第15話 百五十円の値下げを、俺が断った理由
「この設計なら、製品一台あたり約百五十円の原価を削減できます。年間八万台の生産を予定していますから、単純計算で千二百万円の削減です」
会議室の大型モニターに、数字が表示された。
年間千二百万円。
なかなか魅力的な金額だ。
開発部の森岡主任が説明を終えると、製造部門の担当者が満足そうに頷いた。
「部品点数も減るんですよね。組立時間まで短縮できるなら、こちらとしてはありがたい話です」
「ええ。従来は別々に取りつけていた前面カバーと操作基板を、一体構造へ変更します。固定用の部品が不要になり、組立工程も簡略化できます」
森岡主任は三十代後半の技術者で、今回の新製品では機構設計を担当している。
話し方は落ち着いているが、自分の設計には相当な自信があるらしい。
実際、提示された資料を見る限り、よく考えられていた。
俺は手元の図面をめくった。
操作基板、前面カバー、固定部品。
従来は三つの構成要素に分かれていたものを、樹脂の熱かしめによって一体化する設計だ。
組立時のネジ締めが不要になり、作業時間も短縮される。
製造する側から見れば、確かに合理的だった。
ただし、図面を追っているうちに、ひとつ気になることがあった。
「森岡主任、確認させてください。この構造だと、操作基板だけが故障した場合でも、前面カバーを含めた一式交換になるという理解で間違いありませんか」
俺が尋ねると、森岡主任は少し意外そうな顔をした。
「そうなりますね。熱かしめした部分は、基本的に分解を想定していませんから」
「修理時の交換部品も、ユニット一式で設定する予定ですか」
「現時点では、その方針です。部品を細かく管理するより効率がいいでしょう」
俺は図面へ視線を戻した。
製造するときは安い。
組み立てるのも早い。
しかし、壊れたときには全部交換するしかない。
これまで調達部で何年も働いてきた経験からすると、その違いは決して小さくなかった。
「原価低減の効果は理解できました。ただ、この案を確定する前に、サービス部門の修理実績を確認させてください。量産時の原価だけで判断するには、少し気になる点があります」
森岡主任が眉を動かした。
「修理実績ですか。今回の設計は新製品なので、同じ構造の実績はありませんが」
「ええ。ですから、従来製品で操作基板と前面カバーを別々に交換した件数を調べたいんです。故障時の費用がどれだけ変わるか、比較してからでも遅くないと思います」
会議室に短い沈黙が流れた。
製造部門の担当者が、モニターの数字へ目を向ける。
千二百万円の削減。
その数字に反対するのは、なかなか勇気がいる。
だが、俺は別に反対したいわけではなかった。
本当に得なら採用すればいい。
問題は、得かどうかをまだ判断できないことだった。
◇
会議が終わると、宮原が俺のところへ来た。
「稲見さん、さっきの話、ちょっと意外でした」
「原価低減の件か?」
「はい。調達部としては、安く仕入れられる設計の方が評価されると思ってました」
俺は資料を鞄へ入れながら笑った。
「もちろん、安くなるのは歓迎だよ。ただし、安く作れた分を修理費用で全部使っていたら、会社としては得にならないだろ」
「確かにそうですね。でも、そこまで考えるのは開発や品質保証の仕事じゃないんですか?」
「それぞれ担当はあるけど、調達部だって製品が世の中へ出たあとと無関係じゃない。補修部品の供給や在庫管理にも関わるんだからな」
宮原は納得したように頷いた。
俺たちは調達部へ戻り、さっそくサービス部門へ連絡を入れた。
過去の修理実績を確認したいと伝えると、担当者は少し驚いていた。
「新製品の設計検討に使うんですか。今まで調達部から、そういう問い合わせを受けたことはあまりありませんね」
