」
篠山は、足元に散らばる紙屑を気にする様子もなく、ソファに腰を下ろした。
「それにしても―─火曜は横須賀で、こちらの病院でも手術に参加し、学生への講義まで入れるとは。情報部は本気であなたを思想改造する気があるんですかねぇ。」
篠山は呆れたように笑った。
「もし本気なら、まず官舎の引越しからでしょう。手術も講義もやらせず、研究だけ許可する。机は研究室に一つ、あなた専用で。二ヶ月もすれば、ネズミと会話できるようになりますよ。」
篠山はコップを片手に立ち上がり、淡々と言った。
「もう帰ってください。ココアを飲まないなら、あちらの流しに自分で捨ててくださいね。目が潰れるのはごめんですから。」
河村は冷めきったココアをしばらく見つめていたが、黙って一気に飲み干し、コップをテーブルに置いた。
「素直な子は好きですよ。」
篠山はそう言って、ドアを開けた。河村の喉にはずっとココアの苦味が張り付いていた。
6.
軍医学校での生活は、忙しくも充実していた。学生たちは河村の講義に真剣に耳を傾け、講義後には質問を持って訪ねてくる者も多かった。中には凍傷の研究に関心を持ち、手伝いを申し出る学生もいた。
同室の教官たちも、河村の異動について特にとやかく言うことはなく、隣の席の森本とは年齢が近いこともあってすぐに打ち解けた。
「そういえば、河村少佐に後ろ姿と声が似ているって何回か言われました。」
森本は昼食を食べながらそう言った。
体格こそ似ていたが、森本はぱっちりとした二重まぶたの目と、柔らかく穏やかな雰囲気の持ち主だった。河村も、以前学生や教官に後ろから「森本少佐殿」と声をかけられたことを思い出した。
「肩章が同じだからですかね。」
森本がのんびりとした口調で言った。
「いやいや、声だよ。今度、喉を覗かせてもらいたいくらいに似てるな。」
向かいの席にいた耳鼻科の教官が、二人に向かって冗談めかして言った。
空いている時間は実験に充て、あっという間に約束の土曜日が訪れた。皆が退勤する中、河村は昼食を済ませてから、篠山の部屋へと向かった。
7.
「どうぞ。」
篠山は前回と同じように、熱いココアを河村の前に置いた。
「一週間、楽しかったでしょう?最初に言ったとおり、最善は情報部を辞めることです。軍医として働く方が、あなたにとっても、私にとっても良い。仕事も減りますし。」
篠山は自分のカップに手を伸ばし、続けた。
「……とはいえ、それでは上が納得しませんからね。無駄な時間にはしません。給料の範囲で、できる限り努力いたします。ああ、ココアは飲んでも飲まなくても構いませんが、飲むなら熱いうちがおすすめです。」
河村は無言のまま、ココアに口をつけた。その様子に、篠山の口元がわずかに緩んだように見えた。
「飲み終わったら、会議室へ参りましょう。簡単な検査をさせていただきます。……検査の目的は、“やっている体”を上に報告するためです。」
そう言って篠山は、紙束とストップウォッチを手に取り、つまらなさそうに席を立った。
検査は、1分ごとに1行ずつ進む単純な加算作業だった。
「次の行へ。」
篠山の無機質な声が、室内に淡々と響く。途中、5分間の休憩に入る際、篠山は小さく呟いた。
「こちらも被害者です。」
全行の連続加算作業が終わり、篠山は無言で用紙を片手に持ち上げた。胸ポケットから眼鏡を取り出し、静かにかけると、しばらく黙って目を通した。
「……ええ、典型的ですね。真面目、几帳面、持久力あり、誤答なし。そしてお決まりの中盤低下からの意志的回復。いやぁ、模範的軍人だ。」
そう言って、篠山は軽く一度だけ手を叩いた。
「どんな任務においても、これができれば問題はありません。……でも、“問題がある”から、あなたはここにいるのです。さあ、あちらの部屋に戻りましょう。お望みであればココアのお代わりをご用意しますよ。」
篠山は立ち上がり、白衣の裾を整えて、静かに聞いた。
「お代わりは必要ありません。」
河村は淡々と答え椅子を引いた。
二人は言葉を交わさないまま、同じ方向へと歩き出した。
8.
