第59話:先代総裁を、監査いたしますわ
猫は、まだ、生きておりましたわ。三十三話のときより、少し、太っておりましたの。
「掛けなさい。茶を淹れよう」
グリム様は、そう仰って、炉のほうへ、立たれましたわ。白い髭も、丸めた背も、あのときのままですの。
林檎の香りが、部屋に、広がりましたわ。私、この香りを、いい香りだと思っておりましたのよ。
「グリム様。本日は、伺いたいことがございまして」
「うむ。そうだろうね」
湯気の立つ器が、私の前に、置かれましたわ。私、鞄から、写しを、二枚、出しましたの。
一枚は、灰色の一冊目の、最初の三頁。もう一枚は、監査規程の原本の、起草者署名と、条文の草稿。机の上に、並べましたわ。
グリム様は、老眼鏡を、掛けられましたの。二枚を、ゆっくりと、御覧になりましたわ。
……ずいぶん、長い間ですの。
そして。
「ほう。よく、辿り着いたね」
それだけ、仰いましたわ。私、指が、震えそうになりましたのを、扇で、隠しましたの。
「グリム様。この三頁は」
「見事な筆だ。……罫の使い方が、正確でね」
「私、伺っておりますのは」
「お嬢さん」
グリム様は、器を、両手で、包まれましたわ。
「私は、いま、認めても、否定してもいない。分かるかね」
……ええ。
分かりますわ。
「あなたは、いま、私が『そうだ』と言うのを、待っている。だが、私が言ったところで、それは供述だ。供述は、翻せる。……三十一年前に、私が、あなたに教えたことだよ」
「私に、ではございませんわ」
「同じことだ。あなたは、私の書いた規程で、育った」
林檎のお茶が、まだ、湯気を立てておりましたの。
私、口を、つけませんでしたわ。
「グリム様。祖父のことを、伺ってもよろしくて」
「オーギュストか」
「十二年前の、あれは、事故ではございませんでした。組合の頭取が、車軸の手配を、認めておりますわ」
グリム様の指が、器の縁を、一度、撫でましたの。
「……そうか」
「そうか、と仰いますのね」
「うむ」
「友でいらしたのでしょう」
「友だったよ」
その声は、嘘には、聞こえませんでしたわ。
……それが、いちばん、恐ろしゅうございますのよ。
帰りぎわ、門のところで、グリム様が、こう仰いましたの。
「お嬢さん。一つ、老婆心を」
「……またですの」
「うむ。前もそう言ったな」
グリム様は、笑われましたわ。三十三話と、同じ笑顔ですの。
「私を疑うなら、正式に、監査しなさい」
私、振り返りましたわ。
「規程の、第十一条三項だ。前職者の職務に対する事後監査。手続を踏めば、あなたは、私の家の帳面も、監査庁の書庫も、開けられる。……逆に言えばね、お嬢さん。手続を踏まずに開けたものは、一つも、使えない」
林檎の木が、風で、鳴りましたの。
「私は、逃げんよ。この歳では、走れんのでね」
監査庁へ戻って、起票いたしましたわ。被監査者、ヴァルター・グリム。先代王宮監査庁総裁。根拠、規程第十一条三項。
……そこから先が、地獄でしたのよ。
「監査官殿。これは、通りません」
セドリック様が、また、同じことを仰いましたわ。今度は、抜け道がございませんの。
「事後監査の発議には、王室評議会の、三分の二の賛成が要ります」
「評議会は」
「……この方に、勲章を差し上げた側です」
ええ。この国で、ヴァルター・グリムという名は、そういう名ですわ。
徴税の仕組みを作り、王国の会計を作り、私たちの規程を書いた方ですのよ。子どもが読む王国史の本にも、載っておりますわ。
その方を疑うということは、王国の税の集め方そのものを、疑うということですの。
私が持っておりますのは、筆跡が似ているという、一枚の写しだけですわ。
殿下が、評議会へ、出られましたの。三日、かかりましたわ。
……通りましたのよ。ぎりぎりで。
「どうやって、お通しになりましたの」
「言っていない」
「は?」
「名は、伏せた。『三十一年前からの上納経路について、当時の監査庁の職務を洗う』と申請した」
……戦場から帰っていらした方の、通し方ですわね。正面から当たらずに、名を伏せて、通してしまわれますの。
監査は、その翌日から、始まりましたわ。……こちらへの監査が、ですけれど。
朝、監査庁の門に、書状を持った男が、立っておりましたの。王室評議会からの、正式な申立書ですわ。
申立人の欄には、こうございましたの。
『王宮監査庁 前総裁 ヴァルター・グリム』
件名は。
『特別監査官ロザリンド・ファルケンラートの、過去全案件に関する、手続適法性の審査を求める件』
第8章「監査官を監査する」、開幕ですわ。
グリム様は、認めも否定もなさいません。「私が言ったところで、それは供述だ。供述は、翻せる」。……三十一年前に、ご自分が書かれたことですのよ。
そのうえで、こう仰いますの。「私を疑うなら、正式に、監査しなさい」。逃げないのではございませんわ。手続の上でしか戦わないと、宣言していらっしゃるのですの。
そして翌朝、監査庁の門に届いた申立書。……今度は、ロザリンドが監査される側ですわ。
手続で殴ってくる敵、というのを一度書いてみたかったのですわ。剣より痛うございますでしょう。評価、いただけますと嬉しゅうございますの。