「今回は修理用の部品構成にも影響するので、先に確認しておきたいんです。操作パネル関係の修理件数と、交換した部品の内訳を教えていただけませんか」
「分かりました。集計した資料があるので、午後には送れると思います」
礼を言って電話を切る。
続いて、宮原には現行製品の補修部品価格を調べてもらうことにした。
俺は新製品の構成図を開き、一体化によって削減される部品を洗い出した。
固定金具、ネジ、組立工数。
その一方で、交換時には前面カバーも基板もまとめて廃棄することになる。
新しい構造が採用されれば、補修部品の在庫もユニット単位で管理しなければならない。
保管場所を余計に使う可能性もあるし、修理対応の費用も変わる。
数字として見えるようにしなければ、議論は進まないだろう。
俺はパソコンへ向き直った。
こういう作業は、嫌いではない。
むしろ調達部で働いていて、一番面白いところかもしれなかった。
◇
午後二時。
サービス部門から修理実績が届いた。
俺は添付ファイルを開き、思わず椅子へ深く座り直した。
「……やっぱり、結構あるな」
従来製品では、操作パネルの修理のうち、基板や操作スイッチに関係する不具合が一定数発生していた。
もちろん、今回の新製品と故障率が同じになるとは限らない。
しかし、修理時に操作部分だけを交換できることには、はっきりとした価値があった。
さらに現行製品と新製品の部品価格を比較すると、違いは大きかった。
従来の操作基板は、補修部品として単独交換できる。
一方、新設計では基板と前面カバーが一体になっているため、故障時にはユニット全体を交換することになる。
同じような不具合が発生した場合、交換部品だけでも一件あたり数万円の差が生まれる計算だった。
俺は宮原を呼んだ。
「この数字を見てくれ」
宮原が画面を覗き込む。
「……かなり違いますね」
「ああ。しかも、これは部品代だけだ。実際には輸送費や修理作業の負担もある」
「それを考えると、年間千二百万円の削減も、単純には喜べないですね」
「そういうこと。もちろん、新製品で同じ件数の修理が必要になるとは限らない。そこはちゃんと区別して考えよう」
俺は数字を整理し、いくつかの条件で試算した。
修理件数が少ない場合。
従来製品と同程度の場合。
想定より増えた場合。
どれか一つが正しいと決めつけるのではなく、それぞれの条件で何が起きるかを見る。
その結果、一体化による原価低減の利点は確かにあるものの、修理件数によってはその大部分が失われる可能性があると分かった。
特に保証期間内の不具合については、メーカー側の負担になる。
「宮原、これを森岡主任へ送ろう。ただし、設計を否定するための資料じゃない。代わりにどうすればいいかまで考えたい」
「代替案も出すんですね」
「問題があると言うだけなら簡単だからな。採用できる別の方法がなければ、開発側も困るだろ」
俺は資料を保存し、もう一度構成図を開いた。
部品点数を減らすという方向性は悪くない。
組立時間を短縮するという目的も正しい。
ならば、その利点を残したまま、修理時に必要な部分だけ交換できる構造を考えればいい。
もちろん、俺は設計者ではない。
図面を描くのは専門の技術者の仕事だ。
だが、必要な条件を整理することならできる。
調達部として、何を求めるべきか。
俺は考えをまとめ、森岡主任へ連絡を入れた。
◇
翌日の午後、開発部の打ち合わせ室で、俺は森岡主任と向かい合っていた。
机の上には、新型操作ユニットの試作品が置かれている。
現行のものより薄く、外観もすっきりしていた。
確かに、見た目は悪くない。
「稲見さん、資料は確認しました。補修費用にそこまで差が出る可能性があるとは思っていませんでした」
森岡主任が率直に言った。
「実際の故障率は分かりませんから、まだ試算の段階です。ただ、修理できる構造にしておく価値はありそうです」
