第14話 用水路の壁に、見えない何かがある
ミトの糸が、何もない空間で折れ曲がった。
古いコンクリートの壁へ向かって伸びていた黒銀色の糸が、壁に触れる手前で不自然に方向を変えている。風に流されたわけではない。水面からは十分に離れており、何かに引っ掛かっている様子もなかった。
『圭吾、これを見てほしかったんだ』
ミトの声が頭の中へ届く。
俺はしゃがみ込み、糸の先を目で追った。
糸は途中まで真っ直ぐ伸びているのに、ある一点から壁の内側へ引き込まれるように曲がっていた。
「……確かに妙だな。何か見えないものに引っ張られているように見える」
『うん。でも、そこには何もないんだよ。前に来たときも、同じことが起きた』
俺は壁へ懐中電灯を向けた。
昼間なので必要というほどではなかったが、表面の細かな凹凸を確かめるには役立つ。
濡れた跡が残るコンクリートには、苔と水垢が付着している。ひび割れもいくつかあるが、特別な装置や扉のようなものは見当たらない。
それなのに、ミトの糸だけが奇妙な動きを見せている。
俺はもう一度、糸の曲がった場所へ視線を戻した。
そこには、やはり何もなかった。
◇
翌週の日曜日。
午前10時を少し回った頃、俺はサクとミトを連れて、先日悠真くんを助けた農業用水路へ来ていた。
この一週間、会社では新製品の調達計画が本格的に動き始めていた。
宮原と一緒に現行製品の部品一覧を整理し、共通化できそうな部品について開発部門へ確認を依頼したところだ。仕入れ先候補への見積依頼も進めており、来週には最初の回答が届く予定になっている。
ガチャも毎日欠かさず引いている。
デイリーガチャは+2のままで、指定分野も防具から変更していない。消耗品や素材などが少しずつ増えているが、目立った大当たりはなかった。
それでも、毎日の無料ガチャで何かが手に入るのは楽しい。
ただ、今日はガチャや訓練とは別に、確認しておきたいことがあった。
先日の救助の際、ミトが感じたという異変だ。
糸の先が、そこにない場所へ引っ張られる。
説明だけでは何のことか分からなかったが、ミトは場所を覚えているという。
それなら、天気のいい日に実際に確かめてみようと考えたのだった。
「しかし、ずいぶん様子が変わったな」
俺は用水路の入口を見回した。
以前は半分傾いていた鉄柵が修理され、扉には新しい金具が取りつけられている。近くには立ち入りを控えるよう求める注意書きも設置されていた。
悠真くんの事故を受けて、管理者が対応したのだろう。
水路そのものは以前と変わらないが、少なくとも子供が簡単に入り込める状態ではなくなっている。
『圭吾、あの子がいた場所だね』
サクが水路の方へ鼻先を向けた。
「ああ。覚えてるか」
『もちろん。あのときは水の匂いが強かったけど、今日はずいぶん違うよ』
雨は数日前に上がっている。
水量は減り、コンクリートの底が見える場所もあった。
サクには普段どおりハーネスを装着し、リードをつけている。周囲を歩く人から見れば、少し珍しい毛色のハスキーを散歩させているだけだろう。
一方、ミトは俺の上着の内側にいる。
大きな蜘蛛の姿を人に見せれば、それだけで騒ぎになりかねない。
『圭吾、あの場所を調べるなら、少し近づいてほしい。今の私じゃ、あまり遠くまで糸を伸ばせないから』
「分かった。ただし、柵の中には入らないぞ。外から届く範囲で確かめよう」
『それで十分だと思う。前に感じた場所は、そんなに奥じゃなかったから』
俺は公道側の通路を歩き、水路の曲がり角まで移動した。
ここからなら、鉄柵越しにコンクリートの壁が見える。
用水路は緩やかに曲がっており、その外側に古い擁壁が続いていた。
水の流れる音が、コンクリートに反射して低く響いている。
俺は周囲を確認したあと、ミトを上着から出した。
ミトは手首を伝って柵の柱へ移り、その場で身体を低くする。
『ここから届くよ。圭吾は動かずに見ていて』
「ああ。俺も確かめてみる」
ミトの背中にある銀色の模様が、淡く輝き始めた。
そして、細い糸が前脚から伸びた。
◇
最初に見つかった異常は、俺が想像していたものと少し違っていた。
糸が何かへ絡みつくのではない。
むしろ、糸の途中だけが引っ張られている。
ミトが前脚を動かすと、糸は一度たるみ、それから同じ位置で折れ曲がった。
「ミト、少しだけ方向を変えてみてくれ。壁の別の場所でも同じことが起こるか確かめたい」
