第19話 足場と、行けるところまで
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第19話 足場と、行けるところまで
朝市から数日が経ったある朝、灯台荘の台所はいつものように静かだった。
雫は昨夜のことば帖を開き、ページを指でなぞっていた。
「ふるふる」「花屋の前」「足場」——あの日の言葉が、まだ胸の奥に柔らかく残っている。
文子さんが味噌汁をよそいながら、穏やかに言った。
「今日、みんなでスーパーまで行かない?
新鮮な魚が安いらしいわよ」
真昼がすぐにホワイトボードに書く。
『行く』
蓮が補聴器を付けながら頷いた。
「俺も。昼から仕事だけど、朝なら大丈夫です」
透も窓際から静かに加わった。
「僕も。道は分かります」
雫はトーストを手に取ったまま、少しだけ息を止めた。
外へ出る、という言葉が、また胸のあたりに小さな「ふるふる」を呼び起こしていた。
朝市では行けるところまで行けたのに、今日はまた心の外側が少し薄くなっている気がする。
「……私も、行けたらいいんですけど」
文子さんはエコバッグを畳みながら、優しく微笑んだ。
「行けたら、でいいのよ。
途中まででも、足場が見つかったらそこで戻ってもいいから」
その一言で、雫の肩から少し力が抜けた。
10話の朝市で学んだ「途中まででもいい」が、まだ体に染みついている。
朝食の席で、みんなは自然に小さな計画を立て始めた。
スーパーまでは灯台荘から徒歩で20分ほど。
途中に小さな公園と、以前の花屋の角がある。
透が湯のみを置いて、静かに言った。
「雫さん、今日は『ふるふる』ですか?」
雫は少し驚いて笑った。
「分かりますか?」
「声の間が少し長いので。
無理しなくていいですよ。今日は半分でいい日でもいいんです」
真昼がスマホを打って見せる。
『私の“落ちる”も、外だと強くなる』
蓮が補聴器を調整しながら言った。
「俺は人混みで『砂嵐の日』になりやすいです。
だから今日は『足場』をいくつか決めておきましょう。
花屋の前とか、公園のベンチとか」
雫はあの朝市の花屋を思い出し、頷いた。
「あのときの花屋さん、確かに足場になりました。
止まって息を整えられたのが、すごく助かりました」
文子さんが満足そうにうなずく。
「みんな、それぞれに足場を持ってるのね。
全部行かなくても、足場から足場へつなげていければ、それで十分よ」
灯台荘を出ると、空は薄曇りで風が少し冷たかった。
最初は四人で並んで歩いていたが、雫の歩幅が少し遅くなると、真昼が自然にペースを合わせてくれた。
蓮は時々振り返り、「今、砂嵐っぽい感じする?」と軽く声をかける。
透は前を歩きながら、「ここ、道が少し傾いていますよ」とゆっくり伝えてくれる。
商店街の手前、花屋の角が見えてきた瞬間、雫の胸が小さくざわついた。
「……ちょっと、ここで少し止まってもいいですか」
誰も驚いた顔をしなかった。
文子さんがすぐに言った。
「いいわよ。ここ、花屋さんね。いい匂いがする」
四人は花屋の前の小さなスペースで立ち止まった。
バケツに入った花の土の匂いと、水の湿った香り。
雫は深く息を吸い、胸の「ふるふる」が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
真昼がスマホを見せる。
『ここ、足場①』
蓮が笑った。
「俺も、少し砂嵐が近づいてきた気がする。ここで一旦メモ見ておくよ」
透が白杖の先を軽く地面に当てながら言った。
「僕も、少し遠い感じがします。
でも、ここなら大丈夫です」
数分立ち止まったあと、雫は小さく言った。
「…行けそうです」
「じゃあ、ゆっくり行こうか」
スーパーまでは、あと少しだった。
途中で小さな公園のベンチが見えたとき、蓮が提案した。
「ここ、足場②にしませんか?
少し座って息を整えましょう」
みんなでベンチに腰を下ろし、水筒のお茶を回した。
誰かが「今日は半分でいいね」と笑う。
その笑いは、ぎこちないけれど温かかった。
スーパーに着いたとき、雫は少し疲れていた。
でも、魚売り場の前で文子さんが「いちごのときみたいに、できたらでいいわよ」と言ってくれたので、
雫は自分で魚を選んで袋に入れることができた。
蓮は聞き取りにくい店員の声をメモで補い、真昼は人の流れを見て自然に位置を変えてくれた。
透は「ここに並んでますよ」と静かに声をかけてくれる。
買い物を終えて外へ出たとき、雫はみんなに言った。
「今日、スーパーまで行けました。
途中で二回、足場に止まったけど…ちゃんと行けました」
文子さんが柔らかく笑った。
「よく行ったね」
誰も大げさに褒めなかった。
ただ、静かに受け取ってくれた。
それが、雫には何より嬉しかった。
帰り道、雫はことば帖に新しい言葉を心の中で置いた。
足場(続き)
みんなで共有すると、もっと強くなる小さな安心の場所。
灯台荘に戻ると、台所でお茶の時間が始まった。
雫は買ってきた魚を小さく切り分けながら、ぽつりと言った。
「今日、外へ出るって決めただけで少しふるふるしてたんです。
でも、足場があって、待ってくれる人がいて、
『途中まででもいい』って言ってくれるから、行けました」
透が静かに答えた。
「生活弱者ファーストとは、
相手が『ふるふる』や『遠い』や『砂嵐の日』でも、
無理に全部をさせようとせず、
足場を一緒に探して、行けるところまでを認めてあげることなのかもしれませんね」
雫は透の横顔を見て、小さく微笑んだ。
「透さん、今日もいいこと言ってます」
「ときどき、ですか?」
「今日はいつもです」
みんなが静かに笑った。
その笑いは、10話の朝市で感じた「わらわら」に似ていて、
余白があって、温かかった。
夕方、雫はノートに今日の言葉を書き足した。
行けるところまで
平気じゃなくても、足場を頼りに、少しずつ外へ出ていくこと。
それが、今日の私の勝ち。
窓の外では、帰り道を歩く人々の足音が遠くに聞こえる。
雫はペンを置きながら思う。
外へ出ることは、今日も少し疲れた。
でも、足場があって、待ってくれる人がいて、
「半分でいい」と言ってくれる家がある。
それだけで、明日の朝も、また「ふるふる」と向き合える気がした。
外へ出るだけで疲れる朝がある。
「ふるふる」と心が揺れる日も。
そんなとき、足場を探し、途中まででもいいと言ってくれる人がいる。
この物語が、あなたの今日に「足場」を一つ、
そっと置いてくれますように。




