第3話 いわゆる両統迭立体制に至った事情(後編)
ともかく、鎌倉幕府にしてみれば、幕府内外のことだけでも頭が痛い状況下、「治天の君」を誰にするのか、という難題が持ち込まれたのです。
鎌倉幕府は内部協議の末、後嵯峨上皇陛下の御遺志に従うべき、という回答を朝廷に行いました。
そして、後嵯峨上皇陛下の正妻といえた大宮院が、後嵯峨上皇陛下の御遺志は、「治天の君」を亀山天皇陛下にすべきとのことだった、と主張されたことが決め手となり、「治天の君」は(退位後の)亀山天皇陛下と決まりますが、このことは後深草上皇陛下から大いなる反発を買います。
何故なら、亀山天皇陛下が「治天の君」となっては、これまでの先例からして、後深草上皇陛下の子孫が即位することはアリエナイと言っても過言ではないからです。
後深草上皇陛下は反発の余り、太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明するまでの事態となります。
まさか、此処までの事態になるとは、とこの時の朝廷の主要人物の多くが考えたようで、大宮院とその甥になる西園寺実兼が主に奔走した結果、亀山天皇陛下の皇太子殿下は世仁親王殿下(後の後宇多天皇陛下)でしたが、その次の皇太子殿下は、後深草上皇陛下の皇子である熙仁親王殿下(後の伏見天皇陛下)がなるという妥協案がまとめられましたが。
このことが「両統迭立」の発端となります。
後深草上皇陛下の子孫が「持明院統」となり、亀山上皇陛下の子孫が「大覚寺統」となって、双方が皇位を継承しようと画策する事態が起きたのです。
そして、「持明院統」の皇位継承についても、色々と面白いと言うか、興味深い話が、裏らしい話も含めて転がっていますが。
それをやると、話の主題が取り散らかりそうなので、「大覚寺統」の皇位継承、何故に後醍醐天皇陛下の即位という事態に至ったのか、について絞って話を進めます。
後宇多天皇陛下の即位から譲位、伏見天皇陛下の即位までは、それなりに順当に流れましたが。
鎌倉幕府の混乱、霜月騒動等の余波は、結果的に朝廷にまで及び、伏見天皇陛下の譲位、後伏見天皇陛下の即位という事態を生じさせます。
この辺りですが、亀山上皇陛下が、鎌倉幕府の重鎮御家人といえた安達泰盛と親しかったこと。
更にそれを危険視した御内人の平頼綱らによる霜月騒動で、安達泰盛が粛清されたこと等から、大覚寺統が忌避されて、持明院統出身の後伏見天皇陛下の即位という事態が起きたようです。
ですが、此れは此れで大覚寺統(及びその関係者達)の猛反発を引き起こします。
更には後深草上皇陛下と伏見上皇陛下の父子対立も絡んだことから、後伏見天皇陛下の即位に伴い、その皇太子として、大覚寺統の邦治親王殿下(後の後二条天皇陛下)が選ばれることになります。
その結果として、後に後伏見天皇陛下の退位に伴い、後二条天皇陛下が即位しますが。
後二条天皇陛下の急な崩御が、大覚寺統の皇位継承計画に大幅な混乱を引き起こします。
(尚、持明院統にも混乱を引き起こすのですが、それに触れ出すと、このエッセイの軸がズレるので、敢えて触れないことにします)
後二条天皇陛下には、崩御時には既に息子になる邦良親王殿下という立派な後継者がおられましたが、まだ9歳に過ぎませんでした。
更に言えば、「神皇正統記」等に因れば、何らかの病に既に掛かられていたようです。
(「鶴膝を患っていた」とされており、小児麻痺等の病ではないか、と歴史学者の一部からは憶測されていますが、詳細は不明としか言いようがないようです)
こうしたことから、後二条天皇陛下の次の今上陛下に、持明院統出身の花園天皇陛下が即位する一方で、その皇太子殿下として尊治親王殿下(後の後醍醐天皇陛下)が定められることになります。
御感想等をお待ちしています。
尚、話中で述べている、此れまでの先例ですが、保元の乱の際の崇徳上皇陛下等のことです。
崇徳上皇陛下が、自分の皇子の皇位継承を望みつつ、阻まれた先例からすれば。
後深草上皇陛下が、崇徳上皇陛下と同様の目に遭うと危惧するのも当然ではないでしょうか。




