第13話 雨の夜、サクが見つけた小さな命
「すみません、青い上着を着た男の子を見かけませんでしたか?」
水曜日の午後6時半。
仕事から帰ってきた俺に声を掛けてきたのは、北側の家に住む年配の女性だった。
新居の東側は空き地、西側には畑が広がっている。北側にだけ、庭を挟んで少し離れたところに古い住宅があり、そこに住んでいる女性とは、引っ越しの挨拶で一度顔を合わせていた。
名前は香坂さん。
七十歳前後だろうか。普段は庭の手入れをしている姿を見かけるが、今日は雨に濡れた髪を額へ張りつかせ、ひどく青ざめていた。
「男の子ですか? いえ、今帰ったところなので……何かあったんですか」
「孫が帰ってこないんです。夕方までは家にいたんですけど、ちょっと外へ出たきり、どこを探しても見つからなくて」
香坂さんがスマートフォンを握り直した。
手元が小さく震えている。
話を聞くと、孫の悠真くんは小学三年生。学校から帰宅したあと、近くで遊ぶと言って午後5時頃に出掛け、そのまま戻ってこないという。
最初は友達の家へ行ったのかと思ったが、心当たりのある場所にはいなかった。公園も探したものの見つからず、すでに警察へ相談しているそうだ。
「娘も仕事を早退して、こちらへ向かっているんです。でも、こんな雨まで降ってきて……」
香坂さんは言葉を詰まらせた。
俺は空を見上げた。
秋の日暮れは早い。辺りはすっかり暗くなり、細かな雨が街灯の光を受けて斜めに流れている。
この一帯は住宅が少なく、畑の先には雑木林や農業用水路がある。道路から少し外れれば、人目につきにくい場所も多い。
子供がどこかで転んで動けなくなっていたら、厄介なことになる。
「最後に見たとき、どちらへ向かったか分かりますか?」
「西の方へ歩いていったと思うんですけど、はっきりとは……」
西側には畑が続き、その先に小さな公園がある。
俺は少し考え、香坂さんへ尋ねた。
「その子が今日使っていたタオルか、上着はありますか?」
「え?」
「うちの犬は鼻がよく利くんです。役に立つか分かりませんが、匂いを追わせてみようと思いまして」
香坂さんの表情が変わった。
「ワンちゃんを飼っていらっしゃるんですか?」
「ええ、まだ小さいんですけどね。少し待っていただけますか」
「お願いします。何でもいいんです。悠真が見つかるなら……」
俺は頷き、急いで玄関の鍵を開けた。
今の俺には、普通の会社員だった頃にはなかった手段がある。
しかも、こういう状況なら、あいつらの能力が役に立つかもしれない。
◇
「サク、ちょっと力を貸してくれ」
玄関を閉めると同時に、俺は召喚を実行した。
床へ銀色の魔法陣が広がり、白銀の毛並みをした小さな狼が姿を現す。
SSR《月影狼》のサク。
まだ幼体だが、嗅覚と索敵能力は普通の動物とは比べものにならない。
『おかえり、圭吾。随分急いでるね』
「近所の子供が行方不明になったんだ。匂いを追って探せないか?」
サクはすぐに耳を立てた。
『その子が使ってた物があれば、たぶん分かるよ。雨が降ってるから、匂いは薄くなってると思うけど』
「今から借りてくる。頼めるか?」
『もちろん。早く見つけてあげたいしね』
サクの声は、いつになく真剣だった。
俺は続いてミトを召喚した。
床へ現れたのは、黒い甲殻に銀色の模様を持つ小さな蜘蛛だ。
SR《影織蜘蛛》。
影糸と糸感知という二種類の固有能力を持ち、狭い場所の探索や振動の感知を得意としている。
『圭吾、何かあった?』
「近所の子供を探す。サクに匂いを追ってもらうから、お前には見えにくい場所や足元の安全確認を手伝ってほしい」
『分かった。私は服の内側に入っておく。外に出るのは必要になってからでいいよね』
「ああ。それが助かる」
ミトは俺の身体をするすると登り、上着の内側へ潜り込んだ。
八本脚の魔物が胸元にいるというのは、なかなか妙な感覚だが、今さら驚くことでもない。
サクには黒いハーネスを装着した。