『分かった。上から順番に試すね』
ミトは糸を回収し、今度は少し高い位置へ伸ばした。
何も起こらない。
糸は普通に伸び、壁の表面へ触れた。
続いて低い位置。
こちらも問題なかった。
ところが、最初の場所へ向けた途端、再び糸が折れ曲がった。
『やっぱりここだけだ。少し横へずらすと、引っ張られなくなる』
「場所が決まってるのか」
『うん。糸を張る角度を変えても、引かれる先は同じみたい』
俺はアイテムボックスから小さな巻尺を取り出した。
仕事柄、物の寸法を測る道具は使い慣れている。
もちろん、見えない何かを巻尺で測れるとは思っていない。
ただ、糸が不自然な動きをする位置を記録しておけば、あとから比較できる。
「ミト、糸を張ったままにできるか?」
『少しなら大丈夫。でも、長く維持すると疲れるから、必要なところだけ見てね』
「分かった。時間は掛けない」
俺は柵の柱を基準に、糸が曲がる位置を確認した。
地面からの高さ。
左右の位置。
壁までの距離。
正確な測量ではないが、おおよその場所を記録するには十分だろう。
スマートフォンで周囲の写真も撮影した。
当然ながら、写真に写っているのは普通のコンクリート壁だけだ。
ミトの影糸も、その奇妙な曲がり方も写っていない。
「……見た目には何も分からないんだな」
『圭吾、糸が曲がるところを見てても、何かあるようには見えない?』
「ああ。少なくとも俺の目には、壁しか見えないよ」
『だったら、次は別の糸で試してみる』
ミトは影糸を回収した。
それから、普段の移動に使っている銀色の糸を伸ばす。
天井や壁を移動するときに使っていたものだ。
今度の糸は影へ溶け込まず、陽射しを受けて細く輝いている。
ミトが先ほどと同じ方向へ伸ばした。
糸は曲がらなかった。
何もない空間を通り、まっすぐ壁へ届いた。
「……違いがあるな」
『うん。普通の糸なら、何も起こらない』
ミトはもう一度、影糸を伸ばした。
すると、同じ位置で糸が引かれた。
普通の移動用の糸では起こらず、魔力を使った影糸でだけ反応する。
偶然とは考えにくかった。
「ミト、影糸と普通の糸では、何が一番違うんだ?」
『影糸は魔力で作ってる。普通の糸にも少しは魔力が混ざるけど、形を保っているのは糸そのものだよ』
「なるほど。魔力の使い方が違うわけか」
『そう。だから、魔力に反応してるのかもしれない』
俺は腕を組み、コンクリート壁を眺めた。
今の説明が正しいなら、あの場所には魔力へ干渉する何かが存在していることになる。
しかし、ここは現代日本の農業用水路だ。
周囲に魔法を使う人間はいないし、ダンジョンや魔物が存在するという話も聞いたことがない。
少なくとも、俺が知る限りでは。
だからこそ、奇妙だった。
◇
『圭吾、僕も何か感じるよ』
足元にいたサクが、突然顔を上げた。
「匂いか?」
『匂いとは少し違うかな。あそこだけ、周りの空気と感じが違うんだ』
サクは水路の壁へ鼻先を向けた。
『向こうに動物がいる感じじゃないよ。でも、風がそこを通るときだけ、少し変なんだ』
「お前の風走と関係があるのかもしれないな」
『どうだろう。走ってるときに感じる風とは違うけど、似てるところもある』
サクは少し考え、言葉を探しているようだった。
『いつもの風は、どこから来てどこへ行くか分かるんだ。でも、あそこは途中がよく分からない』
俺は壁を見つめ直した。
普通の糸は何も起こらない。
影糸だけが引っ張られる。
サクは、風の流れに違和感を覚えている。
そして以前、ミトは糸の先がそこにない場所へ引かれると表現していた。
それぞれの感覚は違うが、同じ一点を示している。
「……俺にも確かめられるかもしれないな」
俺はステータス画面を開いた。
《メイン職業:魔剣士 Lv.1》
《職業スキル》
《剣術基礎》
《受け流し》
《連撃補助》
《魔力制御》
《魔弾》
《魔力感知》
《魔力循環》
《魔刃》
この中に、まだ十分に使いこなせていないスキルがある。
《魔力感知》だ。
魔法使いを育てていたときに習得し、魔剣士へ統合したあとも継承されている。
訓練では自分の魔力や、サクとミトの魔力を感じ取るために使っていた。
しかし、こういう場所で試したことはない。
「二人とも、少し待ってくれ。俺も魔力を感じ取れるか試してみる」
俺は職業スキル《魔力感知》を発動した。
胸の奥から温かな感覚が広がり、周囲の空気へ薄く意識が伸びていく。
