第71話:十年前の上申書に、署名をいたしますわ
清算が動きはじめますと、次の問いが、参りましたわ。……なぜ、灰色が、要りましたのかしら。
六十一話で、グリム様は、こう仰いましたわね。
「仕組みには、遊びがない。定めた額は、定めた額だ。凶作の年に、半分にしてやることは、書けない」
書けないから、帳簿の外でなさいましたのよ。でしたら。
書けるように、いたしませんと。
私、殿下の執務室へ、参りましたわ。
「殿下。十五話の、書類箱を、覚えていらっしゃいますかしら」
殿下の手が、止まりましたの。
「……ああ」
「あの中に、まだ、ございまして?」
殿下は、立ち上がって、部屋の隅の、古い木箱を、開けられましたわ。
埃を、払われましたの。中から、綴じてもいない紙束を、出されましたわ。
十枚ほどですの。角が、擦り切れておりますわ。……私の字ですわね。
十年前。十七歳。祖父が亡くなって、二年目の年ですわ。嫁ぐ前の、最後の年ですのよ。
『徴税請負制度の運用に関する上申 ――収穫高に応じた納付額の調整について』
差出人の欄は、空けてございますの。匿名ですわ。
……当たり前ですのよ。十七の娘が書いた紙に、名前など、書けませんもの。
「殿下。これ、十年、どちらに」
「持っていた」
「戦場にも?」
「持っていた」
紙の端が、丸うございましたわ。……二話の、あの写しと、同じですのね。
この方は、大事な紙を、こういう形になさいますのよ。
殿下は、それ以上、仰いませんでしたわ。二十二話で、この方は、私に、こう仰いましたのよ。
「君の精算書を見た、と言ったな。……あれは、嘘だ。もっと前から、探していた」
……十年、探しておられましたのね。書いた本人が、公爵家の書斎で、八年、帳簿を付けておりましたときも。
私、その十枚を、読み返しましたわ。……ひどい字ですのよ。
力が入りすぎておりますし、余白の使い方も、なっておりませんわ。「〜すべきである」を、七回も、使っておりますの。
七回のうち、五回は、要りませんの。事実を並べれば、読む方が、そう思ってくださいますもの。
……十七の私は、それを存じませんでしたのね。書けば伝わると、思っておりましたのよ。お返事が来ませんでしたのは、たぶん、そのせいでは、ございませんけれど。
……十七ですもの。ですけれど。
中身は。
『納付額は、区ごとの三年平均収穫高を基準とし、当年の収穫高が基準の七割を下回る場合、下回った分を、翌年以降三年に繰り延べる』
『繰り延べた分は、当該区の帳簿に、繰延として明記する。免除ではない。消してはならない』
『調整の権限は、代官にも、請負人にも、大蔵卿にも与えない。区の三年平均は、数字が決めるものであり、人が決めるものではない』
私、その頁で、手を、止めましたわ。……十七の私が、書いておりますのね。
人に、決めさせるな、と。三十一年前、グリム様は、御自分で、お決めになりましたのよ。
いい方でしたわ。優しくて、賢くて、村を助けたい方でしたの。……それでも、決めさせては、いけませんでしたのね。
セドリック様に、お見せいたしましたわ。この方は、四半刻ほど、黙って、読んでおられましたの。
それから、眼鏡を、外されましたわ。……二度目ですわね。
「監査官殿」
「はい」
「これは、十年前のものですか」
「ええ」
「……直すところが、ありません」
「まあ。文章は、ひどいでしょう」
「文章は、ひどいです」
セドリック様は、そう仰って、頁を、そろえられましたわ。
「ですが、条文にできます。……そのまま」
王室評議会に、かけましたわ。説明は、私がいたしましたの。
灰色が三十一年続いた理由は、制度に、遊びがなかったからですわ。飢える年に、額を下げる書き方が、どこにも、ございませんでしたの。
書き方がございませんと、人は、帳簿の外に、二冊目を作りますわ。
……作らせないためには、一冊目に、書けるようにいたしませんと。
「監査官。この案は、誰が」
議長が、そう伺われましたの。私、書面を、めくりましたわ。
最後の頁の、差出人の欄ですの。十年、空いておりましたわ。
私、そこに、書きましたのよ。
『ロザリンド・ファルケンラート』
書き終えてから、少しだけ、手が、止まりましたわ。……八年、この名前で、何も、書けませんでしたのよ。
公爵夫人でしたときの帳簿には、私の名は、ございませんの。全部、あの家の名で、書いておりましたわ。
三十九話で、私、査問の席で、自分の八年を、清算いたしましたわね。
……あのときは、清算しただけですの。今日、はじめて、私の名前で、何かを、王国に、出しますわ。
裁可は、その月のうちに、下りましたの。
「収穫調整の繰延」ですわ。名前は、味気のうございますけれど。
……これで、凶作の年に、村が消えることは、ございませんの。規程に、書いてございますもの。
誰にも、決めさせずに。
その晩、殿下が、木箱を、片づけておられましたわ。
空になった箱ですの。
「殿下。それ、お捨てになりますの」
「いや」
「では」
「入れるものが、また、出る」
……この方。私、扇で、顔を、隠しましたわ。
これから十年ぶん、書けと、仰っておりますのね。
十五話の書類箱に、十年、入っておりましたの。十七歳のロザリンドが匿名で出した、徴税制度の上申書ですわ。殿下は戦場にも持って行かれたそうですのよ。
文章はひどうございます。「〜すべきである」を七回も使っておりますの。……ですけれど、セドリック様が「直すところがありません。そのまま条文にできます」と。
灰色が三十一年続いた理由は、制度に遊びがなかったからですわ。飢える年に額を下げる書き方が、どこにもございませんでしたの。書き方がなければ、人は二冊目を作りますのよ。
そして十年、空いていた差出人の欄。ロザリンドは、そこに、はじめて、自分の名前を書きましたわ。
次回、祖父の名誉を、回復いたしますの。
この作品でいちばん書きたかったのは、この一話かもしれませんわ。十七の紙に、二十八で署名いたしますの。ブックマークと評価、どうぞよろしく。