「ええ。私もそこは認めます。ただ、分解できる構造へ戻すと、今回の原価低減の効果が小さくなるんですよ」
「そこなんですよね。全部を従来構造へ戻す必要はないと思うんです」
俺は試作品を指さした。
「前面カバーを固定する方法はそのままでも、操作基板だけを交換できるようにする余地はありませんか。例えば基板の固定方法と接続部分を見直して、必要な箇所だけ取り外せるようにする、とか」
森岡主任は試作品を手に取り、裏側を確認した。
「基板を取り外せるようにするなら、熱かしめを使っている部分を変更する必要があります。ネジ固定に戻すと組立工数も増えますが……」
そこで言葉が止まった。
彼はしばらく試作品を眺め、机に置いてあった図面を引き寄せた。
「……待ってください。前面カバー全体を外す必要がないなら、基板の固定箇所だけ別構造にする方法はありますね」
「可能ですか」
「設計変更は必要ですが、検討する価値はあります。基板を独立した小さなモジュールにして、裏側から取り外せるようにすれば、前面カバーの一体化は残せるかもしれません」
森岡主任の声に、少し熱がこもった。
俺は余計な口を挟まず、説明を聞いた。
「問題は、接続部分の構造ですね。従来のコネクタをそのまま使うと部品代が増えますし、交換作業にも手間が掛かります」
「そこは調達側で候補を探します。すでにほかの製品で使っている部品を流用できれば、新規の部品を増やさずに済むかもしれません」
「なるほど。共通化できる部品があれば、価格面でも有利になりますね」
森岡主任は図面にいくつか線を引き始めた。
俺が詳しい設計を指示する必要はなかった。
何が問題なのかを共有すれば、あとは専門の技術者が考えてくれる。
その姿を見ながら、俺は少し嬉しくなった。
新しい仕事を任されたばかりだが、こうして開発段階から意見を交わせるのは面白い。
部品が決まってから値段を交渉するだけでは、できることに限界がある。
設計の段階で協力できれば、もっと大きな改善につながるはずだ。
「稲見さん、少し時間をもらえますか。今の案なら、別の試作構造を考えられそうです」
「もちろんです。こちらも使えそうな共通部品を洗い出しておきます」
森岡主任は頷いた。
「助かります。正直、昨日の会議では原価低減を否定されるのかと思いました」
「いや、千二百万円の削減が魅力的なのは間違いありません。ただ、製造する側だけじゃなく、修理する側にも都合のいい設計にできたら、もっと価値があるでしょう」
「……そうですね。私も、そこまで含めて考えるべきでした」
森岡主任は少し笑った。
「稲見さん、調達部なのに随分と面白いところを見ていますね」
「調達部だからこそ、かもしれません。買うときの値段も、補修部品として何年も供給する負担も、両方気になるんですよ」
そう答えると、森岡主任は大きく頷いた。
◇
その日の夕方。
宮原と一緒に過去の部品一覧を調べていると、別の製品で使っていた小型コネクタが見つかった。
すでに量産実績があり、価格も比較的安い。
供給先も国内に複数あるため、調達面では扱いやすい部品だった。
「これ、候補になりませんか」
宮原が画面を指さした。
俺は仕様書を確認した。
定格電流、使用温度範囲、接続方式。
大まかな条件は合っていそうだが、新製品の基板に使えるかどうかは設計側の確認が必要だ。
「いいところを見つけたな。これなら可能性はある。森岡主任へ送って、適用できるか確認してもらおう」
「はい。すぐに資料をまとめます」
「それと、価格だけじゃなく供給実績もつけておいてくれ。採用してから欠品しても困るからな」
宮原は頷き、さっそく作業を始めた。
俺はその横顔を見ながら、少し感心していた。
以前なら、宮原は俺の指示を待って動くことが多かった。