最初に感じたのは、すぐ近くにいるサクの魔力だった。
風を思わせる、軽く流れるような感覚。
続いてミト。
こちらは細い糸が幾重にも重なったような、独特の魔力を感じる。
その二つから意識を外し、用水路の壁へ向けた。
何も感じない。
俺は少し位置を変え、もう一度試した。
すると、ある一点で妙な感覚が生まれた。
強い魔力があるわけではない。
むしろ逆だった。
周囲へ薄く広がっている魔力の感覚が、そこだけ不自然に途切れている。
「……何だ、これ」
『圭吾にも分かった?』
ミトが尋ねてきた。
「ああ。お前の糸が引かれる場所だろ。そこだけ、魔力の流れが途切れるように感じる」
『そう。私も、糸の先から魔力が抜けていく感じがするんだ』
「魔力を吸い取ってるのか?」
『それはまだ分からない。吸われているのか、別のところへ流れているのか、区別できないから』
なるほど。
ミトは安易に結論を出さない。
自分で確かめられたことと、そうではないことをきちんと分けている。
俺も仕事では同じことをしているつもりだが、こういう場面になると、つい想像を先に走らせてしまいそうになる。
「じゃあ、魔力を使わない糸と、影糸を同じ場所へ伸ばしたときの違いを、もう一度確かめよう。さっきと同じ結果になるなら、少なくとも魔力が関係している可能性は高い」
『分かった。無理のない範囲でやってみる』
ミトは前脚を動かした。
そのとき、道路の向こうから自転車の走る音が聞こえてきた。
◇
「おや、稲見さんじゃないですか」
声を掛けてきたのは、畑仕事の帰りらしい年配の男性だった。
荷台には小さな農具が載っている。
引っ越しの挨拶をしたとき、近所で一度顔を合わせたことがある。
俺はすぐにミトを上着の内側へ戻し、男性へ向き直った。
「こんにちは。今日はいい天気ですね」
「そうですねえ。先日は大変だったそうで。香坂さんのお孫さん、こちらで見つかったんでしょう?」
「ええ。幸い大きな怪我もなかったそうで、安心しました」
「それはよかった。あの水路は昔から危ないんですよ。雨が降ると、急に水が増えることがありますから」
男性は鉄柵を見やり、少し顔をしかめた。
「ようやく入口を直してくれましたな。子供が入り込まんように、もっと早くやっておけばよかったんですが」
「そうですね。以前よりずっと安全になったと思います」
「それにしても、あんたの犬は大人しいですな。うちの昔飼っとった犬なんか、知らん人を見たらすぐ吠えてましたよ」
男性がサクを見下ろす。
サクは落ち着いた様子で座っていた。
『圭吾、褒められてるのかな』
『たぶんな。今は大人しくしててくれ』
『分かってるよ』
俺は内心で笑いながら、男性へ答えた。
「まだ若いんですけど、人の話をよく聞いてくれるんですよ」
「それは賢い犬ですな。ほな、気をつけて」
「ありがとうございます」
男性は自転車へ乗り、畑沿いの道を走っていった。
姿が見えなくなったところで、ミトが上着の内側から声を掛けてきた。
『圭吾、戻っても大丈夫?』
「ああ。ただ、そろそろ切り上げようと思う。お前も何度も糸を使って疲れてるだろ」
『少しだけ。でも、最後にひとつ確かめたいことがある』
「どんなことだ?」
『影糸を伸ばしたまま、魔力を流す量を変えてみたい。同じ場所でも引かれる強さが変わるかもしれないから』
俺は少し考えた。
確かに、それは試す価値がある。
ただし、ミトの魔力には限界がある。
無理をさせるつもりはなかった。
「一度だけにしよう。少しでも負担が大きいと思ったら、すぐにやめてくれ」
『分かった。私も無理をするつもりはないよ』
ミトは柵の柱へ移り、再び影糸を伸ばした。
糸は先ほどと同じ位置へ向かっていく。
そして、何もない場所で折れ曲がった。
『今から少しだけ魔力を増やすね』
ミトの背中の模様が、先ほどより強く輝いた。
黒銀色の糸が張り詰める。
すると、奇妙なことが起きた。
糸が曲がっている部分から先が、わずかに薄くなったのだ。
「……おい、ミト。糸の先が見えにくくなってないか?」
『うん。私も感じてる。魔力が向こうへ流れてるみたい』
「それなら、すぐに戻してくれ。何が起きてるか分からない」
『分かった』
ミトが糸を引き戻そうとした。
だが、糸はすぐには戻らなかった。
細い線が小さく震え、何かに引かれるように伸びる。
ミトが前脚を動かしても、糸の先だけがその場に残った。
