第3話 身体強化を手に入れたので、まずは試してみる
金曜日の午前0時を迎えたとき、俺はまだリビングの床に座っていた。
膝の上には、銀白色の毛並みをした月影狼のサクがいる。眠そうに目を細め、ときどき尻尾を動かしていたが、俺が立ち上がろうとすると前足で膝を押さえてくる。
「気持ちは分かるが、明日も仕事なんだ。これを引いたら寝るぞ」
声を掛けると、サクは渋々といった様子で膝から降りた。
目の前には、日付の更新と同時に現れたガチャの画面が浮かんでいる。
《デイリーガチャ》
利用料金:無料
本日の残り回数:1回
水曜日に突然この能力を手に入れてから、まだ二日しか経っていない。
最初の無料ガチャではSR《鑑定の書》を引き当て、1万円のノーマルガチャからはR《見習い冒険者の収納鞄》を獲得した。さらに10万円を使ったレアガチャで、SSRの月影狼を召喚している。
昨夜の無料ガチャはN《清浄の布》だったが、実際に油汚れを落とす効果があった。使い切りの生活魔道具としては悪くない品物だ。
つまり、ここまでの4回で完全なハズレはない。
もちろん、支払った11万円が安い買い物だったかと聞かれれば、即答は難しい。だが、今の日本では絶対に購入できないものばかりなのだから、単純に金額だけで評価するのも違うだろう。
「さて、今日は何が出るかな」
実行を選択すると、空中に白い光の球が現れた。
球はゆっくり回転しながら色を変えていく。
白から青へ。そして、紫。
最初の鑑定を手に入れたときと同じ色だった。
《SR確定》
《スキル書を獲得しました》
《SR 身体強化の書》
「……これは当たりだな」
眠気が一気に消えた。
テーブルの上へ現れたのは、赤褐色の革表紙を持つ薄い本だった。中央には剣と盾を組み合わせたような紋章が刻まれている。
俺はすぐに鑑定した。
《身体強化の書》
レアリティ:SR
分類:スキル習得アイテム
効果:スキル《身体強化》を習得する。
使用者の筋力、耐久、敏捷を一時的に強化する。
強化効果はスキルレベルと魔力消費量に依存する。
注意:強化中も肉体への負荷は発生する。
最後の注意書きが気になった。
身体能力が上昇しても、無理をすれば怪我をするということだろう。魔法で動かしているからといって、関節や筋肉まで無敵になるわけではないらしい。
それでも、俺が早い段階で欲しかった能力のひとつだった。
「使用する」
本が赤い光に包まれ、細かな粒子となって両手へ吸い込まれていく。
鑑定を習得したときとは違い、今度は肩から背中、腰、脚へと温かな感覚が広がった。
《スキル《身体強化 Lv.1》を習得しました》
俺は立ち上がり、軽く肩を回した。
特別な変化は感じない。
ステータスを開いても筋力10、耐久10、敏捷10のままだった。
どうやら常時発動型ではなく、必要なときに使う能力らしい。
「身体強化」
小さく唱えると、腹の奥から熱が湧き上がった。
視界がわずかに鮮明になり、足の裏で捉えている床の感触まで、いつもよりはっきりと伝わってくる。
試しにその場で膝を曲げ、ゆっくり伸ばしてみた。
普段より身体が軽い。
筋肉が突然増えたわけではないのに、動作に余裕がある。
ただ、その感覚に任せて勢いよく立ち上がった瞬間、天井へ頭をぶつけそうになった。
「危ない危ない。ここで怪我をしたら笑い話にもならん」
慌てて動きを止める。
サクが不思議そうにこちらを見上げていた。
もう少し試したかったが、深夜のマンションで激しく動くわけにはいかない。
俺は身体強化を解除し、ステータスを確認した。
《身体強化 Lv.1》
状態:解除
熟練度:1/100
魔力残量:8/10
魔力は2減っていた。
ただし、どの程度の時間でどれだけ消費するのかは、まだ分からない。
熟練度も存在している。
つまり、使い続ければ成長する可能性があるわけだ。
「無料でこれが引けるなら、毎日欠かさず回す価値はあるな」
