第28話 持ち上げるだけでは、軽トラは戻せなかった
朝食を済ませると、サクは玄関で俺を待っていた。
昨日直した物入れをハーネスへ取り付け、中へ薄いタオルを入れる。左右の重さを揃えてから蓋を閉じると、サクは身体をひねり、脇の膨らみを確かめた。
『これなら、曲がるときにも脚へ当たらないね。今日は途中で落とさずに帰れそうだ』
「戻ったら縫い目も見せてくれ。留め具だけ丈夫でも、取り付けた布が負けたら困るからな」
『そこは私も確認します。昨日の縫い方なら、力が1か所へ集まりにくくなっています』
ミトが俺の肩で脚を畳み、ネリは上着の内側へ収まった。顔を出せるように口を開けた小さな布袋を、俺が胸元で支える形だ。
リッタは庭へ出ると、低く旋回して塀の内側へ戻ってきた。
『先へ行っても、話すときには戻ればいいのよね。今日は道の向こう側も見てくるわ』
「車には近づかないでくれ。俺から見えない場所へ行くなら、長く戻らないのも心配になる」
『分かったわ。曲がり角ごとに顔を見せる。それなら、圭吾がどちらへ歩いたかも分かるでしょう』
頭の上を、青灰色の翼が横切った。
いつもの散歩道なのに、出発を待つ相手が1羽増えただけで、こちらまで少し落ち着かなくなる。
鍵をかけた俺の横で、サクが尻尾を揺らした。
◇
畑沿いの道を抜け、小さな公園の先まで歩いたところで、リッタが引き返してきた。
俺の近くまで下りると、翼を動かしながら声を届けてくる。
『この先で、荷物を積んだ車が傾いているわ。男の人が、後ろを持ち上げようとしていたけれど』
サクが足を止めた。
鳥が1羽近づいてきただけなら、周囲の人には、犬がそれを気にしたように見えるだろう。
「道から落ちているなら、怪我をしているかもしれない。近くまで見に行こう」
公園脇の角を曲がると、白い軽トラが見えた。
右の後輪が、道路脇の浅い排水溝へ落ちている。荷台には野菜を入れた箱が積まれ、その横で、作業着の男性が腰を伸ばしていた。
「大丈夫ですか。お怪我がなければ、まず車の近くで待っていてください」
声をかけると、男性はこちらを振り返った。
「身体は何ともないんです。切り返すときに寄せすぎてしまって。前にも似たことがあったので、戻せるかと思ったんですが」
俺はサクを車から離れた場所で待たせ、後輪を見た。
溝は深くないものの、タイヤの下側が道路より落ちている。荷台も傾いており、男性が1人で押したところで、簡単に戻る状態ではなさそうだった。
「積んだままだと重いですね。どちらかへ連絡はされていますか」
「まだです。自分で無理をして怪我をするより、頼んだ方がよさそうだとは思っていたところで」
男性は苦笑し、作業着のポケットから携帯を取り出した。
俺も車体の下をのぞき込まず、立ったまま見える範囲を確かめた。
身体強化を使えば、少しは持ち上がるかもしれない。
そう考えて、すぐに荷台から視線を戻した。
持ち上げた後、どうやって車輪を道路へ戻すのか。その間、どこを誰が支えるのか。そこが決まらないまま力を使うのは、重い物の下へ自分の身体を入れるのと変わらなかった。
「先に荷物を下ろすのは手伝えます。車を戻す方は、道具と足場を見てからにしましょう」
「それだけでも助かります。腰を痛めてから、重い箱を続けて運ぶのがきつくてね」
荷台から下ろす場所を決めると、男性は近くの畑に置いてある厚板を取りに行った。
その背を見送り、俺は小さく息を吐いた。
『持ち上げないんだね。圭吾なら、少し動かせそうに見えたけど』
サクの声が届いた。
「動いたところで、落ちた車輪が戻るとは限らないからな。途中で手が離せなくなった方が困る」
『私たちも、車の下には入らない方がよさそうですね』
ミトが上着の襟へ身を寄せる。
その言葉に頷いてから、俺は荷台の箱へ手を伸ばした。
◇
箱には、大根と白菜が詰まっていた。
ひと抱えするだけでも、ずしりと重さが腕へ伝わってくる。普段なら何度も往復した後で肩に張りが出そうだが、今日は身体強化の力を少し借りた。
