第61話:帳簿とは、隠すために発明されたのだよ
二日後、林檎の木の家から、使いが参りましたわ。便箋は一枚。一行だけ。
『お茶が冷めるよ』
今度は、林檎のお茶では、ございませんでしたの。濃い、黒いお茶ですわ。砂糖の壺が、添えてございましたの。
「甘いのは、苦手かね」
「いただきますわ」
私、二つ、入れましたの。グリム様は、それを見て、少しだけ、笑われましたわ。
「オーギュストも、二つだった」
「三十一年前だよ」
前置きは、ございませんでしたわ。
「私が、書いた」
私、砂糖を混ぜていた匙を、置きましたの。
「……お認めになりますのね」
「認めるとも。ただし、供述だ。あなたは、これを法廷に持ち込めない。私が『言っていない』と申せば、それまでだよ」
「では、なぜ」
「あなたが、辿り着いたからだ」
グリム様は、猫を、膝に、乗せられましたわ。
「三十一年、誰も、ここまで来なかった。オーギュストが、一度だけ、来かけたがね。……お嬢さん。辿り着いた者には、説明する。それが、監査の礼儀だよ」
……この方は。いま、私を、褒めていらっしゃいますのよ。
「徴税請負の仕組みを作ったのは、私だ」
グリム様は、猫の背を、撫でながら、話されましたわ。
「王国の税は、それまで、王の気分で集めていた。豊作でも凶作でも、同じ額を取り立てた。……凶作の年に、村が、一つ、消えるのを見てね」
「ですから、請負にいたしましたの」
「うむ。区ごとに人を立て、額を定め、記録を残す。……いい仕組みだよ。いまも、いい仕組みだ」
ええ。私、その仕組みの中で、育ちましたもの。
「だがね、お嬢さん。仕組みには、遊びがない」
グリム様は、そこで、器を、置かれましたわ。
「定めた額は、定めた額だ。凶作の年に、半分にしてやることは、書けない。書けば、翌年、皆が凶作だと言う。……では、どうする」
私、答えられませんでしたわ。
「帳簿の、外でやるのだよ」
「最初の一冊はね、お嬢さん。取り立てすぎた分を、返すための帳面だった」
私、息を、止めましたの。
「北部の三郡で、凶作があった。定めた額を取れば、村が消える。私は、王都の裕福な区から、少し多めに集めて、それを、北へ回した。……帳簿には、書けない。書けば、規程違反だ。だから、別の帳面に、書いた」
「それが、灰色ですのね」
「そうだ。当時は、誰も、灰色とは呼ばなかったがね。……ただの、二冊目の帳面だったよ」
林檎の木が、外で、鳴っておりましたわ。
「三年、それでうまく行った。五年目に、ある伯爵が言った。『私の区も、少し、都合してくれ』と。凶作ではなかった。……ただ、屋敷を建てたかったのだよ」
「お断りになりましたの?」
「断ったとも。……二度は、断った」
三度目は。伺わなくても、分かりますわ。
「三度目に、私は、こう考えたのだよ。断れば、この帳面の存在が、外へ出る。出れば、北の三郡が、飢える。……では、貸してやろう。利息を取って。取った利息を、北へ回せばよい」
私、指先が、冷たくなりましたわ。……その計算、合っておりますのよ。
一つ一つの計算は、全部、合っておりますの。
「そこからは、早かったよ。貸せば、返ってくる。返れば、また貸せる。借りた者は、私に、逆らわなくなる。……十年目には、私が北の三郡のことを考える日は、月に一度もなくなっていた」
グリム様は、猫の背から、手を、離されましたわ。
「お嬢さん。私は、まちがえたのではない」
その声は、穏やかなままでしたの。
「まちがえたまま、三十一年、直さなかったのだよ」
「グリム様。……祖父は」
「うむ」
「祖父を、お殺しになりましたの」
グリム様は、ずいぶん長い間、答えられませんでしたわ。猫が、膝から、降りましたの。
「命じては、いない」
「では」
「ラウレンツが、私に、伺いを立てに来た。『オーギュスト殿が、そこまで来ております』と。……私は、何も言わなかった」
「何も」
「何も言わなかった。ただ、『そうか』と申した」
……五十九話で、私が祖父の死を申し上げましたときと。同じ言葉ですのね。
「あの男は、三十一年、私の言わないことを、読んできた男だよ。……お嬢さん。私は、あのとき、止められた。止めれば、止まった。止めなかったのは、私だ」
私、扇を、握っておりましたわ。握りすぎて、骨が、鳴りましたの。
「……なぜ、止めてくださらなかったのですか」
「怖かったからだよ」
五十話で、マルバス様も、同じことを仰いましたわ。王国でいちばん強い方も、王国でいちばん賢い方も、同じ一語で、人を殺しますのね。
「お嬢さん。一つ、教えておこう」
グリム様は、立ち上がって、書棚のほうへ、歩かれましたわ。背が、丸うございましたの。
「あなたは、帳簿を、何のためのものだと思っているかね」
「……嘘を、見つけるためですわ」
「違うよ」
振り返らずに、そう仰いましたの。
「帳簿とは、隠すために発明されたのだよ」
私、顔を、上げましたわ。
「見せるためではない。見せてよいものと、見せなくてよいものを、分けるために作られた。……二冊に分けた瞬間に、人は、片方を隠せるようになった。私は、それを、誰よりもよく知っている。なにしろ、様式を書いたのは、私だ」
「グリム様」
「だからね、お嬢さん。あなたが次に何をするか、私には、分かる」
グリム様は、書棚から、一冊、抜かれましたの。
『監査官必携』ですわ。
「あなたの次の一手は、この本に書いてある。証拠の連鎖だ。組合の帳面から、上納した家を辿り、家ごとに追徴を立て、数で押す。……そうだろう」
……そのつもりでしたわ。
「三十年前に、書いたよ。あなたが読んで、覚えて、上手に使えるようにね」
グリム様は、その本を、私の前に、置かれましたの。
「差し上げよう。私のは、もう、要らん」
A1、回収ですわ。三十一年前、最初の灰色の一冊を書いたのは、監査制度の父、ヴァルター・グリム。
……最初の一冊は、取り立てすぎた分を、飢える村へ返すための帳面でしたの。一つ一つの計算は、全部、合っておりましたのよ。
「私は、まちがえたのではない。まちがえたまま、三十一年、直さなかったのだよ」
祖父の死は、命じたのではなく、止めなかった。理由は、五十話のマルバス様と同じ一語ですわ。
そして——「帳簿とは、隠すために発明されたのだよ」。ロザリンドの次の一手は、三十年前に、この方が書いておりますの。
次回、ロザリンドの手が、止まりますわ。
悪人ではない方が、いちばん大きな穴を開けますのね。ここを書きたくて、六十一話まで参りましたの。評価、お待ちしておりますわ。




