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鰻(前編)

1.

 誘拐騒動から数日後の夜。帝国大学教授・伊達政弘と、海軍少佐の河村学は、東京魔術倶楽部でチェスに興じていた。 

 バタン、と騒々しく倶楽部の扉が開く。入ってきたのは、子爵家の次男で遊び好きの橘薫だった。

「明日の昼、鰻を食いに行かないか?渋谷にいい店を見つけたんだ。」

 橘はチェスを指す二人のそばに腰を下ろし、気軽に誘いの言葉をかけた。


「洋書を買いすぎて節約中だ。」 

 伊達がポーンを動かしながら、そっけなく答える。

「こちらも金欠中ですよ。」 

 河村もチェス盤から視線を外さず、軽く流した。


「うわぁ、冷た……いいよ、俺が奢る。」 

 橘は懐から封筒を取り出しながら言った。シュミット少将の亡命資金として金時計を担保に伊達から借りた千円を返済するため、彼はこの半年、記者の仕事をかなり増やしていた。

 その甲斐あって年末には無事借金を完済できたが、今週になって遅れていた分の振り込みがあったのだという。


「こう見えて俺の記事、なかなか人気なんだぜ。」 

 橘は少し胸を張って言った。


「伊達学の『裏事情』シリーズですか。」 

 河村がため息まじりにナイトを進める。伊達が盤から顔を上げ、橘を睨みつけた。


「橘……詳しく聞かせてもらおうか。」



2.

 翌日の昼、道玄坂にある鰻屋に橘、伊達、河村の姿があった。 

 品書きをちらりと見て、伊達が「亀で」と言った。一番高い鰻重である。

「では私も。」 

 河村もそれに続いた。

「お前ら、容赦ねぇな……」 

 橘が少し頬を膨らませる。伊達は黙って茶を啜っていた。河村は、何かを思い出したようにふっと笑った。


「あれ、河村、思い出し笑い? 助平なやつか?」 

 橘が沈黙を破るように問いかけた。

「つまらない思い出ですよ。初めて鰻を食べたときのことです。」

「鰻が焼けるまで時間かかるみたいだし、その話、聞きたいわ。」 

 橘に促されて、河村はまた少し笑った。

「では、鰻のお礼に、少しお話しましょうか。」


3.

「あれはまだ私が大尉になったばかりの頃の話です……」


 河村は軍医であったが、数ヶ月前に情報部から声がかかり、横須賀の海軍病院から本省へ異動となっていた。 

 本職である医務局での業務も、情報将校としての研修もまだ慣れず、毎日疲れ果てては官舎との往復を繰り返す日々だった。

 そんなある日、河村のもとに一通の伝言が届く。


『この前の礼に、食事をご一緒したい。連絡を待つ。  某』


「この前の……礼?」 

河村は首をひねり、少し考えた後、はたと手を打った。 

 二ヶ月前、横須賀に出張した際に応急処置を施した士官がいた。確か、軍医ではなかったが、同じ情報部に所属する少佐だった。


 河村は少佐に連絡を取り、週末の夜に水交社で食事をすることとなった。


 約束の日、河村は五分前に水交社に到着し、少佐を待った。時間になっても姿が見えず、河村は少し不安を覚えた。

「もしかして、日付か時間を間違えてしまったのだろうか……」 

 時計を確認しながら、つぶやく。

 待ち合わせの時刻を十分過ぎた頃、入口のドアが開き、件の少佐が駆け込んできた。


「悪い、悪い。ちょっと仕事が長引いてな。」

 夏服の襟のホックをはめながら、少佐は息を整えつつ言った。前回会ったときは私服に無精髭だったが、今日はきちんと制服を着用し、髭も剃られていた。 

 目つきは鋭いが、どこか色香があり、女性にもてそうな風貌である。


「腹が減ってるだろ?早く飯にしようぜ。」

 少佐は受付に声をかけ、レストランの方へと楽しげに歩きはじめた。


鰻食べたいです!

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