急いで運ぶ必要はない。
足を置く場所を確かめ、荷台の端から受け取っては、安全な場所へ置いていく。
男性が厚板と道具を持って戻ったときには、箱の大半を下ろし終えていた。
「ずいぶん早いですね。若い人に無理をさせてしまったな」
「調子に乗って腰を痛めると、月曜日に困りますから。残りも同じように運びます」
最後の箱を下ろすと、男性は車載のジャッキを出した。
車の扱いには慣れているらしく、置く位置を考えながら、道路脇へ持っていく。だが、厚板を当てた地面を靴で踏んでみて、動きを止めた。
「こっちが少し崩れていますね。板を置いても斜めになる。これでは、重さをかけたときに困るな」
俺も隣へしゃがんだ。
道路脇の土が流れ、板の端に隙間ができていた。板そのものは十分な長さがあり、少し位置を変えれば、両端を落ち着かせられそうだった。
ただ、盛り上がった土と小石が邪魔をしている。
『その板の下なら、おれも手伝える』
胸元から、ネリの声がした。
『石をどけてくれれば、土が出っ張っているところは直せる。全部を固くするのはできないけど、板を置く邪魔は減らせるぞ』
俺は、板が当たる範囲をもう一度見た。
訓練場でも、木片の下を整えてもらったことがある。ネリに大きな土台を作らせなくても、俺が掘った後の小さな凹凸なら直せるはずだった。
「地面を少しならしてから、板の位置を変えてみませんか。それでも落ち着かなければ、作業はやめましょう」
男性は板を持ち上げ、俺が手を入れられるようにしてくれた。
工具箱から借りた小さなスコップで、出っ張った土を削る。大きな石を拾い出している間に、男性は荷台の反対側へ回り、積み直すときに使うロープを片づけ始めた。
俺は車から十分離れた場所で、ネリを地面へ下ろした。
「大きく動かさなくていい。今、俺が削ったところだけ頼む」
ネリはしゃがんで両手を当てた。
掌の下で、土の端がゆっくり低くなる。脇へ寄った分を俺がスコップで取り除くと、もう1か所へ移り、板の角に当たりそうな盛り上がりを崩してくれた。
小さな身体が、途中で一度だけ肩を上下させた。
『これくらいなら、板が揺れにくいと思う。後は、置いて確かめてくれ』
「助かった。戻って休んでいてくれ」
ネリを胸元へ収め、俺は板を置き直した。
男性を呼んで一緒に確かめると、さっきまで浮いていた角が、地面へ落ち着いた。
「これなら、道具をちゃんと使えますね。力任せに押していたのが恥ずかしいな」
「俺も最初は、持ち上げることしか考えていませんでした」
男性が道具を据え、慎重に車体を上げていく間、俺は頼まれた物を渡した。
必要な場所へ板を入れ、タイヤの位置を確かめる。途中で誰かが車の下へ入ることはせず、動かす前には、足元の道具も片づけた。
準備を終えて男性が運転席へ戻ると、俺は車の後ろへ回った。
サクも、リッタも、道から離れている。
合図に合わせて押し始めた瞬間、靴底がわずかに滑った。
俺は踏み直し、身体強化へ回す魔力を増やした。腕だけで押そうとせず、脚から背中へ力をつなぐ。
軽トラがゆっくり動き、板の上をタイヤが転がった。
車体の傾きが戻ったところで、男性が車を止める。俺も手を離して脇へ退き、ようやく大きく息を吐いた。
サクが、離れた場所で尻尾を振っていた。
◇
車を安全な場所へ移した後、男性は降りてきて、何度も頭を下げた。
「助かりました。これから届ける分だったので、箱を下ろしてもらえただけでもありがたかったのに」
「車の方は、走る前によく見てもらってください。俺には、傷んでいるかまでは分かりませんから」
「近くの整備工場に寄ります。無理をして、また誰かの手を借りるわけにもいかないですしね」
男性は三田と名乗った。
この辺りで野菜を作り、近所の直売所にも出しているという。積み直すのを手伝いながら俺も名前を伝えると、三田さんはサクへ顔を向けた。
「散歩の途中だったんですね。犬にも待たせてしまったな」
サクは吠えず、俺の横へ来て座った。
胸を張った姿が妙に得意げで、俺は口元を緩めた。
