第63話:教本に、灯台守の日誌は載っておりませんの
朝、私、『監査官必携』を、閉じましたわ。閉じて、書棚の、いちばん上に、置きましたの。
「セドリック様。伺いますわ」
「はい」
「この本には、何が、書いてございますかしら」
セドリック様は、少し、考えられましたの。
「……監査の、やり方です」
「もう少し、狭く仰ってくださいませ」
「監査官が、被監査者の帳簿を、正しく、開くための手順です」
ええ。そのとおりですわ。
被監査者の、帳簿ですのよ。
「では、灯台守の日誌の、読み方は」
セドリック様の、条文を繰る手が、止まりましたわ。
「……載っていません」
「パン屋の仕入帳は」
「……載っていません」
「車大工の修繕帳は。宿屋の宿帳は。馬丁の日雇い帳は。領民の通い帳は」
「載っていません」
私、扇を、開きましたの。
「あの方は、監査する側の技術を、全部、お書きになりましたわ。……ですけれど、素人の帳面の読み方は、一行も、お書きになっておりませんのよ」
当たり前ですわね。監査制度の父ですもの。制度の内側にあるものは、全部、あの方のものですわ。
規程も、様式も、教本も、時効の条文も、審査の手続も。
……ですけれど。
灯台守のジョゼフ翁は、規程で日誌をお付けになりませんでしょう。パン屋の女将は、様式に従って仕入を書きませんわ。ゲルトさんは、気に入らないお客の徽章を、腹立ちまぎれに、書き留めますのよ。
三十一年、あの方が、一度も、手を入れられなかった帳簿が、この国には、何万冊も、ございますわ。
「監査官殿。……ですが、それを集めても、追徴は立ちません。時効です」
「ええ。三十一年前の分は、立ちませんわ」
私、その言葉を、口にしてから。……あら。
と、思いましたの。
「セドリック様。時効は、いつから数えますの」
「当該会計年度の、終了からです」
「では、その会計年度が、まだ、終わっておりませんでしたら」
セドリック様が、顔を、上げられましたわ。五十三話で、フィーが申しましたわね。
灰色の上納は、止まっておりません、と。
マルバス様が失脚なさっても、機密費の口座を封じても、繰入を勅令で塞いでも。地方の商会と、小さな貴族家から、月末になりますと、同じ額が、出ていっておりますのよ。
先月も。
……先々月も。
「これは、三十一年前の話では、ございませんわ」
私、机を、指で、叩きましたの。
「今月の話ですのよ」
セドリック様が、立ち上がられましたわ。珍しく、椅子が、倒れましたの。
「監査官殿。それでしたら、申立ての射程も、外れます」
「と、仰いますと」
「六十話の申立ては、私どもの『監査手続』の瑕疵を突くものです。送達の日数、立会人の数、召喚状の副署。……全部、監査官が、権限で取った証拠についての瑕疵です」
「ええ」
「市井の方が、自分の帳面を、自分の意思でお持ちになるのは、監査手続ではありません。任意の提出です。規程の、外側です」
セドリック様は、そこで、眼鏡を、押し上げられましたわ。
「あの申立書は、二十二頁ありますが——素人の帳面には、一行も、効きません」
……まあ。セドリック様が、そんな乱暴な言い方を、なさいますのね。
「不愉快ですが、痛快です」
フィーが、算盤を、置きましたわ。
「あの、じゃあ、集めるんですね。帳面」
「ええ」
「どのくらい?」
「三十一年分」
フィーの目が、丸くなりましたわ。
「……何冊ですか」
「さあ。何千冊か、何万冊か」
「む、無理です!」
「無理ではございませんのよ、フィー」
私、椅子から、立ちましたの。
「私、心当たりが、六つほど、ございますの」
その晩、書きましたわ。六通の手紙ですの。
一通目は、南の岬の、灯台へ。
二通目は、セルヴァンの、パン屋へ。
三通目は、グランツベルク領の、水車小屋へ。
四通目は、同じ領の、寡婦のもとへ。
五通目は、聖アガタ孤児院の、院長様へ。
六通目は。……ずいぶん、迷いましたわ。
一話で、あの屋敷を出ますとき、私、この方に、申し上げましたのよ。
『皆の給金の未払いが出たら、いつでも知らせて』
あれから一年あまり、一度も、お便りは、ございませんでしたわ。私、その名を、書きましたの。
『トマ様へ』
封をして、六通、机に、並べましたわ。……あの方の教本には、載っておりませんのよ。
人に、手紙を書けとは、どこにも。
教本には、被監査者の帳簿の開き方しか書いてございませんの。灯台守の日誌も、パン屋の仕入帳も、車大工の修繕帳も、一行も載っておりませんわ。三十一年、あの方が一度も手を入れられなかった帳簿ですのよ。
そして時効。三十一年前の分は立ちませんけれど——上納は、今月も、止まっておりませんの。これは今月の話ですわ。
さらにセドリック様の一撃。「あの申立書は二十二頁ありますが、素人の帳面には、一行も効きません」
六通の手紙を出しましたの。灯台守、パン屋、水車小屋、寡婦、院長様。……そして六通目は、一話で、あの屋敷を出るときに約束した方へ。
次回、皆様の帳面を、拝見してまいりますわ。
制度の外側の紙は、意外と残っておりますのよ。宿帳も、修繕帳も、捨てない方がいらっしゃいますから。評価、励みになりますわ。




