第1話 異世界街道の焼き餃子
県境の短いトンネルを抜けた途端、アスファルトが消えた。
藤代誠吾は反射的にアクセルから足を離し、キッチンカーをゆっくり減速させた。舗装路だったはずの道は、いつの間にか土と小石を踏み固めただけの街道へ変わっている。後ろの厨房では、固定具に収めた玉杓子が金具へ触れ、カン、と小さな音を立てた。
路肩へ寄せて車を止め、誠吾はフロントガラス越しにしばらく周囲を眺めた。
白線もガードレールも電柱もなく、道の両側には深い森が迫っていた。背丈を越える羊歯に似た植物の上を、見たこともない青い尾羽の大鳥が横切っていく。夕暮れ前の陽光が梢の隙間から差し込み、湿った土と濃い緑の匂いが、開けた窓から車内へ入り込んできた。
バックミラーには、たった今通り抜けたはずのトンネルが映っていない。
同じような土の道が、森の奥へ続いているだけだった。
「……道を間違えた、で済む景色じゃないな」
声に出してみても、もちろん答える者はいない。
誠吾は48歳。18歳で町中華の厨房へ入り、それから30年、中華料理一本で飯を食ってきた。
最初は皿洗いと掃除ばかりだった。やがて包丁を持たせてもらい、鍋を振り、麺場、揚げ場を覚え、小さな町中華から宴会場を備えた大型店までいくつもの厨房を渡った。最後に勤めた店では、料理だけでなく仕入れや人員配置まで任される立場になっていた。
料理が嫌になったわけではない。むしろ、その逆だった。
忙しい厨房で何十人分もの注文をさばくことにも充実感はあったが、気づけば仕込みと営業と人の穴埋めに追われ、自分のためにどこかへ出かけることも、知らない土地の料理をゆっくり食べることもほとんどなくなっていた。
だから思い切って店を辞めた。
貯めた金で中古のキッチンカーを買い、中華仕様に改装した。強火を使える中華レンジ、餃子用の鉄板、蒸し器、冷蔵冷凍庫。厨房の奥には最低限寝泊まりできる小さな居住区も作った。
車体の販売窓には、中華鍋を車輪に見立てた印と《旅中華 火輪》の文字が入っている。
各地の市場を回り、うまいものを食べ、気に入った食材があれば自分でも料理する。その土地で腹を空かせている人間がいれば、店を開く。
30年働いた後で、ようやく始めたかった暮らしだった。
その旅の出だしで、どうやらとんでもない場所へ迷い込んだらしい。
スマートフォンを確認すると圏外で、地図アプリは現在地を取得できていなかった。緊急通報もつながらず、姉へ送るつもりだった到着連絡が未送信のまま残っている。
誠吾はその画面を数秒眺めてから、スマートフォンを伏せた。
姉や日本のことが気にならないわけではない。しかし、電波のない場所で焦ったところで何も変わらない。
厨房でもそうだった。設備が壊れた、仕入れが届かない、急に人が休んだ。長く現場にいれば、予定どおりにいかない日は珍しくない。そんなとき、最初にやることは慌てることではなく、何が使えて何が使えないのかを確かめることだった。
誠吾は運転席を降り、まず車体を一周した。タイヤに異常はなく、外装にもぶつけた跡は見当たらない。
続いて助手席側の扉から厨房へ入る。
冷蔵庫は4度、冷凍庫は氷点下18度を保っている。今朝包んだ餃子が64個、炒飯用に炊いて冷ました米が10人分ほど。卵、葱、自家製のチャーシュー、寸胴には澄んだ鶏の清湯も残っていた。
蛇口を捻れば水が出る。換気扇も動いた。
「電気も水も問題なし……問題なしでいいのか、これは」
車の外には電線一本ない。
そこで、壁へ固定した在庫管理用の端末が見慣れない画面を映していることに気づいた。
《固有加護 万里の料理人》
その下には、《共通語理解》《移動厨房》《遠隔仕入れ》《食材眼》《現地仕入れ》という5つの項目が並んでいた。
誠吾は眉を寄せながら画面へ触れた。
説明そのものは短い。
言葉と一般的な文字を理解できる。
火輪を丸ごと収納し、目で確認できる安全な場所へ呼び戻せる。
現地の金を使い、日本の食材や調味料、厨房用品を購入できる。
未知の食材について、食べられるかどうか、毒性、鮮度、可食部などを見分けられる。
さらに食材の採取や運搬、解体に必要な身体能力が補助される。