月影狼という名前こそ珍しいが、見た目はシベリアンハスキーの子犬に近い。人前でも普通の犬として通せるだろう。
俺はレインコートを羽織り、アイテムボックスから懐中電灯と雨具、それにキャンプ用のロープを取り出した。
これらは収納鞄を手に入れた頃から、非常用として入れておいたものだ。
今夜使うことになるとは思っていなかったが、準備しておいてよかった。
「よし、行こう」
俺が玄関を開けると、サクが先に庭へ出た。
濡れた芝生を踏む足音が、雨の中へ溶けていった。
◇
香坂さんの家までは、北側の庭沿いの道を少し歩けば着く。
俺がサクを連れていくと、香坂さんはすぐに玄関から出てきた。
手には青い縁取りのある小さなタオルを持っている。
「悠真が学校から帰ってきたときに使っていたものです。これで大丈夫でしょうか」
「十分です。少し嗅がせてください」
タオルを差し出すと、サクが鼻先を近づけた。
何度か匂いを確かめたあと、耳を前へ向ける。
『分かった。まだ新しい匂いだね』
『追えそうか?』
『うん。雨が強くなる前に行こう』
サクはすぐに門の方へ向かった。
俺は香坂さんへ振り返る。
「少し歩いて探してみます。見つけたらすぐ連絡しますので、電話番号を教えていただけますか」
香坂さんは慌てて連絡先を交換してくれた。
「私はもう一度、家の周りを探してみます。本当に、よろしくお願いします」
「分かりました。警察から連絡があったら、そちらを優先してください」
俺は頭を下げ、サクと一緒に歩き始めた。
北側の家から西へ回ると、畑に沿った細い道が続いている。
道路の端には草が生い茂り、街灯の間隔も広い。昼間はのどかな風景だが、雨の降る夜には少々心細く感じられた。
サクは地面へ鼻先を近づけ、迷うことなく進んでいく。
『こっちを通ってる。ほかの人の匂いもあるけど、ちゃんと分かるよ』
「大したもんだな。俺には雨と土の匂いくらいしか分からないよ」
『圭吾の鼻と一緒にされても困るな。僕は狼なんだから』
「それもそうか」
サクは足を止めず、畑の角を曲がった。
少し先には、小さな公園がある。
ブランコが風に揺れ、鎖の触れ合う音が聞こえてきた。
雨のせいで人影はない。
サクは砂場の近くまで進むと、急に足を止めた。
『ここにしばらくいたみたい。匂いが重なってる』
「誰かと遊んでたのかな」
『どうだろう。ほかにも子供の匂いが残ってるけど、時間までは分からない』
俺は公園を見回した。
濡れたベンチ、空っぽの砂場、滑り台。
どこにも青い上着の男の子はいない。
サクは滑り台の裏へ回り、植え込みの前で鼻を動かした。
そして、顔を上げる。
『圭吾、こっちへ行ってる。公園の外だ』
その先には、古い農業用水路へ続く道があった。
俺は懐中電灯を握り直した。
◇
用水路の近くへ来ると、水の音がはっきり聞こえるようになった。
普段は底が見えるほど浅い水路だが、今日は雨の影響で水量が増えている。
道路脇には雑草が伸び、ところどころに古いコンクリートの構造物が残っていた。
サクは水路沿いの道を進み、錆びた鉄柵の前で止まった。
『ここだと思う』
「ここ?」
『うん。匂いが下へ続いてる』
懐中電灯を向けると、鉄柵の奥には管理用の階段があった。
水路へ降りるためのものらしいが、長い間使われていないようで、手すりには錆が浮き、階段の隙間から草が生えている。
柵の横には、子供なら身体を横にすれば通れそうな隙間があった。
俺は嫌な予感がした。
「悠真くん! 聞こえたら返事をしてくれ!」
雨音に負けないよう声を張り上げる。
返事はない。
もう一度呼び掛けようとしたところで、胸元のミトが動いた。
『圭吾、奥へ糸を伸ばしてみたい。少しだけ外に出して』
「ああ。頼む」
俺は周囲に人がいないことを確かめ、ミトを鉄柵の内側へ移した。
ミトは地面へ降りると、前脚から細い糸を伸ばした。
黒銀色の糸が階段を伝い、暗がりへ消えていく。
数秒後、ミトが身体を持ち上げた。
『何か動いてる。奥の方で、同じ場所を何度も叩くような振動がある』
