第2話 いわゆる両統迭立に至った事情(前編)
そして、後堀川天皇陛下の皇統が、そのまま皇位を継承していけば問題無かったのでしょうが、四条天皇陛下の急な崩御によって、後堀川天皇陛下の皇統は絶えてしまいます。
そうしたことから、次の皇位に即位するのは大揉めに揉めることになり、順徳天皇陛下の皇子、忠成王が最有力候補でしたが、忠成王が即位された場合、当時は存命だった順徳上皇陛下が、「治天の君」となって「院政」を敷くのは確実なこと等から、鎌倉幕府が介入して、土御門上皇陛下の皇子、邦仁王が1242年に後嵯峨天皇陛下として即位されることになります。
ですが、土御門上皇陛下は既に崩御されており、そうしたことから、「院政」を執り行う「治天の君」が不在という異常事態が生じることにもなりました。
私としては、そういった異常事態を解消するためにも、後嵯峨天皇陛下は4年程で退位し、1246年に御深草天皇陛下が即位する事態が起きたのではないか、と憶測しています。
そして、後嵯峨上皇陛下が「治天の君」となり、後深草天皇陛下、その弟の亀山天皇陛下の下で、「院政」を敷く事態となりますが、1272年に後嵯峨上皇陛下は崩御されるのですが、困ったことに後嵯峨上皇陛下は、この後の「治天の君」は誰なのか、後深草上皇陛下なのか、それとも亀山天皇陛下なのかを指名しませんでした。
この辺り、自らの即位の経過から、鎌倉幕府に任せるべきだ、と後嵯峨上皇陛下が考えられたからなのでしょうが、鎌倉幕府というか、当時の鎌倉幕府の中で進んでいた「得宗専制体制」にしてみれば、トンだ厄介事を持ち込まれることでした。
「得宗専制体制」って何、と言われる方がおられると考えるので、手短に説明すると。
(実際、歴史好きの私も十年程前になるまで、この言葉を知りませんでした)
鎌倉幕府については、源頼朝の頃は将軍が実権を握っていたが、二代将軍以降は執権、北条家が徐々に実権を握ることになります。
ですが、それは結果的には血に塗れる事態を引き起こし、鎌倉幕府内では、様々な有力御家人の粛清が行われることにもなります。
更には、北条家内部でも本家(得宗家)と分家(名越家等)が対立する事態にまで突入します。
その結果として生じたのが、得宗家が幕府の実権を握る「得宗専制体制」です。
ですが、これは表面上は強固な体制でしたが、権威については問題がありました。
鎌倉幕府は、どうのこうの言っても将軍が頂点の体制になります。
更に北条家本家、得宗家にしても、北条泰時、時頼、時宗といった名君はいましたが、名君一人で全てのことが出来る訳が無く、更には貞時等、有能とは言い難い当主になることがありました。
そうしたことから、得宗家の被官、御内人が「得宗専制体制」の下で、時宗の死後には徐々に幕府の実権を握る事態が起きます。
そして、この統治体制がそれなりに上手く行っていればまだしも、「元寇」等の事態によって、多くの御家人を始めとする国内諸勢力が不満を高める事態が起きつつありました。
更に言えば、幕府の実権を握るのが、幕府内では特に重要な役職についていないことが多い、御内人という事態が起きたのです。
後、得宗家当主にしても、官位は精々が正四位下といったところで、公卿の末席にも座れない立場に過ぎないのです。
何で、そんな当主に仕える人間が、幕府の実権を握るのだ、という不満が淀むことになりました。
更に厄介なことに、「得宗専制体制」には権威が乏しいことから、大胆な改革が極めて困難で、前例踏襲でその場を凌ぐことが多発したのです。
そうした中、「治天の君」についての裁定を鎌倉幕府、「得宗専制体制」が朝廷から求められて。
困惑することになりました。
御感想等をお待ちしています。