サクは俺の足元へ寄ってきて、鼻先を膝に押しつけた。
抱き上げると、少し湿った鼻が頬に触れる。
「明日は俺の訓練だ。お前にも付き合ってもらうぞ」
返事の代わりに尻尾が揺れた。
俺はサクを契約領域へ戻し、今度こそ寝室へ向かった。
◇
翌朝、目覚まし時計に起こされた俺は、いつもと変わらない身体で出勤した。
身体強化を習得したからといって、普段から身体能力が上昇しているわけではない。
ただし、ひとつ違うことがある。
自分の意思で、必要なときだけ力を引き出せるのだ。
満員電車では試さなかった。
慣れない能力を人混みの中で使用するのは、周囲にも自分にも危険だろう。
会社へ到着すると、宮原が大量の書類を抱えていた。
「稲見さん、おはようございます。昨日の件、先方から回答が来ました」
「おはよう。交換品の納期は?」
「予定より3日遅れます。ただ、別の工場にある在庫を回せるそうです」
「それなら製造計画への影響は小さくできそうだな。品質保証の確認が取れてから発注を確定しよう」
宮原は頷き、書類を机へ置いた。
仕事そのものは、いつもどおりだ。
魔法を覚えたからといって、発注書が勝手に処理されるわけでも、取引先が値引きしてくれるわけでもない。
むしろ、昨夜は興奮して寝るのが遅くなったせいか、午前中は少し眠かった。
昼休み、俺は近所のスポーツ用品店を検索した。
身体強化の効果を確かめるには、運動する場所が欲しい。
だが、今のマンションには十分な空間がないし、公園で突然人間離れした動きを見せるのも避けたい。
できれば人目を気にせず訓練できる場所が欲しい。
そう考えると、明日内見する予定の戸建てがますます魅力的に思えてきた。
庭付きで、隣家との距離があり、物置まで備わっている。
もちろん、家賃だけで決められる話ではない。
サクの飼育についても、まだ確認するべきことが山ほど残っていた。
「稲見さん、何を見てるんです?」
宮原が弁当を持って隣へ座った。
「引っ越し先の候補だよ。庭付きの戸建てを探してる」
「えっ、家を買うんですか?」
「いや、賃貸。ちょっと広い場所が必要になってね」
「趣味の道具、そんなに大きいんですか?」
「今は小さいんだけど、将来的にはどうなるか分からなくて」
宮原は首を傾げた。
「何を買ったらそんなことになるんです?」
「生き物に近い道具、かな」
「余計に分からなくなりましたよ」
そう言って宮原は笑った。
俺も笑ってごまかしたが、嘘をつかずに説明するというのは、なかなか難しいものだ。
◇
金曜日の夜、帰宅した俺は、ホームセンターで購入した滑り止めマットをリビングへ敷いた。
それから収納鞄へ入れていた2リットルのペットボトルを取り出し、6本まとめて段ボール箱へ詰める。
水だけで12kg。段ボールを含めても、普通の成人男性なら十分持ち上げられる重さだ。
ただ、今回は重いものを持ち上げることが目的ではない。
身体強化を使ったとき、どれほど感覚が変わるのか知りたかった。
まずは能力を使わず、箱を持ち上げる。
腰を落とし、両手で底を支えて立ち上がると、腕と背中に相応の負担が掛かった。
次に箱を下ろし、身体強化を発動する。
胸の奥が温かくなり、全身の筋肉へ力が通るような感覚が生まれた。
同じ姿勢で箱を持ち上げる。
「おお……」
思わず声が漏れた。
重さそのものが消えたわけではない。
だが、先ほどは背中と腕で支えていた負担を、今度は余裕を持って受け止められる。
荷物を持ったまま身体をひねっても、重心がぶれにくい。
膝を曲げてゆっくり下ろす動作にも、普段より安定感があった。
俺は箱を置き、身体強化を解除した。
魔力残量は6。
昨夜から回復していた魔力が、また減っている。
繰り返し試すうちに、発動中は少しずつ魔力を消費し、強い動作をすると消費量が増えるらしいことが分かった。
魔力が減れば、身体強化の効果も弱くなる。
さらに、能力を解除したあとには、軽い運動をしたときのような疲労が残った。
