第58話:暗号を書いた手
監査庁の書庫は、三階の、いちばん奥にございますわ。
窓が北向きですので、日が入りませんの。紙が焼けないように、そう作ってあるのですわ。
いちばん手前の棚に、監査規程の原本が、ございますの。
手前の棚は、いちばん、手垢のつく場所ですのよ。
この一年、私も、何度その前を通ったか分かりませんわ。……通るたびに、背表紙を、目の端で確かめておりましたの。あそこにある、と思うだけで、足が、まっすぐになりましたもの。
発足のときに、王印璽を押して、綴じたものですわ。この一年、ほとんど毎日、その前を通っておりますのよ。
私、それを、取り出しましたの。表紙を開けて、第一条を、見ましたわ。
『監査官は、数字を疑ってはならない。疑うべきは、数字を書いた手である』
……お祖父様の家訓と、同じことが、書いてございますのよ。
私、この一条を、着任の日に読んで、この役所で働こうと決めましたの。三話のことですわ。
起草者の署名欄は、いちばん最後の頁にございますわ。私、頁を繰りましたの。
『起草 王宮監査庁 総裁 ヴァルター・グリム』
……「四」の字が、ございますわね。ヴァルターの、四。
最後の払いが、少しだけ、上に、跳ねておりますわ。
セドリック様に、二つを、並べていただきましたわ。
灰色の一冊目の、最初の三頁。監査規程の原本の、起草者署名と、条文の草稿。
罫の使い方。数の頭の揃え方。額の下の、線。「四」の払い。
「……監査官殿」
セドリック様の声が、いつもより、ずっと低うございましたの。
「同じ手です」
「ええ」
「三十一年前の、灰色の一冊目の見本を書いた人物と、監査規程を起草した人物が、同じ手です」
セドリック様は、そこで、眼鏡を、外されましたわ。この方が眼鏡を外されるのを、私、初めて、見ましたの。
三十三話のことを、思い出しておりましたわ。
王都のはずれの、林檎の木に囲まれた、小さな家。白い髭の穏やかな老人。膝に、猫。
温かい、林檎のお茶。あの方の暖炉には、ちゃんと、薪がくべられておりましたの。
「監査官の、目だ。オーギュストと、同じ目だ」
「オーギュスト・ファルケンラートは、私の、いちばん古い友だった」
あの方は、私に、道を教えてくださいましたわ。機密費の決裁を辿れと。配置された手を探せ、と。
……そのとおりに、辿りましたのよ。
ミレーヌを見つけて、大蔵卿に届いて、二百四十万クローネの決算まで、行きましたわ。
全部、あの方の、仰ったとおりに。そして、五十話で、マルバス様が仰いましたわね。
「私は、筆頭ではない」
「筆頭は、帳簿を、焼きません。……書くのです。誰よりも、正しく、美しく、規定どおりに」
……規定どおりに。ええ。
規定を、お書きになった方ですもの。
三十三話で、あの方は、私が口にする前に、「灰色」と。私、まだ、一言も、申し上げておりませんでしたのに。
あのとき、監査官の性が、ざわめきましたのよ。ぴったり合いすぎる数字を、見たときと、同じように。
……私、あのざわめきを、一年、放っておきましたのね。
「監査官殿。申し上げにくいのですが」
セドリック様が、眼鏡を、掛け直されましたわ。
「これでは、立ちません」
「ええ」
「筆跡の相似は、証拠として、弱い。鑑定に出しても『似ている』止まりです。……そして相手は」
「監査制度の、父ですわね」
この国で、あの方を疑うということは。徴税の仕組みそのものを、疑うということですのよ。
王国の税は、あの方の書いた規程で、集まっておりますわ。裁きも、査問も、私の追徴も、全部、あの方の様式で、動いておりますの。
……私の手は。
一話で精算書を書きましたときから、四十九話で二百四十万クローネを読み上げましたときまで。
全部、あの方の字で、できておりますのよ。
「監査官殿。……大丈夫ですか」
「ええ」
大丈夫ですわ。指が、少し、冷たいだけですの。
書庫の入口で、足音が、止まりましたわ。殿下でしたの。
何も仰いませんでしたわ。私の隣に、来て、並んで、二枚の紙を、御覧になりましたの。
この方は、帳簿が、お読みになれませんのよ。並べた紙の、どこが同じかも、たぶん、お分かりになりませんわ。
それでも、ずいぶん長い間、御覧になっておられましたの。それから、一言。
「行くのか」
「ええ」
「一人でか」
「……お茶を、いただきに参るだけですもの」
殿下は、それ以上、伺いませんでしたわ。ただ、書庫を出るとき、扉のところで、こう仰いましたの。
「ロザリンド。俺は、帳簿は読めん」
「存じておりますわ」
「だが、君の顔は、読める」
……私、そんなに、ひどい顔を、しておりましたかしら。
林檎の木の家は、変わっておりませんでしたわ。
秋ですのね。実が、ずいぶん、赤うございましたの。門のところで、私、立ち止まりましたわ。
窓辺に、灯りが、ともっておりましたの。……お待ちに、なっていらっしゃいますのね。
私、袖の中の、インク壺を、握りましたわ。冷たい、硝子ですの。底に、鉛の板の入っていた、空の穴がございますわ。
お祖父様。あなたが、鍵を手放さなかった相手のところへ、参りますわ。
扉を叩きましたの。二度、叩く前に、中から、声がいたしましたわ。
「来たね、お嬢さん」
——第7章・完——
第7章「祖父の事故」、ここまでですわ。
十二年前のあれは事故ではございませんでした。関の番人、宿屋の女将、車大工、馬丁。誰も互いを知らない四冊が、ぴったり合ってしまいましたの。そして祖父が手放さなかった鍵は、十二年、孫の袖の中にございましたわ。
三十一年前の灰色の一冊目、その見本を書いた手。監査規程の第一条を起草した手。
……同じ手ですのよ。
三十三話の林檎のお茶を、覚えていらっしゃいますでしょうか。あの方は、ロザリンドが口にする前に「灰色」と仰いましたわね。あのざわめきを、ロザリンドは一年、放っておきましたの。
次の第8章は、「監査官を監査する」。ロザリンドの手は、あの方の字でできておりますわ。教わった技で、教えた人に、勝てますかしら。
ブックマークと評価が、ここまで書き切るための軍資金ですの。どうぞよろしくお願いいたしますわ。