それだけだった。
なぜここへ来たのか、誰がこんなものを与えたのか、日本へ戻る方法があるのかについては何も書かれていない。
「便利な説明書だが、知りたいところだけ載ってないな」
誠吾は苦笑した。
分からないことを考え続けても仕方がない。確認できるものから確かめることにして、《移動厨房》の詳細へ目を通す。
人や動物が中にいる状態では収納できない。召喚先は、車体が収まる広さがあり、目で安全を確認できる場所に限る。収納中は内部の時間が止まり、出している間の走行や厨房、冷蔵冷凍、給排水には魔力が使われるらしい。
現実離れした話なのに、制約だけ妙に実務的だった。
誠吾は車内を確認してから外へ出た。周囲に人影も獣の姿もないことを確かめ、火輪から数歩離れて収納を意識する。
車体の輪郭が陽炎のように一度揺らいだ。
直後、そこにあったはずの火輪が消えた。
「……なるほど」
理解したつもりでも、30年働いてようやく手に入れた自分の店が跡形もなく消える光景は、あまり気分のいいものではない。
誠吾はすぐ、先ほどと同じ場所へ呼び戻した。
空気が揺らぎ、火輪が何事もなかったように現れる。扉を開けて厨房を確認すると、室温も食材も変わっていなかった。
「これなら、使い道はいくらでもあるな」
便利なものをわざわざ怖がる年齢でもない。問題なく使えるなら、旅をするうえでありがたく使わせてもらえばいい。
運転席へ戻ってキーを回す。
火輪は今までと変わらない低い音を立てて動き始めた。ただし端末には《魔力駆動中》と表示され、燃料の残量欄は消えている。
日が傾き始めていた。
夜を森の真ん中で迎えるより、まず人のいる場所を探した方がいい。街道には新旧いくつもの轍が残っている。誰かが使っている道なら、いずれ町か村へつながっているはずだ。
誠吾は速度を落とし、土の街道を進んだ。
20分ほど走ったところで、前方に2台の荷馬車が見えた。
そのうち1台は左へ大きく傾いている。荷車を引く動物は馬に似ているが、額から後方へ反った2本の角が生えていた。
荷台のそばには5人ほど人がいる。革鎧を着た2人は腰に剣を下げており、こちらへ気づくと表情を硬くした。
誠吾は十分に距離を残して火輪を止めた。
見知らぬ場所で、見知らぬ相手だ。しかもこちらは相手から見れば正体の分からない乗り物に乗っている。いきなり近づいて余計な警戒をさせる必要はない。
運転席の窓を開けた。
「驚かせたなら申し訳ない。道を尋ねたいんですが、少し話せますか」
自分では日本語を話した。
ところが、相手はきちんと意味を理解したらしい。
護衛らしい2人は剣へ手を添えたままだったが、抜こうとはしなかった。やがて、茶色い髭を短く整えた50歳前後の男が一歩前へ出る。
「こちらこそ構えてすまない。見たことのない魔導車が森から出てきたものでな。私はバセル、レドニアへ向かっている雑貨商だ」
男の口の動きは、明らかに日本語ではなかった。
それでも意味は自然に頭へ入ってくる。
《共通語理解》。
端末に表示された能力は、本当に働いているらしい。
「藤代誠吾です。セイゴで結構です。料理を売りながら旅をしています」
「料理を?」
バセルの目が火輪へ向く。
珍しそうにはしているが、勝手に車体へ触れたり覗き込んだりはしない。商人らしい節度のある距離だった。
「後ろが厨房になっています」
「なるほど。それで側面に大きな窓があるのか。変わった造りだとは思ったが、移動する料理店というわけですか」
「そんなところです」
短くやり取りをしたあと、誠吾は傾いている荷馬車へ目を向けた。
「そちらは故障ですか?」
「車軸を留める金具が割れましてね。応急処置だけで荷を積んだまま進むのは危ない。今夜はここで野営して、明日レドニアから職人を呼ぶつもりでした」
「町までは遠いんですか」
「荷馬車なら1時間半ほどでしょう。そちらの魔導車なら、もう少し早いかもしれません」
これで行き先は決まった。
バセルから頼まれ、町へ着いたら職人組合へ故障を伝えることも引き受ける。道を教えてもらった礼としては十分だった。
話が一段落したところで、誠吾は西へ傾いた太陽を見た。
「皆さん、夕食はこれからですか?」