「なるほど。便利だけど、使い放題じゃないわけか」
俺は水を飲み、椅子へ腰掛けた。
身体強化があれば、普段より重い物を持ったり、素早く動いたりできる。
しかし、今の段階では長時間使用できない。
技術や経験まで身につくわけでもなかった。
だからこそ、基礎的な体力も必要になる。
俺はスマートフォンに運動記録用のメモを作り、今日試した内容を書き込んだ。
身体強化ありとなしで、動作の安定性は明らかに違う。魔力消費と熟練度の増加についても、今後は記録しておいた方がよさそうだ。
自分の身体を使った実験なのだから、無理をして壊してしまっては意味がない。
そこで訓練を切り上げ、サクを召喚した。
銀色の魔法陣から現れた小さな狼は、俺を見るなり駆け寄ってきた。
「お前の方は元気そうだな」
サクは尻尾を振りながら部屋を一周すると、滑り止めマットの上へ座った。
そこが訓練場所だと理解したのかもしれない。
俺はサクの頭を撫でてから、召喚獣のステータスを確認した。
《サク》
種族:月影狼
レアリティ:SSR
レベル:1
成長段階:幼体
状態:良好
忠誠度:100
《月影》熟練度:2/100
《風走》熟練度:0/100
昨日試した《月影》の熟練度が上がっていた。
たった一度の使用でも、経験として蓄積されているらしい。
「お前も俺も、訓練次第で強くなれるってことだな」
サクは首を傾げたあと、俺の手へ鼻先を押しつけた。
何とも平和な光景だ。
少なくとも今の俺たちは、戦う相手もいなければ、危険な場所へ行く予定もない。
それでも鍛える理由はある。
異世界の能力が現実に存在する以上、この先何が起こるか分からない。
何より、せっかく手に入れた力なのだから、使いこなせるようになりたい。
そんな単純な理由で、十分だった。
◇
土曜日の朝、目覚ましを掛けていなかった俺は、午前7時過ぎに起きた。
昨夜の訓練のせいか、太腿に軽い張りがある。
身体強化を使っても、筋肉痛まで防げるわけではないらしい。
洗面所で顔を洗ってから、いつものようにデイリーガチャを開いた。
《本日の残り回数:1回》
「さて、土曜日の運試しだ」
ガチャを実行すると、白い光の球が現れた。
今度は色が変わらず、そのまま静かに収束する。
《N確定》
《職業の書を獲得しました》
《N 剣士の職業書》
「職業か」
テーブルへ現れたのは、木の板を薄い革で綴じたような本だった。
表紙には一本の剣が描かれている。
俺は鑑定を使った。
《剣士の職業書》
レアリティ:N
分類:職業登録アイテム
効果:職業《剣士》を登録する。
職業効果:筋力・敏捷補正、剣術習熟補助。
備考:職業は装備・解除が可能。習熟度に応じて能力が成長する。
初めての職業だ。
ステータスには以前から職業欄があったものの、今までは《なし》と表示されていた。
さっそく使用を宣言すると、本が光となって消えた。
《職業《剣士》を登録しました》
《メイン職業へ装備しますか?》
「装備する」
身体の奥へ、わずかな熱が広がった。
身体強化を習得したときほど強い感覚ではないが、姿勢を正すと背筋が自然に伸びるような気がした。
《ステータス》
名前:稲見圭吾
種族:人間
レベル:1
メイン職業:剣士 Lv.1
サブ職業:未解放
筋力:10(+2)
耐久:10
敏捷:10(+1)
魔力:10
器用:10
精神:10
職業スキル:《剣術基礎 Lv.1》
筋力と敏捷に補正がついていた。
さらに《剣術基礎》という職業スキルまで増えている。
効果を確かめると、剣を扱う際の身体操作を補助する能力らしい。ただし、剣士の職業を装備していない間は使えない。
これで職業を切り替える意味も見えてきた。
職業ごとに補正や固有スキルが変わるなら、状況に合わせて付け替えることで対応できることが増える。
しかも職業欄には、合成と統合の項目まで存在している。
《職業合成・統合》
登録職業数:1
