第57話:彫りには、続きがございましたの
執務室に、一人で、おりましたわ。机の上に、インク壺を、置きましたの。
祖父の形見ですわ。一話で、あの屋敷から持ち出しました、たった一つの私物ですの。厚い硝子で、底が重くて、蓋に、蔦の彫りがございますわ。
八年、公爵夫人でしたときも、これで帳簿を付けておりましたのよ。三話の着任の日も、七話の初めての追徴も、三十一話の決算も、四十九話の御前も。
全部、この壺の墨で、書きましたわ。
二十五話で、彫りに、続きがあるような気がいたしましたの。蔦の葉が、途中で、切れておりますのよ。
……それきり、確かめずに、二十五話、参りましたわ。怖かったのですわね、たぶん。
私、蓋を、外しましたの。それから、壺を、逆さに、持ちましたわ。
底は、厚い硝子ですの。中の墨の面より、外の底の方が、指一本ぶん、下にございますわ。
……ええ。十二年、毎日、手に持っておりましたのに。
この壺は、見た目より、中が、浅うございましたのよ。
底の縁に、蔦の彫りが、回っておりますわ。私、その葉の一枚を、爪の先で、押しましたの。
動きませんでしたわ。次の葉を、押しましたの。
動きませんわ。三枚目。
……かたり、と。硝子が、四分の一だけ、回りましたわ。
中に、ございましたのは、薄い、鉛の板ですの。名刺ほどの大きさで、両面に、細かい字が、彫ってございましたわ。
文字ではございませんの。左の列に、仮名。右の列に、記号と、数。
仮名の「い」に、記号がひとつ。「ろ」に、また別の記号。……四十七、全部。それから、数の読み替えが、十。
私、しばらく、それを、見つめておりましたわ。換字表ですのよ。
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【監査手帖】
この壺、十二年、私の手にありましたの。
嫁ぐ日も、離縁の夜も、持って出ましたわ。
……お祖父様。あなた、それを、御存じでしたのね。
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鉛の板の、隅に、彫りが一行、ございましたわ。
『ロザリンドへ 数えるのは、お前の仕事だ』
……お祖父様。私、十五でしたのよ。
あなたが亡くなったとき、私、まだ、十五でしたの。それから四年で、あの家に嫁ぎましたわ。八年、誰にも、必要とされませんでしたのよ。
……ずっと、手の中に、ございましたのね。私、扇を、開きましたわ。
誰も、おりませんのに。
その晩、監査庁の書庫は、朝まで、灯りが消えませんでしたの。
セドリック様が、換字表を写し、フィーが、数の読み替えを覚えましたわ。
「ロザリンド様、これ、月の数が二重になってます。……あ、違う。区の番号だ。ここで折り返してます」
「フィー、そこ、書き留めて」
「はい!」
「セドリック様、二十二条の様式で、並べ直してくださいませ。月、区、相手方、額の順ですわ」
「規定により、承知しました。……ええ、確かに、様式です。腹が立つほど、正確な」
一冊目の、最初の頁から。読めましたのよ。
三十一年前の、七の月。北部三郡。相手方は、符牒。額、四百クローネ。
次の行。八の月。同じ区。同じ符牒。四百クローネ。毎月末。三十一年、途切れずに。
……この一本が、三十一年、動いておりましたのね。
夜が明ける少し前でしたわ。
フィーが、頁を、指で押さえて、こう申しましたの。
「ロザリンド様。……これ、ここまでと、ここから、字が違います」
私、覗き込みましたわ。一冊目の、最初の三頁。
そこだけ、明らかに、別の手ですの。ケラー様の字は、細くて、詰まっておりますわ。算盤を弾く人の字ですの。
最初の三頁は、違いますのよ。ゆったりとして、罫を、きちんと使って、額の下に、線が、一本。
しかも、書いてございます中身が、妙ですのよ。
区の名が、ございませんの。相手方も「甲」「乙」ですわ。額は、百、二百、三百と、丸うございますの。
「……見本ですわね」
「見本?」
「教えるために、書いた頁ですわ。こう付けなさい、と」
三十一年前、ケラー様は、三十一でいらしたそうですわ。組合の下働きで。
その方に、誰かが、この付け方を、教えましたのよ。教えるときに、自分の手で、三頁、書いて、渡しましたの。
……几帳面な方ですのね。私、その三頁を、灯りに、近づけましたわ。
罫の使い方。数の頭の揃え方。額の下の、線。それから、「四」の字の、最後の払い。少しだけ、上に、跳ねますのよ。
私、この字を。……どこかで、毎日、見ておりますわ。
C1、回収ですわ。一話からロザリンドが持ち歩いていた祖父のインク壺。底の蔦の彫り、三枚目の葉を押すと、四分の一だけ回りますの。中にございましたのは、鉛の板の換字表。
『ロザリンドへ 数えるのは、お前の仕事だ』
十二年、ずっと手の中にございましたのよ。嫁ぐ日も、離縁の夜も。
そして解読した十七冊の一冊目、最初の三頁だけが、別の手で書かれておりました。教えるために書かれた「見本」の頁ですわ。……その字を、ロザリンドは、どこかで毎日、見ておりますの。
次回、第7章、締めですわ。
伏線というのは、隠すより「毎回出しておく」ほうが、開けたときに効きますのね。ブックマークと評価、どうぞよろしく。