部屋に戻ると篠山はまたココアを河村の前に置いた。河村が何かを言う前に篠山が口を開いた。
「そのココアは飾りです。後で私が飲みますから。ああ、飲みたいならどうぞ。そこにココアがあることが大事なのです。」
「条件付けですか?」
河村が不愉快そうに言った。
「ええ、ココアを飲むたびに思い出していただくためです。それはさておき本題に入りましょう。あなたを更生させる方法ですが、まずは“捨てる”をきちんとやることです。」
篠山は白紙の紙を一枚、河村へ手渡した。「あなたが情報将校として活動する上で、“捨てる”べきものを、なるべく多く書き出してください。ああ、できる、できないは気にしなくて構いません。すべてを捨てろと言うつもりもありませんから。気軽に、どうぞ。気軽に。」
河村は少し考えてから、ペンを取った。
同情心、倫理観、自尊心、信念、家族、友人、死の恐怖。
そこまで書いて、それ以上は思い浮かばないようだった。 篠山は紙を覗き込み、「まぁ、良いでしょう」という顔をした。
「先ほども言いましたが、すべてを捨てろとは言いません。そんなことをすれば、あなたは抜け殻になります。かといって、全部を抱えたままでは、いずれ壊れる。そのバランスを取るのが、この場所なのです。……本音を言えば、私の定年まで壊れなければ、それで十分なんですけれどね。」
篠山は、河村が書いた紙を取ると、それを丁寧にファイルに挟んだ。
「続きはまた来週で。ココアはどうします?」
河村は目の前のココアに手を伸ばした。まださほど時間が経っていないせいか、温かいままだった。
一口飲むと、前とは味が違った。異物ではないが、明らかに違う味だ。
「……塩、ですか?」
河村の問いに、篠山は目を細めた。
「味覚は良いようですね。ほんの少量、塩を混ぜました。甘味が引き立つでしょう」
カップを下げる篠山は、どこか嬉しそうに見えた。
9.
次の一週間もまた慌ただしく過ぎた。凍傷の研究も毎日できる分、進みが良かった。変わったことと言えば、時々後ろ姿を森本と間違われるくらいで、教官室でそれを話題にすると
「いやぁ、こっちもですよ。」
と森本が愉快そうに笑った。同じ外科系のせいか、森本とは馬があった。
「今度飲みに行きませんか?ああ、でも細君に嫌な顔をされますかね。」
ある日の昼休み、森本が河村に声をかけてきた。
「恥ずかしい話、まだ独り身で。」
河村が頭を掻きながら返事をする。
「それは、恥ずかしいですね。私もです。」
二人は声を合わせて笑った。
「いやぁ、この部屋で独身なのは、私と河村少佐と村上大尉なんですが、村上は近々結婚するようで。はぁ、こちらにも良縁が来ないものかな。」
笑っていた森本の横顔に、ふと影が差したように見えた。
「森本先生、お電話が入っています。」
秘書が部屋の入り口で森本を呼んだ。
「具体的な日程はまた今度で。」
そう言って森本は部屋を出て行った。
10.