「人間か?」
『そこまでは分からない。でも、水の流れとは違う』
サクも鉄柵へ近づき、鼻を動かした。
『圭吾、血の匂いがする。あの子、怪我してるかもしれない』
俺はスマートフォンを取り出した。
警察へ連絡し、現在の位置と、行方不明の子供が水路の中にいる可能性があることを伝える。
続けて、怪我人がいるかもしれないため救急の手配もお願いした。
住所だけでは分かりにくい場所だったので、近くの道路と水路の位置も説明する。
連絡を終え、改めて鉄柵へ向き直った。
「悠真くん! いたら声を出してくれ!」
しばらくして、かすかな声が返ってきた。
「……たすけて……」
子供の声だった。
「悠真くんか!」
「……うん……」
俺は懐中電灯を階段の奥へ向けた。
薄暗い通路の先、コンクリートの張り出しになった場所に、小さな人影があった。
青い上着。
膝を抱えた男の子が、こちらを見上げている。
「よし、見つけた。今からそっちへ行くから、動かずに待っててくれ!」
男の子は小さく頷いた。
ただ、足元にはすでに雨水が流れ込んでいる。
水路本体の水位も、少しずつ上がっているようだった。
救助を待つだけで済めばいいが、このまま雨が強くなれば、男の子がいる場所まで水が届くかもしれない。
俺は鉄柵へ手を掛けた。
扉は施錠されていなかったものの、下側が地面へ食い込んで動かない。
周囲に人影がないことを確認し、身体強化を発動する。
胸の奥から温かな感覚が広がり、肩と腕へ力が通った。
俺は鉄柵を両手で支え、少し持ち上げながら横へ動かした。
錆びた金属が地面を擦り、鈍い音を立てる。
引っ掛かっていた部分が外れ、ようやく人一人が通れる隙間ができた。
「サクはここで待っててくれ。周りの様子が変わったら教えてほしい」
『分かった。でも、圭吾も気をつけて。あの辺り、足元が滑りそうだよ』
「ああ。無茶はしない」
ミトには階段の近くへ糸を張ってもらい、俺は慎重に下り始めた。
◇
階段は想像以上に滑りやすかった。
雨水が薄く流れ、靴底を置くたびに細かな砂が動く。
身体強化のおかげでバランスを取りやすくなっているが、油断すれば転倒するだろう。
『圭吾、右側の端は踏まない方がいい』
ミトの声が届いた。
「どうして?」
『糸を張ったところ、少し動いてる。コンクリートの下が緩んでるみたい』
俺は懐中電灯を向けた。
階段の端に細い亀裂があり、雨水がそこへ流れ込んでいる。
よく見なければ気づかない程度だった。
「なるほど。助かった」
俺は足を置く位置を変え、慎重に進んだ。
ミトは糸を通じて振動を感じ取れる。
人間には見えない場所の変化を察知できるというのは、思っていた以上に便利だった。
階段を下りきると、水路沿いの狭い管理通路へ出た。
男の子までは数メートル。
俺は足元を確かめながら近づき、しゃがんで顔を覗き込んだ。
「悠真くんだな。俺は稲見。香坂さんの家の近くに住んでる者だよ」
男の子は涙で濡れた顔を上げた。
「……おばあちゃん、いる?」
「家で待ってる。ずっと探してたんだぞ」
そう伝えると、悠真くんの目から新しい涙がこぼれた。
右足を抱えるように座っている。
靴下は泥で汚れ、足首の周囲が少し腫れていた。
「足を怪我したのか?」
「うん。滑って……それから、立とうとすると痛くて……」
「ほかに痛いところは? 頭は打ってないか?」
「頭は大丈夫。足だけ……」
受け答えはしっかりしている。
ただし、骨折していないとまでは言い切れない。無理に歩かせるのは避けた方がいいだろう。
「どうしてこんなところへ来たんだ?」
俺が尋ねると、悠真くんは水路の先を指さした。
「あそこに、帽子が……」
懐中電灯を向けると、水路の途中から伸びた枝に青い帽子が引っ掛かっていた。
どうやら風で飛ばされた帽子を追い掛け、管理通路へ入り込んだらしい。
そこで足を滑らせたのだろう。
「帽子はあとでいい。まずはお前が帰ることだ」
「……うん」
悠真くんは小さく頷いた。
俺は周囲を見回した。
