第1話 南北朝時代前史、院政の頃から
最近、森茂暁氏の「南北朝時代」という新書を購入して読んだことから、私なりに何故に「南北朝時代」が起きたのか、自分の考えをエッセイとして纏めることにしました。
つい、最近、具体的には2026年夏、森茂暁氏の「南北朝時代」という新書を通して読みました。
その本の感想自体は、読書メーターで書こうと考えていますが。
その一方で、私なりに何故に「南北朝時代」が起きたのか、更には、もしも、ということを、エッセイとして考えて、投稿したい、と考えることになりました。
前にも、歴史の流れは必然なのか、偶然なのか、ということを書きましたが。
改めて「南北朝時代」に至ったのは何故なのか、その後に起きた流れは何故なのか。
それは必然だったのか、偶然だったのか。
そういったことについて、今の私なりに想い考えることをまとめたい、と考えた次第です。
さて、「南北朝時代」について、何処まで遡って考えるかについては、人によって色々と考えられるでしょうが、私としては、「院政」の始まりが、その転換点だった気がしてなりません。
何故に、そう私が考えるのか。
私なりの考えを、以下に述べます。
私の世界史知識、調査が大いに誤っているかもしれませんが。
日本史のみに詳しい人からは、大いに驚かれることが多い気がしますが、「院政」というのは、歴史的には日本でのみ行われており、日本以外では史上存在しなかった、と言っても過言ではありません。
(細かいことを言えば、ヴェトナムの陳朝でも「院政」が行われていた、という説があるようです。
唯、私なりの理解、考えを言えば、陳朝は土着の王権ではなく、基をただせば中国南部の福建、又は桂州からヴェトナムに移民してきて、漁業や水運業、更には海賊業で力を蓄えた中国人、華僑の一族が、当時のヴェトナム人の李朝と通婚関係を結んだ末に、李朝を簒奪して新王朝となったと理解しています。
その関係から、陳朝とヴェトナム人の関係は微妙なものがあり、それこそヴェトナム人に因る王朝簒奪を警戒したことから、「院政」を敷くことで陳朝の王権安定が図られていたのではないか、と私としては考えています)
そして、日本で「院政」が始まった経緯ですが、そもそも論になりますが、世界各地でも見られた外戚政治、日本で言えば摂関政治が上手く行かなかったことが発端、と私は考えます。
それこそ御堂関白、藤原道長の時代までは上手く行っていましたが、その子の藤原頼通は、今上陛下の外戚の継承に失敗し、結果的に外戚政治、摂関政治を続けることに失敗してしまいました。
その一方で、道長、頼通父子による長年の摂関掌握は、外戚でない「摂関家」成立を導きます。
又、後三条天皇陛下も、白河天皇陛下も、自分なりの皇位継承の思惑を抱いており、それと「摂関家」の成立が絡み合ったことから、自分なりの皇位継承の思惑を順当に進めるために、紆余曲折はありましたが、結果的に白河上皇陛下が「院政」を初めて、いわゆる「治天の君」が今上陛下の即位を差配した、といっても過言ではない「院政」が成立することになります。
そして、白河上皇陛下の崩御後、「治天の君」は鳥羽上皇陛下が受け継ぎましたが、様々な事情が絡み合った末に、鳥羽上皇陛下の崩御後、保元・平治の乱が起きて、平清盛が政権を掌握し、更には源平合戦が起きて、鎌倉幕府が成立する、という流れになります。
ですが、「院政」は結果的には、後白河上皇、後鳥羽上皇の下で継続されていました。
そして、余りにも長く続いていたことから、「承久の変」で後鳥羽上皇の「院政」が打倒される事態が起きたモノの、「院政」は続けられるべきだ、との公家や武家の意識は極めて強かったのです。
そうしたことが、守貞親王殿下を後高倉院として、後堀川天皇陛下の下で「院政」を敷くという異常事態と言っても過言ではない事態を引き起こしたと考えます。
御感想等をお待ちしています。