統合可能職業:なし
職業熟練度、相性、必要素材などの条件を満たすことで、複数の職業を統合できます。
例えば剣士と魔法使いを組み合わせれば、魔剣士のような職業になるのだろうか。
それとも、同じ剣士を重ねて強化することもできるのか。
詳しい条件はまだ表示されていなかった。
「これは集める楽しみが増えたな」
ただし、今は肝心の剣がない。
台所の包丁を振り回すわけにもいかないので、職業の効果を本格的に確かめるのは、練習用の武器を手に入れてからにしよう。
俺は剣士を装備したまま、出かける支度を始めた。
今日は午前11時から、戸建て賃貸の内見がある。
◇
不動産会社の担当者である野瀬さんは、駅前で待っていてくれた。
40代半ばくらいの男性で、物腰は柔らかいが、説明は簡潔だった。
「稲見様、お待ちしておりました。現地までは車で20分ほどです」
「よろしくお願いします。昨日お電話した飼育条件の件は、何か分かりましたか?」
「大家さんとは連絡が取れました。動物の種類や法的な確認が済んでから判断したいとのことです。現時点では許可をいただいたわけではありませんが、相談そのものは可能です」
「ありがとうございます。その点はきちんと確認します」
無理に話を進めようとしないところに好感が持てた。
飼育する動物については、俺自身もまだ分からないことが多い。
サクを普通の犬だと偽って契約するつもりはなかった。
何か問題が起きれば、サクだけでなく周囲の住民にも迷惑を掛ける。
野瀬さんの車は幹線道路を離れ、住宅地の外れへ向かった。
周囲には畑と古い家が点在し、少し先には雑木林が見える。
都心からそれほど遠くないのに、空が広かった。
「この辺りは昔から住んでいる方が多いんです。最近は空き家も増えていますが、土地は比較的広いですよ」
「隣の家とはどのくらい離れていますか?」
「こちらの物件は、東側が空き地、西側が畑です。北側に住宅がありますが、庭を挟んで距離があります」
車が細い道路を曲がると、古い平屋が見えてきた。
白い外壁に茶色の瓦屋根。建物自体は新しくないが、庭はよく手入れされている。
敷地の端には木造の物置があり、その横に砂利敷きの駐車スペースがあった。
「こちらです。築年数は経っていますが、数年前に水回りを改修しています」
車を降りると、草の匂いを含んだ風が吹いてきた。
庭は想像していたより広い。
低い生垣の向こうには畑が続き、その先に小さな林が見える。
サクが走り回るには十分な広さがありそうだった。
「庭は自由に使えるんですか?」
「通常の管理や家庭菜園は可能です。ただ、フェンスの設置など大きな変更については、大家さんの承諾が必要になります」
「それは当然ですね」
俺は庭の周囲を歩き、地面の状態を確かめた。
ところどころ雑草が生えているものの、極端な傾斜はない。
ただし、敷地を囲む生垣は低く、サクが成長したら簡単に飛び越えてしまうだろう。
訓練場所として使うなら、外から見えない目隠しと、しっかりした囲いが必要だ。
家の中も確認した。
間取りは3LDK。リビングは広く、和室が二部屋ある。台所と浴室は改修されており、古い建物にしては使いやすそうだった。
床下収納を開けると、乾いた木の匂いがした。
鑑定を使ってみる。
《住宅用床下収納》
品質:良好
状態:正常
続けて浴室の給湯設備を確認すると、使用可能だが定期点検推奨と表示された。
俺は野瀬さんへ点検履歴を尋ねた。
「給湯器の点検記録はありますか?」
「確認しておきます。前の入居者様が退去された際には動作確認をしているはずですが、記録もお渡しできるようにしますね」
「お願いします。古い設備は、実際に使い始めてから問題が出ることもありますから」
「お詳しいですね」
「仕事柄、設備関係の書類を見る機会が多いんです」
事実である。
鑑定で全てが分かるわけではない以上、普通の確認も必要だった。
室内を一通り見終えたあと、野瀬さんが物置へ案内してくれた。