雨はまだ降り続いている。
水路本体の水量は増え、流れてくる木の葉の速度も速くなっていた。
ここに長居する理由はない。
「今から上へ運ぶぞ。少し身体を動かすけど、足は俺に任せてくれ」
「……僕、重いよ?」
「大丈夫。おじさん、見た目より力があるんだ」
悠真くんは涙の残る顔で、少しだけ笑った。
俺は身体強化を維持し、男の子の背中と膝の下へ腕を回した。
ゆっくり抱き上げる。
体重は二十数キロほどだろうか。
普段の俺でも持ち上げられない重さではないが、濡れた足場で抱えたまま移動するとなれば話は別だ。
しかし今は、十分な余裕があった。
身体強化によって増した筋力と、魔剣士の職業補正。
そして、これまで繰り返してきた訓練のおかげで、重心を崩さずに身体を動かせる。
「よし、行くぞ」
俺は慎重に立ち上がった。
悠真くんが首へ腕を回し、しっかりと掴まる。
そのまま階段へ向かおうとした瞬間、ミトの声が頭に響いた。
『圭吾、止まって』
反射的に足を止める。
『階段の上、さっきより動いてる。右側から何か落ちてくるかもしれない』
俺は顔を上げた。
懐中電灯の光が、階段脇の斜面を照らす。
その直後、湿った土が崩れ、小石がいくつか転がり落ちてきた。
ぱらぱらと乾いた音が響き、階段の端へ土が散らばる。
悠真くんが俺の服を強く掴んだ。
「大丈夫。今の場所は通らないから」
俺はできるだけ落ち着いた声で伝えた。
怖がらせても仕方がない。
ミトが張った糸は、階段の左側では大きな変化を捉えていないらしい。
俺はそちらへ身体を寄せ、足元を確かめながら進んだ。
一段、また一段。
雨で濡れたコンクリートを踏みしめ、慎重に上っていく。
最後の段を越えたところで、サクが駆け寄ってきた。
『圭吾、後ろの水、かなり増えてるよ』
「ああ。早く出よう」
俺は鉄柵を抜け、道路脇の平らな場所へ移動した。
そこまで来て、ようやく少し肩の力が抜けた。
悠真くんを安全な場所へ座らせ、アイテムボックスから防水シートとタオルを取り出す。
周囲から見えにくい位置で必要なものだけを取り出したので、悠真くんは気づいていないようだった。
濡れた身体を軽く拭き、シートで雨を遮る。
「寒いか?」
「……少し」
「もう救急車を呼んである。すぐに来てくれるからな」
悠真くんは頷いた。
俺はスマートフォンを取り出し、香坂さんへ連絡した。
◇
「悠真が見つかったんですか!?」
電話がつながった途端、香坂さんの声が響いた。
「はい。水路の近くにいました。足を怪我していますが、意識ははっきりしています。救急車も呼んであります」
「よかった……本当に、よかった……」
電話の向こうから、泣き声が聞こえた。
俺は場所を伝え、慌てずに来てほしいと付け加えた。
通話を終えると、悠真くんがこちらを見上げていた。
「おばあちゃん、怒ってた?」
「どうだろうな。少なくとも今は、怒るより安心してると思うぞ」
「……僕、勝手にあんなところへ入っちゃった」
「そこはちゃんと謝ろう。でも、話は家に帰ってからでいい。今は身体を休めてな」
悠真くんは小さく頷いた。
その視線が、俺の足元にいるサクへ向かう。
「……その犬、名前は?」
「サクだよ。お前を探してくれたんだ」
サクは少し首を傾げた。
悠真くんがそっと手を伸ばす。
「触ってもいい?」
「もちろん。優しくな」
小さな手が銀白色の頭へ触れた。
サクは大人しく座ったまま、悠真くんに撫でられている。
『圭吾、この子、手が冷たい』
『雨に濡れてたからな。もう少しで救急車が来るよ』
『そっか。じゃあ、それまで一緒にいる』
サクはそう答え、悠真くんの隣へ伏せた。
その姿が、妙に頼もしく見えた。
やがて遠くからサイレンが聞こえてきた。
俺は道路側へ出て、到着した救急隊員を案内した。
悠真くんを発見した場所、足を痛めていること、転倒したと本人が話していることを伝える。
隊員たちは手際よく状態を確認し、男の子をストレッチャーへ移した。
ちょうどそこへ、香坂さんが駆けつけてきた。