しかし最近は、自分で資料を調べ、必要だと思った情報を先に持ってくるようになっている。
大きな案件を任されたことが、本人にとってもいい刺激になっているのだろう。
俺は森岡主任から送られてきた設計メモへ目を通した。
新しい構造案では、前面カバーと操作基板を完全に一体化するのではなく、基板部分だけを交換可能にする方向で検討が進んでいる。
原価低減の効果は当初案より小さくなる見込みだが、修理時に高価なカバーまで交換する必要がなくなる。
うまくいけば、製造と保守の両方で使いやすい製品になるかもしれない。
ただし、まだ試作前の段階だ。
採用を決めるには、コネクタの信頼性や組立作業性、交換時の安全性など、確認するべきことが残っている。
俺はメールの最後へ、必要な検証項目を追加した。
急いで結論を出す必要はない。
だが、今の方向なら、当初案よりいいものを作れそうだった。
◇
金曜日の午後。
再び開発部の打ち合わせ室へ入ると、机の上に二種類の試作品が並んでいた。
一つは従来の一体構造。
もう一つは、操作基板だけを交換できるようにした新しい試作構造だ。
森岡主任が後者を手に取った。
「稲見さん、例の案を形にしてみました。まだ正式な試験前ですが、組立と分解の手順は確認できます」
試作品の裏側には、小さな固定部品とコネクタが取りつけられている。
以前のように前面カバー全体を外す必要はなく、基板部分だけを取り外せる構造になっていた。
「これなら、基板が故障してもそこだけ交換できるんですね」
「ええ。宮原さんが見つけてくれた共通コネクタも、今のところ適用できそうです。ただし、耐久試験はこれからです」
俺は頷いた。
試作品ができたからといって、すぐに採用できるわけではない。
しかし、具体的な形が見えたことは大きかった。
森岡主任が続ける。
「原価も概算してみました。当初案ほどの削減にはなりませんが、現行構造より一台あたり百円程度は安くできそうです」
俺は思わず顔を上げた。
「百円ですか。それなら、年間八万台で八百万円の削減になりますね」
「そうです。しかも修理時には基板だけ交換できますから、保守費用の増加も抑えられます」
森岡主任の声には、確かな手応えがあった。
もちろん、これはまだ概算だ。
量産時の歩留まりや実際の組立工数によって、数字は変わる可能性がある。
それでも、当初案の利点を残しながら、修理性も改善できそうだという。
「いいですね。これなら、製造部門にもサービス部門にも説明しやすいと思います」
「ええ。来週、品質保証と製造技術を交えて評価する予定です。調達部にも引き続き参加してもらえますか」
「もちろんです。必要な部品の見積と供給条件は、こちらでまとめておきます」
森岡主任は満足そうに頷いた。
打ち合わせを終えたあと、俺は宮原と並んで廊下を歩いていた。
「稲見さん、あの設計、本当に形になりましたね」
「ああ。まだ試験は残ってるけど、いい方向に進んでると思うよ」
「最初は原価低減の案に反対してるように見えたんですけど、結果的にはもっといい案になったんですね」
「俺が作ったわけじゃないけどな。森岡主任がちゃんと考えてくれたから、あそこまで進んだんだよ」
「でも、問題に気づいたのは稲見さんですよ」
「それなら、共通コネクタを見つけたのは宮原だろ。今回の仕事は、そういう積み重ねなんだと思う」
宮原は少し照れたように笑った。
そのあと、真面目な顔で言った。
「自分、今回の新製品は本当にいいものにしたいです」
俺は足を止め、宮原を見た。
彼は資料を胸に抱え、少し緊張した様子で立っている。
「いいじゃないか。俺も同じ気持ちだよ」
そう答えると、宮原は嬉しそうに頷いた。
新製品の調達計画は、まだ始まったばかりだ。
これから価格交渉もあれば、試作で問題が見つかることもあるだろう。
