第67話:いちばん隠れる場所は、毎日見る場所ですわ
監査庁の書庫の、いちばん手前の棚に、監査規程の原本が、ございますわ。
五十八話で、私、それを開きましたの。第一条を読んで、起草者の署名を見て、「四」の払いを、確かめましたわ。
その棚の前に、椅子が、一つ、置いてございますの。
誰の椅子でもございませんわ。原本を写しに来た者が、腰かけるための、古い椅子ですの。
……あの方は、この一年、毎日、そこに、お座りでしたのね。
私、その椅子に、座ってみましたわ。
目の高さが、変わりますのよ。
立っておりますと、規程の原本は、胸のあたりですの。座りますと、目の高さに、参りますわ。
棚は、四段ございますの。
いちばん上は、王印璽関係の綴り。二段目が、規程と、教本の草稿。三段目が、歴代の総裁の引継書。いちばん下は、製本の見本と、傷んだ綴りの控えですわ。
私、いちばん下の段を、見ましたの。……座ったときに、いちばん、目に入りにくい段ですわ。
いいえ。違いますわね。
座ったときに、いちばん、手が届く段ですのよ。
傷んだ綴りの控えというのは、要するに、捨てられない紙ですわ。
表紙が取れたもの。水を吸ったもの。頁が抜けたもの。
いつか直そうと思って、二十年、そのままになっているような綴りが、二十七冊、ございましたの。
私、一冊ずつ、出しましたわ。埃が、指に、つきましたの。
十九冊目でしたわ。……重うございましたのよ。
表紙には、こうございましたの。
『監査規程 製本見本(不良)』
中を、開けましたわ。
最初の三頁は、確かに、規程の条文ですの。印刷が、少し、ずれておりますわ。なるほど、不良品ですわね。
四頁目から。罫が、引いてございましたわ。
月。区。相手方。額。
額の下に、一本、線。
私、その場に、しゃがみ込みましたの。
三十一年前の、七の月から、始まっておりましたわ。北部三郡。四百クローネ。
五十七話で読みました、組合の一冊目の、いちばん最初の行と、同じですの。
……ですけれど、こちらには、続きが、ございましたわ。組合の帳面には、載っていない、一割の行が。
毎月、末日。三十一年、一度も欠けずに。いちばん新しい頁は。
先月の、末日ですわ。インクが、まだ、少し、新しゅうございましたの。
五十話で、マルバス様が、仰いましたわね。
「筆頭は、帳簿を、焼きません」
「焼くのは、私のような、下の者でございます。五話で、あなたが見た炎も、そうでしょう」
「筆頭は、焼きませんよ。書くのです。誰よりも、正しく、美しく、規定どおりに。書いて、そして——一冊だけ、誰にも見せずに、持っている」
……持っていらっしゃいませんでしたわ。置いていらしたのですのよ。
この国で、いちばん、人の出入りの多い書庫の、いちばん手前の棚の、いちばん下の段に。
規程の原本の、真下に。私が、この一年、ほとんど毎日、前を通っておりました場所に。
セドリック様と、フィーを、呼びましたわ。二人とも、しばらく、口を、きけませんでしたの。
「……監査官殿。なぜ、こんな場所に」
「隠す場所を、探しますとね、セドリック様」
私、埃を、払いましたわ。
「人は、必ず、鍵のかかる場所を、探しますのよ。金庫、二重の錠、地下、屋根裏。……ですけれど、鍵のかかる場所というのは、『大事なものがある』と、書いてあるのと同じですわ」
「では」
「いちばん隠れる場所は、毎日、皆が見る場所ですのよ。誰も、見ておりませんもの」
……そして、この方は、それを、毎日、見に来ておられましたの。ご自分の帳簿を、置いた棚の前の椅子に、座って。
一年、毎日。
最後の頁の、次に。
白紙が、一枚、挟んでございましたわ。そこに、一行だけ。
『三十一年、一度も、間違えなかった』
……ええ。そうですわね。
この帳面には、誤記が、一つも、ございませんの。三十一年、毎月、正しく、美しく、規定どおりに。
私、その一行を、しばらく、見ておりましたわ。これは、罪の告白では、ございませんのよ。
誇りですわ。
書庫を出ますとき、殿下が、扉のところに、立っておられましたわ。
私が抱えている綴りを、御覧になって、一言。
「それか」
「ええ」
「読めるか」
「読めますわ」
殿下は、頷かれましたの。それから、少しだけ、間を置いて。
「ロザリンド。……手が、震えている」
私、綴りを、抱え直しましたわ。
「重いんですのよ、これ」
「そうか」
「ええ。……三十一年ぶん、ございますもの」
殿下は、それ以上、何も仰いませんでしたわ。ただ、階段を下りるまで、半歩だけ、後ろを、歩いてくださいましたの。
……この方は、支えてくださいませんのよ。いつも、倒れたときにだけ、そこにいらっしゃいますの。
五十話でマルバス様が仰った「一冊だけ、誰にも見せずに持っている」帳簿。……持っていらしたのではなく、置いていらしたのですわ。
監査庁の書庫の、いちばん手前の棚の、いちばん下。規程の原本の、真下。表紙には『監査規程 製本見本(不良)』。ロザリンドが、この一年、ほとんど毎日、前を通っていた場所ですの。
「いちばん隠れる場所は、毎日、皆が見る場所ですのよ。誰も、見ておりませんもの」
最後の頁の次に、白紙が一枚。『三十一年、一度も、間違えなかった』。……罪の告白ではございませんわ。誇りですのよ。
次回、第8章、締めですわ。決算を申し上げます。
隠し場所の話は、一度きちんと書いてみたかったのですの。金庫より、棚の下のほうが、よほど深うございますわ。評価、どうぞよろしく。