『圭吾、ちょっと強くなってる』
「無理に引っ張らなくていい。切り離せるなら、その方が安全だ」
『できるよ。少し待って』
ミトが前脚を畳んだ。
次の瞬間、張り詰めていた影糸が根元からほどけ、黒い霧のように消えていった。
不自然に曲がっていた部分も、跡形なく見えなくなる。
俺は思わず息を吐いた。
「……大丈夫か?」
『うん。少し魔力を使っただけ。怪我はしてないよ』
ミトは普段と変わらない声で答えたが、動きには少し疲れが見えた。
俺は上着の内側へ戻ってもらい、念のためステータスを確認した。
《影織蜘蛛:ミト》
状態:軽度疲労
魔力残量:低下
大きな異常はなかった。
ひとまず安心する。
ただ、さっきの光景は頭から離れなかった。
影糸が、何もない場所へ引き込まれそうになった。
しかも、魔力を増やした途端に反応が強くなっている。
これは、単に風や水流の影響とは考えにくい。
「……妙な場所だな、本当に」
俺はコンクリートの壁を見つめた。
見た目には何も変わっていない。
さっきまで奇妙な動きをしていた糸も、すでに消えている。
もし普通の人間が通り掛かったとしても、何も気づかず通り過ぎるだろう。
俺だって、ミトがいなければ何も感じなかったかもしれない。
だが、確かに何かがある。
少なくとも、魔力を持つ俺たちにはそう感じられた。
◇
帰宅したのは正午前だった。
サクとミトを休ませてから、俺はリビングのテーブルへスマートフォンとメモ帳を並べた。
仕事で使っているものとは別に、ガチャやスキルの記録用として用意したノートだ。
今まではガチャから何が出たか、装備をどれだけ強化したか、職業のレベルがいくつになったかといった情報を中心に記録していた。
しかし今日からは、少し違う情報も残しておく必要がありそうだった。
俺は撮影した写真を確認しながら、用水路の位置を地図へ記入した。
次に、確認できたことを整理する。
普通の糸では反応しない。
魔力で作られた影糸だけが引っ張られる。
反応する場所は、ほぼ一定。
魔力を増やすと、引かれる力も強くなる。
俺自身の魔力感知でも、同じ位置に違和感があった。
サクも風の流れとは違う何かを感じていた。
ここまでは、実際に確認したことだ。
その先については、まだ分からない。
魔力を吸い取るものが埋まっているのか。
何らかの魔道具が存在しているのか。
それとも、まったく別の現象なのか。
そもそも、この世界に魔力が存在していること自体、俺にとっては最近知ったばかりの事実だった。
魔力を扱う道具や能力があるのだから、魔力に反応する場所があっても不思議ではない。
ただ、それが普通の農業用水路に存在している理由は分からなかった。
「……今の情報だけじゃ、結論は出せないな」
俺はノートを閉じ、椅子の背もたれへ身体を預けた。
調達部の仕事なら、仕入れ先へ問い合わせたり、図面を確認したり、必要に応じて現物を検査したりできる。
だが、今回はそうはいかない。
魔力の異常について、どこへ問い合わせればいいのかも分からないのだ。
今の段階では、できる範囲で記録を残しておくしかなかった。
そのとき、ソファで休んでいたサクが顔を上げた。
『圭吾、あの場所、また調べるつもり?』
「ああ。ただ、同じことを繰り返しても仕方がないからな。次は何を確かめるか決めてから行こうと思う」
『僕も手伝うよ。今日よりもっと細かく感じられるかもしれないし』
「助かる。でも、お前も無理はしないこと。あそこに何があるのか分からない以上、近づきすぎるのは危ないからな」
『分かってる。僕だって、変なものに飛び込むつもりはないよ』
サクはそう言って、クッションへ顎を乗せた。
ミトも壁際から声を掛けてくる。
『圭吾、次は糸を切り離す位置を先に決めておきたい。それなら、引っ張られてもすぐに止められると思う』
「なるほど。お前はもう次の方法を考えてたのか」
『だって、同じことを何度もするのは効率が悪いから。何を調べたいか決めてからの方がいいでしょ』
「まったく、そのとおりだ」
俺は笑いながら頷いた。
ミトは見た目こそ蜘蛛の魔物だが、物事を冷静に観察し、無駄を嫌う性格をしている。
サクは身体を動かしながら状況を判断するのが得意で、ミトは先に準備を整えてから動く方が性に合うらしい。
どちらも、俺にはない感覚を持っている。
その二体が同じ場所へ違和感を覚えたというのは、やはり気になることだった。