そのたびに開発部門と相談し、必要な条件を揃えていかなければならない。
簡単な仕事ではない。
だが、今までよりずっと面白くなりそうだった。
◇
帰宅したのは午後7時過ぎだった。
玄関の鍵を開け、靴を脱いでからサクとミトを召喚する。
銀色の魔法陣から現れたサクは、俺の顔を見るなり駆け寄ってきた。
『圭吾、今日はいいことがあったんだね』
「よく分かるな」
『帰ってきたときの顔で分かるよ。昨日は疲れてたけど、今日は楽しそう』
ミトも壁際へ移動しながら、こちらを見上げた。
『仕事の方が上手くいったの?』
「ああ。新製品の設計で、ちょっといい方向に進んだんだ。まだ完成したわけじゃないけどな」
俺は上着を脱ぎ、ソファへ腰掛けた。
サクはすぐ隣へ飛び乗り、ミトはテーブルの端へ移動してくる。
『圭吾、今日は剣の練習はしないの?』
サクが尋ねた。
「今日は休みにするよ。仕事で頭を使いすぎたからな」
『それなら、僕も今日は走るだけにしておく』
「お前は相変わらず元気だな」
『昼間は契約領域で休んでたからね。圭吾とは違うよ』
なるほど。確かにそうだ。
俺は笑いながらサクの頭を撫でた。
そのとき、ミトがテーブルの上に置いてあった小さな金属製の箱へ近づいた。
以前、ホームセンターで購入した工具入れだ。
『圭吾、この箱、少し困るところがあるね』
「どこか壊れてるのか?」
『壊れてないよ。ただ、蓋を開けるときに中の物が動く。もう少し固定できた方が使いやすいと思う』
ミトは前脚を伸ばし、箱の中に入っていた小さなドライバーを指した。
確かに、箱を動かすと工具同士がぶつかる音がする。
「まあ、工具箱だからな。多少は仕方ないさ」
『でも、糸を使えば動かないようにできるよ』
「なるほど。お前なら、そういう使い方もできるのか」
ミトは前脚から細い銀色の糸を伸ばした。
工具の柄へ軽く巻きつけ、箱の内側へ固定する。
強く縛っているわけではない。
必要なときには簡単に取り外せる程度だ。
俺が箱を持ち上げて軽く動かすと、先ほどのような金属音はしなかった。
「おお、これは便利だな」
『でしょ。動かないようにするだけなら、強い糸は必要ないから』
ミトは少し得意そうに前脚を動かした。
俺は固定された工具を眺めながら、ふと今日の仕事を思い出した。
必要な部分だけを固定し、交換したいところは簡単に外せるようにする。
言葉にすれば単純だが、実際に形にするには工夫が必要だ。
森岡主任が考えた新しい基板の固定構造も、目指しているところは似ているのかもしれない。
もっとも、今目の前にあるのは、蜘蛛の魔力糸で固定された工具箱である。
これを会社へ持っていっても、普通の製品には使えないだろう。
「ミト、お前は本当に固定するのが好きなんだな」
『好きっていうか、動いてほしくないものが動くと気になるんだよ』
「それはよく分かるよ。俺も仕事で似たようなことを考えてるからな」
『じゃあ、圭吾も糸を出せたら便利なのにね』
「それができたら、調達部じゃなくて別の仕事をしてるかもしれないな」
俺が笑うと、サクが横から顔を上げた。
『圭吾が蜘蛛になったら、僕が散歩に連れていくよ』
「遠慮しておく。今の身体で十分だ」
『そう? 僕は面白いと思うけど』
サクは楽しそうに尻尾を振った。
ミトはそんなやり取りを聞きながら、工具箱の中をもう一度確かめていた。
どうやら、固定する位置にまだ納得していないらしい。
俺は二体の様子を眺めながら、自然と笑みを浮かべた。
こうしていると、異世界の召喚獣と暮らしていることを忘れそうになる。
銀白色の狼と、黒い蜘蛛。
見た目も能力もまったく違うが、どちらも自分の考えを持っている。
そして、俺の生活を少しずつ賑やかにしてくれていた。
◇
土曜日の朝。
俺はいつもより少し遅く起き、朝食を済ませてからガチャ画面を開いた。
《デイリーガチャ+2》