「こちらは以前の入居者様が作業場として使っていたそうです。電源も引いてあります。ただ、建具が少し傷んでいるので、使用されるなら修理が必要ですね」
物置は六畳ほどの広さだった。
工具棚が壁際に残り、床はコンクリートになっている。
剣術や身体強化を試す場所として考えれば、住宅のリビングよりずっと都合がいい。
俺が内部を覗き込んでいると、背後で金属の擦れる音がした。
「おっと、すみません。この扉、少し重くて」
野瀬さんが横開きの金属扉を動かそうとしていた。
ところが、扉の上部がわずかに傾いている。
レールから外れかけているようだった。
「野瀬さん、その扉、いったん手を離さないでください」
「え?」
俺が声を掛けた直後、扉が大きく傾いた。
金属が軋み、重い板が野瀬さんの方へ倒れ込もうとする。
俺は反射的に身体強化を発動した。
腕を伸ばして扉の縁を押さえる。
ずしりとした重さが肩へ掛かったが、足を踏ん張ると何とか支えられた。
「野瀬さん、少し下がってください。上の金具が外れています」
「あ、はい!」
野瀬さんが離れたのを確認してから、俺は扉をゆっくり壁側へ戻した。
完全に固定されていないため、倒れない位置まで動かして手を離す。
幸い、怪我人は出なかった。
「助かりました。申し訳ありません、私が不用意に動かしてしまいましたね」
「いや、古い建具ですから仕方ありません。これ、修理が終わるまで触らない方がいいですよ」
野瀬さんは扉の上部を見上げ、深く息を吐いた。
「そうします。しかし稲見様、よく支えられましたね。結構な重さだったでしょう」
「持ち上げたわけじゃありませんから。倒れる前に止められてよかったです」
そう答えながら、俺は内心で身体強化の効果に驚いていた。
普段の自分なら、あの扉を支えられたかどうか分からない。
少なくとも、あれほど落ち着いて重さを受け止める余裕はなかったはずだ。
ただし、今回のような使い方は危険だ。
強化中でも腕や腰には負担が掛かっていたし、倒れてくる方向が悪ければ支えられなかったかもしれない。
俺は身体強化を解除し、肩を軽く回した。
「物置の修理については、大家さんへ相談しておきます」
「お願いします。もし借りることになれば、ここは使いたいので」
「作業場としてですか?」
「ええ。趣味の道具を手入れしたり、軽い運動をしたりする場所が欲しいんです」
野瀬さんは納得したように頷いた。
もちろん、異世界の武器を振り回す予定だとは言っていない。
まだ手に入れてもいないのだから、そこまで説明する必要もないだろう。
◇
内見を終えた俺は、野瀬さんと車へ戻った。
「いかがでしたか?」
「建物も庭も気に入りました。物置が使えるなら、かなり理想に近いです」
「ありがとうございます。飼育条件と修繕内容を確認してから、改めてご連絡します」
「費用についても相談させてください。フェンスを設置するなら、それなりに掛かるでしょうから」
「承知しました。大家さんが認められる工事の範囲も含めて確認します」
家賃は月9万8000円。
現在のマンションより負担は増えるうえ、引っ越し費用や駐車場、車の維持費も考えなければならない。
さらに、サクの成長後の大きさも分からない。
今すぐ契約するのは早計だろう。
それでも、この場所ならサクを育てながら、自分自身の訓練もできる。
ほかの物件とも比較したいが、候補として残しておく価値は十分にあった。
「正式な判断は、飼育条件が確認できてからにします」
「それがよろしいと思います。こちらも確認できることは進めておきますね」
野瀬さんは嫌な顔ひとつせず、そう答えてくれた。
帰りの車内で、俺は窓の外を流れていく景色を眺めながら考えた。
広い庭に、作業場。
これだけあれば身体強化の訓練も、召喚獣の育成も、今よりずっとやりやすくなる。
もっとも、実際に借りられるかどうかは別の話だ。