「ただ、今日はもう十分だ。ミトはゆっくり休んでくれ。サクも午後は好きに過ごしていいぞ」
『じゃあ、僕は庭に出てくる。今日はまだ走ってないから』
「ああ。周りに人がいないか確認してからな」
『分かってるよ』
サクは嬉しそうに立ち上がり、庭へ向かっていった。
ミトはしばらく壁に張りついたまま考え込んでいたが、やがて契約領域へ戻ることにしたらしい。
俺が送還を選ぶと、黒い身体が銀色の光となって消えた。
◇
午後、俺は庭の椅子に腰掛け、ガチャ画面を眺めていた。
《デイリーガチャ+2》
指定分野:防具
次の強化段階:+3
必要素材:ガチャ強化結晶×1
今のところ、次の強化素材は手に入っていない。
装備の限界突破も、職業の追加も、少しずつ進めている段階だ。
ただ、以前ほど焦る気持ちはなかった。
今日の用水路での出来事を考えると、強力な能力を一つ手に入れたからといって、すべての問題が解決するわけではないことがよく分かる。
俺は魔剣士になり、剣と魔法を同時に使えるようになった。
サクはSSRの月影狼で、ミトもSRの影織蜘蛛だ。
しかし、三人が揃っていても、あの場所で何が起きているのかは分からなかった。
それは別に悔しいことではない。
知らないことがあるなら、調べればいい。
すぐに答えが出なくても、今日のように少しずつ情報を集めれば、いずれ分かることもあるだろう。
ただし、ひとつ気になる点があった。
ミトが最初に異変を感じたのは、悠真くんを助けた雨の夜だ。
あのときは、糸が少し引っ張られる程度だったという。
しかし今日は、魔力を増やした途端、影糸を引き戻すのが難しくなった。
単に使った魔力量が違うからなのか。
それとも、あの場所そのものに変化が起きているのか。
今の段階では判断できない。
だからこそ、記録を続ける意味がある。
俺はガチャ画面を閉じ、ノートへ今日の日付を書き加えた。
そして、少し考えてから、用水路の位置を記したページへもう一つだけ書き込んだ。
《次の確認事項:同じ場所で、時間を変えて測定する》
もし何度調べても同じ結果になるなら、あの場所には一定の性質を持った何かが存在している可能性が高い。
反対に、日によって反応が変わるなら、それも重要な情報になる。
いずれにしても、今日の調査は無駄ではなかった。
俺はノートを閉じ、庭へ目を向けた。
サクが芝生の上を軽やかに走っている。
銀白色の身体が日差しを受け、風をまといながら小さな弧を描いた。
その姿を眺めていると、自然と笑みがこぼれる。
こんな生活を送るようになるとは、一か月ほど前には想像もしていなかった。
会社では新しい仕事を任され、引っ越した先では近所の人とのつながりもできた。
そして家には、異世界の召喚獣が二体いる。
毎日無料でガチャを引き、手に入れた能力を育てていく。
それだけでも十分に楽しい日々だった。
だが、今日の用水路で、もうひとつ気になるものを見つけてしまった。
魔力にだけ反応する、目に見えない何か。
俺はその正体をまだ知らない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
あの場所には、普通の目では捉えられない異常が存在している。
そして、それを最初に見つけたのはミトだった。
「……あいつ、なかなか大したもんだな」
俺は小さく笑い、ノートを片づけた。
次にあの用水路へ行くときは、今日より少しでも多くのことを確かめてみたい。
そんなことを考えていると、庭の向こうからサクが駆け寄ってきた。
『圭吾、そろそろ一緒に走らない? さっきからずっと座ってるよ』
「分かった。少し身体を動かすか」
『今日は僕もあんまり速く走らないから、圭吾もちゃんとついてきてね』
「お前の『あんまり速くない』は信用できないんだよな」
『じゃあ、圭吾が先に走ればいいよ。僕は後ろからついていくから』
「なるほど。それなら競争にならないな」
『競争しなくても、走るのは楽しいでしょ』
サクはそう言って、嬉しそうに尻尾を振った。
俺は笑いながら立ち上がり、軽く身体を伸ばした。
今日はもう、あの水路のことを考えるのはやめよう。
今すぐ答えが出るものでもない。
ただ、調べるべき場所がひとつ増えたことだけは、間違いなかった。
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