土曜日の午後は、ココアから始まる。
七月も半ばとなり、暑さが身に染みてくるが、相変わらずココアは熱く、篠山は冬服だった。
「同情心、倫理観、自尊心、信念、家族、友人、死の恐怖。これを二つに分けると、“家族・友人”とそれ以外ですが……あなたの場合、最も問題になるのは倫理観と信念、そして同情心。特に、友人や知人に対する同情が厄介です。」
篠山は、テーブルを人差し指で軽く叩きながら言った。
「まず、倫理観と信念ですが――医師としての任務においては、存分に発揮して結構です。ですが、任務で白衣を脱ぐとき、あなたは“人を救う資格”を一度捨ててください。大事なのは、気持ちの切り替えです。」
河村は、篠山の言葉を黙って聞いていた。その目に、ちらりと疑問の影が浮かんだことを、篠山は見逃さなかった。
「質問をどうぞ。」
河村が、重たげに口を開いた。
「……白衣を着たままの任務の場合は?」
篠山は、興味深そうに河村を見つめた。
「大変良い質問ですね。実はそれが、一番心を折ります。一度脱いで着直すか――専用の白衣を作ることをおすすめします。」
「先生の……中佐の白衣は、今、どちらの白衣ですか?」
河村の問いに、篠山は一瞬、寂しい笑みを浮かべた。
「こんなものは、ただの布ですよ。――中身が、もうないですから。」
篠山は静かにカップを手に取り、ココアを口に運んだ。沈黙を破ったのは、猫の鳴き声だった。続いて、扉をカリカリと引っ掻く音が聞こえる。篠山が立ち上がってドアを少し開けると、隙間から黒猫の顔が覗いた。
「夢二、今はお客さまがいらっしゃっているから……」
「ニャア。」
夢二と呼ばれた黒猫は、篠山の言葉など意に介さず、するりと部屋の中へ入り込むと、河村の足元にじゃれついた。
「中佐の猫ですか?」
篠山は河村の前にしゃがみ込み、夢二を抱き上げた。
「神経電気生理の実験に、猫が使われるのはご存じでしょう。」
夢二は腕の中で逃げようと身をよじっている。
「夢二は脱走兵です。一度目は脳波測定中に暴れて機械を壊し、二度目は網膜反射の実験中に助手に噛みつき、三度目は生徒の昼食を盗んで逃げました。罰として、今は私に飼われています。」
夢二が篠山の腕からスルリと抜け出し、軽やかに床に着地した。一度こちらを振り返るようにしてから、勝ち誇ったような足取りで、扉の隙間から廊下へと出て行く。
「……今日はもう終わりにしましょう。」
篠山は、夢二が出て行った扉の隙間に手をかけ、それをゆっくりと大きく開け放った。河村が廊下に出ると、もう夢二の姿は無かった。
11.
翌週も「晴れ、ときどき森本」だった。「少佐」と声をかけられると、話をするまでそれが自分宛か森本宛か分からない。
そんなある日、河村が廊下を歩いていると、背後から小走りに駆け寄る足音が聞こえた。
「浩二さん。あのことだけど……」
呼びかけに振り返ると、そこにいたのは村上大尉だった。村上は色白で、少し肉づきが良く軍人らしからぬ温和な雰囲気の男だった。
河村の顔を見た村上は、瞬時に立ち止まり、真っ赤になって目を伏せた。
「申し訳ありません……森本少佐と、勘違いいたしました。しょ、少佐は水泳部の先輩でして、大変懇意にしていただいており……このたびは、私の披露宴の招待状をお渡ししようと……」
村上の手には、数通の縁取りのある招待状が握られていた。
「ご結婚、おめでとうございます。」
河村は、勘違いには触れず、穏やかに微笑んでそう言った。
教官室まで歩くあいだ、村上は、森本が三年上の先輩であること、そして結婚前に水泳部の仲間たちが祝賀会を開いてくれる予定だと、楽しげに話した。
河村は頷きながら話を聞いていたが、村上の右手の封筒が、ほんの少しだけ震えているように見えた。
12.