指定分野:防具
本日の残り回数:1回
今週も毎日欠かさず無料ガチャを引いている。
Rの消耗品やNの素材など、派手ではないものが中心だったが、アイテムボックスへ収納しているため置き場所には困らない。
不要な素材も、いずれ合成や分解に使えるかもしれない。
俺は実行を選択した。
白い光の球が現れ、ゆっくりと青色へ変わる。
そのまま光が収束した。
《R確定》
《防具を獲得しました》
《R 疾風の革靴》
「……おっ、靴か」
床の上に現れたのは、黒い革で作られた一足の靴だった。
くるぶしまで覆う形状で、側面には細い銀色の模様が刻まれている。
手に取ると驚くほど軽く、靴底には柔らかさがあった。
俺はさっそく鑑定した。
《疾風の革靴》
レアリティ:R
分類:軽装防具
防御力:8
特殊効果:《歩行補助・小》
装備条件:なし
限界突破:+0/5
備考:移動時の足運びを補助し、長時間歩行による疲労を軽減する。
「これはなかなか便利そうだな」
剣士として戦うときも、魔剣士として魔法を使うときも、足運びは重要だ。
しかも長時間歩いても疲れにくくなるなら、普段の生活でも役立つだろう。
俺は革靴を履き、リビングを歩いてみた。
足裏が床を捉える感覚が普段よりはっきりしている。
歩くときに足が自然と前へ出るような、軽い補助も感じられた。
ただし、突然走る速度が倍になるようなものではない。
あくまでも動きを助ける程度らしい。
「なるほど。これは当たりだな」
俺は靴を履いたまま庭へ出た。
サクがすぐに駆け寄ってくる。
『圭吾、新しい靴?』
「ああ。今朝のガチャで出たんだ。少し歩きやすくなるらしい」
『じゃあ、走ってみようよ』
「そう言うと思ったよ」
俺は笑いながら庭の端へ移動した。
軽く身体をほぐし、ゆっくり走り始める。
足の運びが滑らかだった。
普段なら少し引っ掛かるような方向転換でも、靴底が地面を捉え、自然に次の一歩へ移れる。
身体強化を発動すると、その違いがさらに分かりやすくなった。
ただし、力を入れすぎると身体が前へ流れる。
靴が動きを補助してくれても、姿勢や重心まで勝手に整えてくれるわけではないらしい。
「……面白いな。こういう装備でも、結構変わるもんだ」
『圭吾、さっきより速いね』
サクが隣を走りながら言った。
「お前ほどじゃないけどな」
『でも、前より動きがよくなってるよ』
サクはそう言って、軽く速度を上げた。
銀白色の身体が芝生の上を滑るように進み、あっという間に庭の端まで到達する。
俺は苦笑しながら追い掛けた。
まだまだ差は大きい。
だが、こうして新しい装備を手に入れるたびに、できることが少しずつ増えていく。
それが楽しかった。
◇
昼前、俺は庭の椅子へ腰掛け、冷たい麦茶を飲んでいた。
サクは芝生の上で休み、ミトは物置の壁へ糸を張っている。
新しい革靴のおかげで、今朝の訓練は思っていた以上に充実していた。
ただ、今日はそれ以上に嬉しいことがあった。
会社で進めている新製品の設計改善が、ようやく具体的な形になり始めたのだ。
最初は原価を百五十円下げるという話だった。
それを修理性の面から見直し、開発部門と協力して別の案を考えた。
結果として、原価低減の効果をある程度残しながら、故障時の交換費用も抑えられる可能性が見えてきた。
まだ正式採用ではない。
だが、これまでより広い範囲で仕事に関われるようになったのは確かだった。
俺はスマートフォンを取り出し、宮原から届いていた資料を確認した。
来週の評価会議に向けた、調達部からの確認事項がまとめられている。
必要な部品の見積価格。
供給先の生産能力。
補修部品として長期間供給できるか。
それぞれの項目が、以前よりずっと丁寧に整理されていた。
「……宮原も、随分頼もしくなったな」
俺は小さく笑った。
人が成長していく姿を見るのは、悪くない。