「悠真!」
「……おばあちゃん」
悠真くんが小さく手を上げる。
香坂さんは駆け寄ろうとして、一度足を止めた。
目の前に孫がいることを確かめるように、何度も瞬きをしている。
それから、ようやくストレッチャーのそばへ歩み寄った。
「よかった……無事で、本当によかった……」
「ごめんなさい……」
「もう、こんな心配させないで……」
悠真くんも泣き始めた。
俺は少し離れた場所へ下がり、サクの頭を撫でた。
こういうときは、家族だけで話したいこともあるだろう。
救急隊員が搬送の準備を終えると、香坂さんが俺のところへ戻ってきた。
「稲見さん、本当にありがとうございました。あの子が見つかったのは、あなたのおかげです」
「サクが匂いを追ってくれたんですよ。俺一人だったら、あんな場所は探さなかったと思います」
俺がそう言うと、香坂さんはしゃがみ込み、サクの頭を撫でた。
「あなたもありがとうね。よく見つけてくれたわね」
サクは少し戸惑ったように俺を見上げた。
『圭吾、この人、泣いてるのに笑ってる』
『嬉しいんだよ。悠真くんが無事だったからな』
『……そっか』
サクはそれ以上何も言わず、香坂さんに撫でられていた。
俺はその様子を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
◇
帰宅した頃には、午後8時を過ぎていた。
雨に濡れた服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びる。
浴室から出ると、ようやく身体の緊張が解けてきた。
俺はリビングへ戻り、サクとミトを召喚した。
サクは水を飲んでからクッションへ寝そべり、ミトは壁の高いところへ移動している。
「二人とも、今日は助かったよ」
『あの子、ちゃんと帰れるかな』
サクが尋ねた。
「足の怪我次第だけど、意識はしっかりしてたし、大きな問題がなければ帰れると思う。あとは病院で診てもらうしかないな」
『そっか。よかった』
サクは安心したように目を細めた。
その横からミトが声を掛けてくる。
『圭吾、あの階段、結構危なかったね』
「ああ。お前が教えてくれなかったら、崩れかけた場所を踏んでたかもしれない」
『糸を張っておいてよかったよ。少しずつ地面が動いてるのが分かったから』
ミトは自分の前脚を動かし、何かを確かめるような仕草をした。
『ああいう場所を調べるの、私には向いてると思う』
「そうだな。戦闘だけじゃなく、危ない場所を探すことにも使えるわけだ」
『うん。今度はもっと広い範囲を調べられるようになりたい』
俺は頷いた。
ミトの《糸感知》は、相手の動きを探るための能力だと思っていた。
しかし、今日のように足場の振動や地面の変化を捉えることもできる。
サクの嗅覚だって、魔物を探すだけのものではない。
人間の鼻では追えない匂いを辿り、行方不明の子供を見つけ出した。
どちらも、俺が思っていた以上に使い道が広い能力だった。
そして、身体強化。
あの水路で悠真くんを抱えたまま移動できたのは、間違いなくこのスキルのおかげだ。
普通の俺だったら、あの雨と暗さの中で、もっと苦労していただろう。
俺はソファへ腰を下ろし、深く息を吐いた。
「……まさか、ガチャで手に入れた能力が人助けに役立つとはな」
『圭吾、嬉しくないの?』
サクが顔を上げる。
「いや、嬉しいよ。かなりな」
『だったらよかった。僕も探してよかったと思ってるから』
サクはそう言って、俺の膝へ顎を乗せた。
ミトも静かに前脚を畳んだ。
いつものリビングに戻り、ようやく落ち着いた時間が流れ始めた。
◇
翌朝、出勤の準備をしていると、スマートフォンにメッセージが届いた。
香坂さんからだった。
悠真くんは足首を捻挫していたものの、骨折などの大きな怪我はなく、昨夜のうちに帰宅できたらしい。
しばらく安静にする必要はあるが、ほかに異常は見つからなかったという。
俺は思わず息を吐いた。