次の土曜日。その日は朝から小雨が降り、七月とは思えないほど涼しかった。篠山の部屋では、変わらず熱いココアが出され、午後がはじまる。
「森本少佐と、仲がよろしいようですが――今日は、“友達を作らない方法”から始めましょう。」
篠山は、淡々とした口調のまま言葉を続けた。
「いまのところ、大丈夫なようですが、標的人物と深い関係にならないこと。特にあなたの場合、情をかけやすく、判断が鈍る。……適当に記号や番号をつけなさい。イ3号、などと。人と思ってはいけません。」
篠山は雨が降る窓の外に少し目を向けた後、河村に関する書類を手にした。
「さて、今の交友関係ですが、華族さまとのお付き合いは楽しいでしょうね。ただ、本来、泥に塗れた農家の小倅が付き合える相手ではないことは自覚してください。」
河村は、ぎゅっと拳を握り込み、無言を貫いた。
「対等な友人ではなく、“利用できる相手”――そう割り切る方が、あなたも傷つかずにすむ。」
篠山は静かに言葉を続けた。
「……まぁ、この嘆願書を見る限り、それも無理でしょうけれど。」
書類に目を落としながら、わずかに口元を歪める。
「プライドの高いあの教授さまに、ここまで書かせるとは……大したものです。」
篠山は書類をめくって目を通し、それをテーブルにそっと置いた。
「橘薫……親英派で知られる、橘子爵の御次男ですか。子爵は、かつて英国の他、ドイツ大使も務められていたとは――それはそれは、立派なご経歴だ。」
篠山はわずかに笑みを浮かべる。
「帝国海軍は基本的に英国式ですからね。同盟が破綻しても、イギリスに好意を持つ方は少なくない。……幸運でしたね。」
河村は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「私はね――橘薫氏についての報告が無かったことを、あれこれ言うつもりはありません。」 篠山は淡々と語りながら、眼鏡を外した。
「けれど……それがあなたの弱点にはなっている。そのことだけは、認めておくべきでしょう。」
13.
篠山はまた、静かに窓の外に目を向けた。
「……ここまでの関係なら、いっそ依存できれば楽なのですがね。あなたも、伊達男爵も、あまりに独立心が強い。橘氏にいたっては、そもそも自由の化身のような方だ。」
ひと呼吸置き、カップの縁に指を添えたまま続ける。
「縁を切れとは言いません。もう、あなたの中でバランスの一部になってしまっている。本当に、困ったものだ。」
河村も、ふと窓の外へ目をやった。強くはないが、降り続く雨がガラスを曇らせ、景色は霞んでいる。
「……巻き込むくらいなら、距離を置いた方がいいと思ったことは、何度もありました。でも、それはもうできない。もう、“無くてはならない存在”なんです。私にとっては。」
その言葉に、篠山は短く息を吐き、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「おや、思ったより依存をされているようだ。――それでしたら、やることはひとつですね。」
篠山はカップを手に立ち上がった。
「どんなお付き合いをされようと構いません。ただ、それが“あなたにとって価値のある人間だ”と、外部に――特に敵に悟られてはいけない。それができないなら、失う前に別れた方が、よほど賢明です。」
篠山はカップにココアのおかわりを注いだ。湯気が立つカップを持って篠山はソファに座った。
「質問は?」
「先生は、失う前に別れたことがおありですか。」
篠山は喉の奥で笑った。それは乾いたしかし寂しい笑いだった。
「できなかった男の成れの果てですよ。」
雨音が強くなってきた。篠山がココアを一口飲んでつぶやいた。
「夢二は濡れていませんかね。夢二は今の私の拠り所ですよ。私が“人間のふり”をするための。」
河村は篠山の言葉を黙って聞いていた。
雨はますます強くなり窓に打ちつける。そのとき、扉の隙間からカリカリと小さな音がした。篠山が顔を上げ、扉に歩み寄ってゆっくり開けるとそこには夢二がいた。屋内にいたのか夢二の毛は全く濡れていなかった。
篠山は夢二をひょいと抱き上げると、苦笑するように言った。
「まったく、優秀な脱走兵です。」
夢二は「ニャア」と短く鳴いた。
「お付き合いするなら上手くおやりなさい。人の友情や愛情は時に非常に厄介です。」
篠山は夢二の背中を撫でながら言った。河村は自分のカップを手にとる。
夢二の背を撫でる篠山の指がふと止まった。
「……人は、情にほだされて、愚かにも一歩を踏み外す。あなたも気をつけてください。
河村は何も答えなかった。ただ、ココアを一口飲み、その苦味に目を伏せた。
森本少佐が、痙攣発作を起こして倒れたのは、──その翌週のことだった。