サクやミトが能力を使いこなせるようになっていくのも楽しいが、会社の後輩が仕事を覚え、自分で判断できるようになるのも嬉しいものだった。
そして俺自身も、新しい仕事を任されることで少しずつ変わっている。
ガチャから得た能力だけではない。
今まで積み重ねてきた経験や知識も、使い方次第でまだまだ役に立つ。
俺は麦茶を飲み干し、椅子から立ち上がった。
今日は午後から、魔剣士の訓練をするつもりだった。
新しい革靴も手に入ったことだし、木偶人形との戦いでどの程度動きが変わるか試してみたい。
ただし、今までと同じ訓練を繰り返すつもりはない。
今回は、装備と職業スキルの組み合わせを確かめたい。
剣と魔法、身体強化、そして新しい防具。
それぞれを上手く組み合わせれば、今までよりずっと効率よく戦えるかもしれない。
俺が物置へ向かおうとしたところで、ミトが壁の上から声を掛けてきた。
『圭吾、ひとつ見てほしいものがあるんだけど』
俺は足を止めた。
「何か作ったのか?」
『うん。まだ途中だけど、さっきから少し試してたんだ』
ミトが前脚を動かす。
物置の壁に張られていた細い糸が、ゆっくりと形を変えた。
それまで何本もの線に分かれていた糸が、互いに絡み合い、一枚の薄い布のようになっていく。
俺は思わず近づいた。
「……お前、糸で布まで作れるのか」
『まだ小さいものだけね。もっと上手くできるようになったら、圭吾の装備にも使えると思う』
その言葉に、俺は目を見開いた。
影糸は相手を拘束するための能力だと思っていた。
しかし、ミト自身は別の可能性を考えていたらしい。
しかも、装備に使うという。
俺は薄い銀色の布を眺めた。
光を受けた糸が、細かな模様を浮かび上がらせている。
触れてみると、驚くほど柔らかかった。
だが、指先で軽く引いても簡単には破れない。
「……これは、面白いことになってきたな」
ミトが静かに前脚を動かした。
『まだ完成してないから、あまり期待しすぎないでね。でも、もう少し強くできそうなんだ』
俺は笑みを浮かべた。
ガチャから新しい防具を引くのも楽しい。
しかし、召喚獣が自分の能力を使って装備を作れるようになったら、別の楽しみが生まれる。
低レアリティの防具でも、強化素材を組み合わせたり、特殊な能力を付与したりできるかもしれない。
もちろん、今はまだ小さな布が一枚できただけだ。
実際に防具へ加工できるかどうかも分からない。
それでも、試す価値は十分にある。
「ミト、これから少しずつ研究してみよう。俺も手伝うよ」
『うん。圭吾の装備に使えるものを作れたら、私も嬉しいから』
ミトはそう答え、銀色の布を丁寧に畳み始めた。
サクが近づいてきて、その様子を眺めている。
『ミト、僕の分も作れる?』
『大きさによるかな。サクの身体に合わせるなら、もう少し糸を増やさないと』
『じゃあ、僕も手伝うよ』
『サクは糸を出せないでしょ』
『出せないけど、何か運ぶことならできるよ』
ミトは少し考えた。
『それなら、糸を張る場所を探すのを手伝って。広いところの方が作りやすいから』
『分かった。庭ならいっぱい場所があるよ』
サクは嬉しそうに尻尾を振った。
俺は二体のやり取りを聞きながら、自然と笑っていた。
会社では、部品の組み合わせを変えることで新しい製品を作ろうとしている。
家では、召喚獣が自分の能力を使って新しい装備を作ろうとしている。
まるで違う世界の話だが、どちらも面白い。
そして、どちらもまだ始まったばかりだった。
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YouTubeでショート動画作ってみました
https://youtube.com/shorts/PCIU2r6HJ10?si=hcY4h-BqBD1biiTv