「待っていてくれたおかげで、こちらも作業ができました」
『車の方へ行かないでって、圭吾が真剣な顔をしていたからね。僕まで手を増やしたら、かえって邪魔になると思ったんだ』
俺の肩では、ミトが上着の陰へ収まっていた。
手を出さない判断までしてくれる仲間がいるのは、ありがたい。
積み直しを終えると、三田さんは箱から大根を2本選び、白菜も袋へ入れて差し出した。
「お金を受け取ってもらうより、こっちの方が気楽でしょう。よかったら食べてください」
「では、ありがたく。今日は鍋にします」
袋を受け取ると、思っていた以上の重さが手にかかった。
サクの物入れへ収めるには、どう見ても大きすぎる。
『それは圭吾が持って帰ってよ。僕の方へ入れようとしないでね』
「さすがに、その大根をお前の脇へ下げるつもりはないよ」
声を抑えて返すと、サクは満足したように歩き始めた。
◇
帰り道、リッタは飛ぶ距離を短くしていた。
先ほどのように角の先まで抜けず、俺たちの進む道が見える木へ止まっては、また戻ってくる。
『上からだと、車が傾いているのはすぐ分かったのよ。でも、人が怪我をしているかまでは、近くへ行かないと見えなかったわ』
「見つけて知らせてくれた時点で、十分助かった。あの道は、今日は通るつもりじゃなかったからな」
『だったら、少しくらい寄り道してもらった甲斐があったわね』
リッタが俺のすぐ横を飛び抜けた。
胸元のネリも、布袋から顔を出している。
「疲れているなら、家まで送還しておこうか。土を触った後、少し息が上がっていただろう」
『もう落ち着いた。せっかく外へ来たんだから、このまま見ていたい』
ネリはそう言って、畑の向こうへ目を向けた。
『あの人の土、野菜を作るところは柔らかいのに、道は踏み固めてあった。板を置くなら、そっちへ寄せればよかったんだな』
「俺も、板の形ばかり見ていたよ。置く場所まで気が回っていなかった」
『次に見るときは、おれにも先に見せてくれ。持ち上げてからじゃ、下を触れないから』
「ああ。力を使う前に相談する」
ネリは頷くと、また袋の中へ腰を落ち着けた。
俺の腕には、車を押したときの疲れが残っていた。魔力を使えば動かせる重さは増えるが、終わった後まで何もなかったことにはならない。
野菜の袋を持つ手を替えると、サクが歩く速さを少し緩めた。
◇
昼前に帰宅して、サクの物入れを外した。
タオルは、左右ともきちんと中に残っている。ミトと縫い目を見たが、留め具の周りにも、布を引っ張ったような跡はなかった。
『今日は、蓋のことを忘れて歩けたよ。途中で気にしなくていいのは、助かるね』
「しばらくは、この形で使ってみよう。荷物を増やすときには、また合わせ直す」
俺がタオルを取り出す横で、リッタは窓辺の止まり木へ下りた。
『今度は、何も落ちていなかったわ。車は落ちていたけれど』
思わず笑うと、サクも耳を揺らした。
台所へ運んだ白菜は、葉がしっかり巻いていた。外側を剥き、夕食に使う分を分けていると、胸元から下ろしたネリが、大根の葉をじっと眺めている。
『土の中に、こんな長い物が育つんだな。畑を見ただけじゃ、下がどうなっているか分からなかった』
「今度、買いに行くときに聞いてみるよ。三田さんなら、育て方も教えてくれるかもしれない」
ネリは、大根の先まで目で追ってから顔を上げた。
『それなら、おれも連れていってくれ』
俺は頷き、泥の残った大根を流しへ置いた。
鍋にするには、白菜も大根も十分すぎるほどある。冷蔵庫から肉のパックを出すと、サクが台所の入口まで来て、少しだけ鼻を上げた。
「夕飯までには、まだ早いぞ。先に昼を食べよう」
『分かってるよ。今日は歩いた後に待つ時間も長かったから、昼の方を多めにしてくれると嬉しいんだけど』
物入れを確かめ終えたミトも、作業机からこちらを見ていた。
俺は米の残りを確認し、いつもより大きな鍋を棚から出した。
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