昨日の段階では、怪我の程度まで判断できなかった。
こうして無事を知らせてもらえると、やはり安心する。
メッセージには、悠真くん本人からの言葉も添えられていた。
《サクちゃんにもありがとうって伝えてください》
俺は少し笑い、返信した。
《大きな怪我がなくて何よりです。サクにも伝えておきます。お大事になさってください》
送信したあと、サクを召喚した。
『おはよう、圭吾。今日は早いね』
「いい知らせがあったんだ。昨日の子、骨折もなくて、もう家に帰れたらしい」
サクの耳が立った。
『本当? それならよかった』
「ああ。それと、お前にありがとうって伝えてほしいそうだ」
『僕に?』
「そうだ。お前が探してくれたからな」
サクは少し考えてから、尻尾を振った。
『じゃあ、元気になったらまた会えるかな』
「近くに住んでるんだから、機会はあるだろう。ただし、しばらくは足を休ませないとな」
『分かった。僕も待ってるよ』
そう言って、サクは俺の足元へ座り直した。
俺はその頭を撫でながら、昨日の出来事を思い返していた。
魔法や身体強化を手に入れてから、俺は自分がどこまで強くなれるのか、そんなことばかり考えていた。
剣士を育て、魔法使いを育て、魔剣士へ統合する。
装備を揃え、召喚獣たちと連携し、模擬戦闘で経験を積む。
もちろん、それも楽しい。
だが、昨日のような出来事があると、少し違うことを考える。
できることが増えれば、それだけ誰かの役に立てる場面も増える。
その結果、誰かが助かり、安心して暮らせるようになる。
能力を育てるというのは、そういうことでもあるのだろう。
俺はサクを契約領域へ送還し、会社へ向かった。
◇
土曜日の午前中。
庭で軽く身体を動かしていると、北側の家から香坂さんが訪ねてきた。
手には小さな紙袋を提げている。
「稲見さん、先日は本当にありがとうございました」
「いえ。悠真くん、元気にしてますか?」
「ええ。足はまだ少し痛むそうですけど、本人はもう遊びに行きたがって困ってます」
「それなら安心ですね。しばらくは我慢してもらわないといけませんけど」
香坂さんは笑い、紙袋を差し出した。
「大したものじゃないんですけど、近くのお店のお菓子です。あの子の母親も、ぜひお礼を伝えてほしいと言っていましたので」
「ありがとうございます。ありがたくいただきます」
俺は紙袋を受け取った。
そのとき、庭で遊んでいたサクが近づいてきた。
「あら、サクちゃん。元気そうね」
香坂さんはしゃがみ込み、サクへ手を伸ばした。
「あなたもありがとうね。悠真が、また会いたいって言ってるのよ」
サクは大人しく撫でられていた。
ただし、俺の頭の中には少し困った声が届いている。
『圭吾、また褒められてる』
『よかったじゃないか。お前の手柄だよ』
『それはいいんだけど、いつまで撫でられてればいいのかな』
『嫌なら離れてもいいぞ』
『別に嫌じゃないよ。ちょっとくすぐったいだけ』
サクはそう答え、尻尾をゆっくり振った。
香坂さんは満足そうに立ち上がり、俺へ向き直った。
「稲見さん、こちらへ引っ越してこられたばかりでしたよね」
「はい。まだ二週間ほどです」
「そうでしたか。この辺りは畑も多いですし、夜になると人通りも少ないでしょう。何か困ったことがあったら、遠慮なく声を掛けてくださいね」
「ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、香坂さんは笑顔で頷いた。
それから北側の自宅へ戻っていく。
庭を挟んで少し離れた家だが、こうして顔を合わせて話せる相手がいるというのは、思っていたより心強いものだった。
引っ越してきた頃は、周囲に家が少なく、人目を気にせず訓練できることばかり考えていた。
もちろん、それは今でも重要だ。
しかし、近所の人たちと普通に挨拶を交わし、何かあれば助け合える関係を作っておくことも、悪くない。
俺は紙袋を持って家へ戻った。
◇
夕方、俺はリビングのテーブルへ紙袋のお菓子を並べていた。