「黒パンと干し肉があります。旅の途中ですから、腹へ入れば十分ですよ」
バセルはそう答えたが、荷台の脇では若い御者が、かなり硬そうな黒パンを取り出している。
誠吾自身も朝からまともな食事を取っていなかった。
「俺もここで夕飯にしようと思っています。車の中で火を使いますが、かまいませんか」
「街道を塞がず、火の始末をしていただければ問題ありません」
「煙もほとんど外へは出ません。それなら、少し場所を借ります」
誠吾は火輪を街道脇の平らな空き地へ移した。
車体を水平に止め、輪止めを置く。日除けを張って販売窓を開け、手を洗ってから白い上着と前掛けへ着替えた。
中華レンジへ火を入れる。
強い青火が低く唸り、換気扇が回り始める。
その音を聞いた瞬間、誠吾の気持ちは自然と切り替わった。
ここがどこなのかも、なぜ来たのかも分からない。それでも、厨房に立てばやることは30年間変わらない。
冷蔵庫から餃子を取り出した。
今朝、自分で包んだものだ。
鉄板へ薄く油を引き、まず自分の夕食に6個ほど焼こうとしたところで、販売窓の向こうから声をかけられた。
「セイゴさん」
バセルが立っている。
先ほどより警戒は薄れていたが、販売窓から一歩離れたところで足を止めていた。
「はい」
「それは、売り物にもなる料理ですか?」
「ええ、そのつもりで仕込んだものです」
「人数分あるようでしたら、我々にもお願いできますか。当然、代金は払います」
誠吾は盆の中を確認した。
64個ある。5人へ6個ずつ出しても、自分の分と追加に十分余裕があった。
「作れます。ただ、俺はこの辺りの食事の値段を知らないんです。先に相場を教えてもらえますか」
「そうですね……町なら、煮込みとパンで銅貨5枚ほどでしょう。肉が多ければ7枚前後。銅貨10枚で小銀貨1枚です」
「それなら、焼き餃子6個と、卵と肉の炒飯、鶏のスープを付けて銅貨8枚。そのくらいならどうでしょう」
「ギョーザもチャーハンも、初めて聞く料理です」
「見てから決めてもらってもかまいませんよ」
バセルは少し笑った。
「ここまで腹を刺激する匂いを出されて、今さら黒パンへ戻るのも惜しい。5人分お願いします」
「ありがとうございます」
注文が入れば、そこからは仕事だった。
誠吾は自分の分も含めて36個の餃子を鉄板へ並べた。
ひとつひとつの間隔を揃え、まず底面へ熱を入れる。油に触れた皮から細かな音が立ち、薄い焼き色がつき始めたところで水を回し入れ、すぐに蓋をかぶせた。
水が一気に蒸気へ変わる。
蓋の縁から白い湯気が立ち、その中に豚肉、白菜、ニラ、生姜、ごま油の香りが混じって流れ出した。
荷馬車のそばにいた者たちが、自然と火輪へ顔を向ける。
誠吾は横で鶏の清湯を小鍋へ移し、温めながら味を見る。朝に取ったスープは冷えている間に味が少し落ち着いていたため、塩をわずかに足し、白胡椒を利かせた。仕上げの葱は椀へ注ぐ直前に入れる。
次は炒飯だ。
中華鍋を強火へかける。
5人前を一度に作ろうとはしない。強火のレンジがあるからといって、鍋の容量を無視して米を放り込めば温度が落ちる。3人前を先に作り、残り2人前をもう一度。自分の食事は、客へ出し終えてから作ればいい。
鍋を十分に熱し、油をなじませる。
刻んだチャーシューを入れると、脂がゆっくり溶け、甘い醤油の香りが立った。そこへ溶き卵を流し込み、縁がふくらんだ瞬間に冷ました米を加える。
玉杓子で米を押し潰さず、鍋肌へ薄く広げては返す。
米粒を卵と油で包みながら、余分な水分だけを飛ばしていく。強火が鍋底をなめ、金属の触れ合う乾いた音とともに、葱の青い香りが厨房へ広がった。
塩と白胡椒で味を整え、最後に醤油を鍋肌へ細く落とす。
焦がした醤油の香ばしさが立った瞬間、販売窓の外で若い御者が小さく息を漏らした。
「これは……さっき包んでいた料理とは別なんですね」
「ええ。こっちは炒飯です。米を卵や肉と一緒に炒めます」
「ずいぶん香りが変わるものですね」
「醤油を鍋肌で焼いています。直接米へかけるより、香りが立つんです」
誠吾は説明しながらも手を止めなかった。
最初の3皿を仕上げると、鍋を一度きれいにし、同じ手順で残りを作る。