ガチャで金が無限に出てくるわけではないし、今ある貯金も大切に使わなければならない。
まずはサクの飼育条件を確認する。
そのうえで、住居にいくら使えるか計算する。
異世界の能力を手に入れたからといって、現実的な判断まで捨てるつもりはなかった。
◇
夕方、自宅へ戻った俺は、サクを召喚した。
銀色の光から現れた小さな狼は、俺の足元を一周すると、いつものように尻尾を振った。
「今日はいい場所を見てきたぞ。まだ住めるかどうかは分からないけどな」
サクは俺の言葉を聞きながら、耳をぴくぴく動かしている。
俺は床へ座り、サクの頭を撫でた。
この小さな狼が、将来どれほど大きくなるのかは分からない。
だが、少なくとも俺はこいつを手放すつもりはなかった。
召喚契約書から現れた存在ではあるものの、サクは生きている。食事をして、眠って、俺に甘えてくる。
単なる装備品とは違う。
「お前が安心して暮らせる場所は、ちゃんと探すからな」
サクは俺の膝に前足を掛け、青い瞳で顔を見上げた。
そのとき、視界の端に通知が現れた。
《職業《剣士》の装備状態を確認しました》
《職業熟練度の蓄積が可能です》
《職業スキルは、装備中の職業に応じて使用できます》
どうやら剣士の職業は、今も問題なく装備されているらしい。
身体強化と組み合わせれば、普通の人間よりも強い動きができるはずだ。
ただし、剣術の経験はない。
武器を持ったこともない俺が、いきなり達人になるわけではないだろう。
だからこそ、練習を重ねる必要がある。
俺は職業画面を開き、改めて登録された剣士の能力を確認した。
《職業:剣士》
レアリティ:N
職業レベル:1
熟練度:0/100
職業スキル:《剣術基礎 Lv.1》
合成・統合:条件未達成
さらに装備画面には、武器や防具の強化項目が並んでいた。
《限界突破》
同一装備など、指定された素材を消費して装備を強化できます。
最大限界突破回数:5回
限界突破により基礎性能が上昇します。
初めて見たときから気になっていた機能だ。
武器を引き当てても、それだけで完成ではない。同じ装備や必要素材を集めれば、さらに強くできるらしい。
職業には合成と統合があり、装備には限界突破がある。
召喚獣にもレベルと熟練度が存在する。
考えてみれば、かなり手の込んだ仕組みだった。
「やることが多いな。これはしばらく退屈しそうにない」
俺が笑うと、サクも嬉しそうに尻尾を振った。
今のところ、俺のレベルはまだ1だ。
手元にある魔法道具も少なく、職業はNの剣士だけ。身体強化だって、長時間使えるほど熟練していない。
それでも、水曜日の朝まで何の能力も持たなかった男が、わずか数日でここまで変わった。
しかも、明日になればまた無料ガチャが引ける。
その積み重ねがどこまで続くのかは分からないが、試してみる価値は十分にある。
俺はサクを抱き上げ、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの街には、いつもと変わらない人々の暮らしが広がっている。
買い物帰りの親子が歩き、道路を配送トラックが走り、遠くでは電車が駅へ滑り込んでいく。
その景色を眺めながら、俺は次に手に入れたいものを考えていた。
剣士の職業を活用するための武器。
収納鞄よりも容量の大きなアイテムボックス。
そして、できれば最初の魔法。
どれも今すぐ必要というわけではないが、手に入ればできることが増える。
「明日は何が出るだろうな、サク」
小さな狼は俺の腕の中で鼻を鳴らし、額を胸元へ押しつけてきた。
どうやらガチャよりも、今は夕食の方が大切らしい。
「分かった分かった。まずは飯にしよう」
俺は笑いながら立ち上がった。
まだ何も知らないまま手に入れた、不思議なガチャの力。
この先どれほどの品物が出てくるのか、どんな能力を覚えられるのか。
その答えを急いで知る必要はない。
明日もまた、1回引けるのだから。