中身は地元の和菓子屋で作られた焼き菓子だった。
香ばしい匂いが広がり、思わず一つ手に取る。
サクは足元で寝そべり、ミトは天井近くへ張った糸の上からこちらを見下ろしていた。
『圭吾、あの子のおばあちゃん、嬉しそうだったね』
サクが言った。
「ああ。悠真くんが無事に帰ってきたんだからな」
『僕も見つけられてよかったと思うよ』
「そうだな。お前がいなかったら、あの場所を探すことすら難しかっただろうし」
サクは満足そうに尻尾を振った。
その横からミトが声を掛けてきた。
『圭吾、そういえば、あの水路のことなんだけど』
「何か気になることでもあったか?」
『うん。糸を伸ばしたとき、変な感じがしたんだ』
「変な感じ?」
『階段の奥へ糸を張ったときね。途中で何も触れていないのに、急に引っ張られる感じがあった』
俺は菓子を持つ手を止めた。
「水の流れに引っ張られたんじゃないのか?」
『最初は私もそう思った。でも、水が流れてる方向とは違ったんだよ』
「どういうことだ?」
ミトは少し考えてから答えた。
『うまく説明できないけど……糸の先が、そこにない場所へ引かれるような感じだった』
俺は眉を寄せた。
そこにない場所。
妙な表現だ。
ただ、ミトは普段から観察が細かく、分からないことを無理に断定する性格ではない。
そのミトが違和感を覚えたのなら、何か理由があるのかもしれない。
「場所は覚えてるか?」
『うん。階段を下りた先、水路の奥の方。今なら同じ場所を見つけられると思う』
「分かった。今度、天気のいい日に調べてみよう。ただし、あそこは危険だから、無理はしないこと」
『それなら大丈夫。私は糸だけ伸ばして調べればいいから』
ミトはそう言って、前脚を静かに畳んだ。
俺はしばらく考え込んだ。
古い水路には、普通の人間が知らない構造物や設備が残っていることもあるだろう。
それに、ミトはこの世界には存在しない魔力を扱う召喚獣だ。
人間とは違う感覚で何かを捉えていても、不思議ではない。
ただ、俺にはまだ分からないことが多い。
なぜ自分だけがガチャスキルを使えるようになったのか。
どこから異世界の装備や召喚獣が現れるのか。
そして、ガチャのシステムそのものを強化できる仕組みは、誰が何のために用意したものなのか。
考え始めれば、疑問はいくらでも湧いてくる。
だが、今すぐ答えが出るわけではない。
俺は残っていたお茶を飲み、窓の外へ目を向けた。
雨上がりの庭には、秋の夕陽が差し込んでいる。
サクは芝生の上で身体を伸ばし、ミトはいつもの場所で静かに休んでいた。
数日前まで知らなかった子供を助け、近所の人との新しいつながりができた。
それだけでも、今週は十分に大きな出来事があったと思う。
ただ、ミトが感じたという水路の異変だけは、少し気になっていた。
もし単なる水流や古い設備の影響なら、それでいい。
だが、あの場所には本当に何かがあるのだろうか。
俺はスマートフォンの予定表を開き、翌週の休日に小さな予定を追加した。
《用水路周辺の確認》
それから画面を閉じ、庭へ出た。
サクがすぐに顔を上げる。
『圭吾、どうしたの?』
「いや、少し外の空気を吸おうと思ってな」
『じゃあ、僕も一緒に行く』
「庭を歩くだけだぞ」
『それでもいいよ』
サクは立ち上がり、俺の隣へ並んだ。
雨上がりの空気には、濡れた土と草の匂いが混じっている。
遠くでは鳥が鳴き、畑の向こうには薄い夕靄が漂っていた。
俺はその景色を眺めながら、ゆっくりと歩き始めた。
ガチャによって手に入れた力は、確かに俺の生活を変え始めている。
だが、その力がどこから来たのかについては、まだ何ひとつ分かっていなかった。
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YouTubeでショート動画作ってみました
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