その間に、餃子の蓋を取った。
まとまっていた蒸気が一気に逃げ、ふっくらと膨らんだ白い皮が現れる。残った水分をしっかり飛ばしてから、ごま油をほんの少し回し入れた。
焼けた底面の香りが変わる。
皮の下だけが薄いきつね色に固まり、鉄板から自然に離れ始めたところで火を落とした。
折り畳み机と椅子を外へ出していると、革鎧を着た女性が近づいてきた。
「セイゴさん、皿くらいなら運びましょうか」
「お願いできますか。スープだけは熱いので、こちらで持ちます」
「分かりました」
手を借りられるところは借りる。
ただし、初対面の相手をいきなり厨房へ入れることはしない。そこは自分の仕事場だ。
白い皿へ炒飯を盛り、その横へ餃子を6個ずつ並べる。鶏のスープを添え、餃子には醤油と酢を合わせたたれを別皿で付けた。
「餃子は中に熱い肉汁があります。最初の一口だけは、少し気をつけてください」
その注意を聞いた若い御者は、フォークで餃子を半分に割った。
焼けた底の皮が小さく音を立てて割れ、中から透明な肉汁が皿へにじむ。しばらく湯気を逃がしてから口へ入れると、御者はすぐには何も言わず、ゆっくり噛んだ。
やがて、もう半分へ手を伸ばした。
「皮の中に肉と野菜を閉じ込めているんですね。焼いたところは香ばしいのに、上は柔らかい」
「最初に底を焼いて、そのあと蒸しています。中まで火を通しながら、皮を硬くしすぎないためです」
隣では、バセルが餃子の断面を確かめていた。
「肉だけではないんですね」
「白菜とニラ、それに生姜を入れています。肉だけより軽く食べられますよ」
バセルはたれを少しだけ付けて一口食べ、その後は何も付けずにもう一つ口へ運んだ。
「私は、こちらの方が好みですな。たれなしでも肉の味が十分ある」
「それなら、何も付けずに食べてください。決まりなんてありませんから」
革鎧の女性は、炒飯を匙ですくっていた。
米粒は一つ一つ離れているが、表面が乾いているわけではない。卵の柔らかな香りの間から、チャーシューの甘みと焦がした醤油が顔を出す。
「この米、油でべたつかないんですね」
「油の量が多ければうまくなる料理じゃありません。それに、一度に作りすぎると鍋の温度が下がります」
「南の地方で食べた米料理は、もっと水気がありました」
「それはそれで、そういう料理なんでしょう。俺の炒飯は、米粒を残して仕上げる方です」
女性は納得したようにうなずき、また匙を動かした。
5人の食べ方はそれぞれだった。
炒飯と餃子を交互に口へ運ぶ者もいれば、まずスープを飲んでからゆっくり皿を空ける者もいる。若い護衛は卓上に置いたラー油を少し試し、辛さに目を細めながらも、もう一滴だけたれへ足した。
全員が同じ反応をする必要などない。
料理人にとっては、食べ方の違いを見るのも面白かった。
やがて会話が減り、食器の触れ合う音の方が多くなる。
誠吾はそれを横目に見ながら、自分の分の炒飯を作った。
鉄板から取り分けておいた餃子も皿へ移し、ようやく一つ口へ入れる。
底の焼き具合は悪くない。皮の弾力も残っている。
ただ、朝に包んでから時間がたったぶん、餡が少し締まっていた。
「もう少し清湯を含ませてもよかったな」
小さく呟くと、バセルが顔を上げた。
「何か気になるところでも?」
「俺の好みの話です。朝に包んだ分なので、中の餡が少し締まっています。次に同じものを出すなら、もう少し柔らかくした方がいい」
バセルは手元の餃子を見た。
「私たちには十分うまいですが、料理人はそういうところまで気にするものですか」
「商売で30年やっていますからね。客がうまいと言ってくれるのはありがたい。でも、それと自分で気づいたところを直すのは別です」
「なるほど。長く続けるというのは、そういうものなのかもしれませんな」
同年代に近い商人の落ち着いた言葉に、誠吾も少し笑った。
「商売も同じじゃないですか」
「耳が痛い。私も30年近くやっていますが、未だに仕入れで読み違えます」
「だったら、お互いまだ働けそうですね」
「まったくです」
そんな話をしていると、食べ終えた若い御者が空の皿を前へ置いた。
「セイゴさん。すみません、餃子だけもう一皿お願いできますか」
「もちろん。6個で銅貨4枚になります」
「お願いします」
誠吾は立ち上がり、追加の6個を鉄板へ並べた。
最初の36個で5人分と自分の分を焼き、さらに6個。これで残りは22個になる。
旅に出る前なら、夕食だけでこれほど減るとは思っていなかった。
だが、悪い気分ではない。
追加分を焼き終える頃には、空はかなり暗くなっていた。
バセルが販売台へ小銀貨を5枚置く。
5人分の食事で小銀貨4枚、追加の餃子を入れても銅貨6枚分多い。
「バセルさん、多いですよ」
「分かっています。その差額は、レドニアへ着いたら職人組合へ書付を届けてもらう分です。商人同士、頼み事は対価をはっきりさせておいた方がお互い気楽でしょう」
「それなら遠慮なくいただきます」
誠吾は素直に受け取った。
無料の親切を積み重ねるより、仕事として線を引いた方が付き合いやすい相手もいる。バセルは、どうやらその類らしい。
荷台から紙を取り出したバセルが、車大工へ宛てて短い書付を作った。
「西門を入って右手の通りを進めば職人組合があります。これを渡せば分かるでしょう」
「了解しました」
「それから、料理を売るつもりなら東市場へ行くといい。旅商人用の区画があって、空いていれば日ごとに場所を借りられます」
「市場には、どんなものが出ます?」
誠吾がそう尋ねると、バセルは少しだけ表情を緩めた。
「そちらの方が気になりますか。朝なら農家、猟師、魚売りが集まります。昼からは職人や荷運びの者が増える。珍しい食材を探すなら朝の方が面白いでしょうな」
「猟師も来るんですか」
「ええ。肉だけでなく、茸や山菜のようなものも持ってきますよ」
誠吾の頭の中で、明日の予定が一つ増えた。
町の場所が分かっただけでも十分だったが、市場があるなら見ない手はない。
「助かります。朝から行ってみますよ」
「料理の話になった途端、ずいぶん楽しそうですな」
「そこは30年たっても変わらないらしいです。知らないものを食べるのも、料理するのも好きなんですよ」
「それなら、レドニアでは退屈しないと思います」
食器を洗い、鉄板と調理台を清める。折り畳み机を拭き、椅子と日除けを車内へ収めた頃には、森の上へ夜の色が下り始めていた。
出発前に、誠吾は《遠隔仕入れ》も試しておくことにした。
端末の画面を開くと、精算用の小さな受け皿が現れる。バセルから受け取った小銀貨を1枚入れると、残高に同じ硬貨の表示が出た。
商品一覧には米や肉、野菜、調味料、飲料、洗剤、厨房用品まで並んでいる。
日本で見慣れたものばかりだった。
試しに、うるち米2キロを注文する。
価格は小銀貨1枚。
購入を確定して少し待つと、厨房奥にある専用受取庫から短い音がした。
扉を開ける。
未開封の米袋が入っていた。
手に取れば、乾いた袋の感触も重量も、日本で仕入れていたものと変わらない。
「本当に買えるのか」
誠吾は袋を棚へ収めた。
これなら、米も肉も野菜も、最低限の材料が手に入らず営業できないということはなさそうだ。
だからといって、この先ずっと通販だけで済ませる気にはならなかった。
せっかく知らない土地へ来たのだ。
そこで何が採れ、何を食べ、どう料理しているのかを見ずに、日本の材料だけで作り続けるのは面白くない。
料理人として、それはもったいなさすぎる。
運転席へ戻る。
助手席には職人組合へ届けるバセルの書付があり、財布には残った小銀貨4枚。冷蔵庫の餃子は22個まで減ったが、明日必要ならまた包めばいい。
火輪を走らせて30分ほどすると、森が途切れた。
夕闇の向こうに、石造りの城壁が見える。
門へ続く街道には何台もの荷車が並び、城壁の内側からは細い煙が何本も立ち上っていた。風向きが変わると、焼いた肉の香ばしさや、香草を使った煮込みらしい匂いまで流れてくる。
誠吾は無意識に鼻を利かせた。
知らない町へ来た不安より、何を食べているのかという興味の方が、少しだけ勝った。
「まずは書付を届けて……それから、この町の飯だな」
市場は明日の朝でいい。
今夜はまず、この世界の料理を一つくらい食べてみたい。
そう考えながら、誠吾は城壁都市レドニアの西門へ向けて火輪を走らせた。




