第56話:習った、と仰いましたわね
ケラー様は、その日のうちに、身柄を、押さえましたわ。
私文書偽造と、殺人の教唆。三十九話で、ミレーヌにいたしましたのと、同じ手順ですの。
あのとき、私、失敗いたしましたのよ。
四十話で、ミレーヌは、証言の前の晩に、拘束房で、冷たくなっておりましたもの。差し入れの茶と、記録のない見舞い客。持病の発作ということに、なっておりましたわ。
ですから今度は、監査庁の人間を、房の前に、置きましたの。差し入れは、全部、こちらで検めますわ。面会は、私と、セドリック様と、書記のみ。
殿下が、一言だけ、仰いましたの。
「二度は、やらせん」
ケラー様は、房の中でも、背筋を、伸ばして座っておられましたわ。
差し入れの粥を、きちんと、召し上がっていらしたそうですの。
「ケラー様。習った、と仰いましたわね」
「はい」
「どなたから」
「存じません」
私、扇を、膝に、置きましたの。
「ケラー様。あなた様は、いま、殺人の教唆で、房にいらっしゃいますのよ。名を仰れば、酌量の余地が」
「存じませんものは、存じません」
この方は、こういうところが、変わりませんのね。
「では、伺い方を、変えますわ。……その方に、お会いになったことは」
「ございます。三度」
「三度」
「三十一年前に、一度。二十年前に、一度。……十二年前に、一度でございます」
十二年前。祖父が、死んだ年ですわ。
「顔は」
「拝見しておりません。夜でございましたし、灯を、置かれませんでしたので。……手前は、燭台の側に、座らされました。あちらは、いつも、暗い方に」
……よく、御存じですのね、その方。顔を見せないのではなく、こちらの顔だけを、明るくなさいますの。
「声は」
「老けた声でございました。三十一年前から、老けておられました。……ですから、いまは、もう、ずいぶんな御歳でございましょう」
私、指先が、冷たくなりましたわ。
「ケラー様。三十一年前、あなたは、おいくつでいらして?」
「三十一でございます。組合の、下働きでございました」
「その方は」
「五十ほどに、聞こえました」
……八十を、越えておいでですのね。
いいえ。声というものは、あてになりませんわ。ご老人に聞こえる方が、実は五十だったということも、ございますもの。
落ち着かなければ、いけませんわ。
「ケラー様。もう一つ、伺いますわ。……あなた様は、その方の、何を、覚えていらっしゃいますの」
ケラー様は、少し、考えられましたの。それから、こう、仰いましたわ。
「書き方でございます」
「書き方」
「符牒の帳面の付け方を、教わりました。……あれは、商人の付け方では、ございません」
私、身を、乗り出しましたわ。
「と、申しますと」
「まず、月を、頭に立てられます。日ではなく、月を。次に、区。それから、相手方。額は、いちばん最後でございます」
……それは。
「そして、額をお書きになりましたあと、必ず、下に、線を一本、引かれます。桁が動かぬように、と」
私、扇を、落としましたの。拾う気にも、なれませんでしたわ。
月、区、相手方、額。額の下に、一本、線。
……それは、商人の付け方では、ございませんのよ。監査規程の、第二十二条ですわ。
監査調書の、様式ですの。私が、毎日、書いておりますものですわ。
「ケラー様」
「はい」
「その方は、どんな言葉で、お話しになりまして?」
ケラー様は、房の壁を、御覧になりましたの。それから、ぽつりと。
「監査の言葉で、お話しになりました」
監査庁へ、戻りましたわ。書庫の前で、私、しばらく、立っておりましたの。
「ロザリンド様?」
フィーが、心配そうに、覗き込みましたわ。
「なんでもございませんのよ。……少し、考え事を」
監査の言葉を使う方は、この国に、何十人もいらっしゃいますわ。監査庁の人間だけでも、十八人。地方の会計吏まで入れれば、百は下りませんもの。
ええ。そうですわね。珍しくは、ございませんのよ。
……ぴったり合いすぎる数字が、いちばん、疑わしいだけですわ。
その晩、もう一度、房へ参りましたの。
伺い残したことが、ございましたから。
「ケラー様。最後に、一つだけ」
「どうぞ」
「十二年前、祖父に、お会いになりましたわね」
「はい。坂の下の村で、一度」
「祖父は、何か、申しましたかしら」
ケラー様は、目を、閉じられましたわ。ずいぶん、長い間、そうしていらっしゃいましたの。
「……手前は、申し上げました。オーギュスト殿、そこまでになさいませ、と」
「祖父は」
「笑っておられました。それから、こう仰いました」
『鍵は、手放さぬよ、ラウレンツ』
私、その場に、立ち尽くしましたわ。
「……それだけですの?」
「それだけでございます。手前には、意味が、分かりませんでした」
鍵。祖父が、手放さなかった鍵。
……お祖父様は、几帳面な方でしたわ。梟亭の女将と、銅貨四枚で揉めるような。
そういう方が、手放さないと決めたものを、どこに、置きますかしら。
金庫でしょうか。いいえ。
几帳面な方は、大事なものを、金庫には、入れませんの。金庫は、開けられますもの。
毎日、手に持って歩きますわ。私、袖の中の、それを、握りましたの。
冷たい、硝子ですわ。
ケラー様は、名前を御存じありませんでした。三度お会いになって、三度とも、暗い方に座られていたそうですの。
ですけれど、癖は覚えていらっしゃいましたわ。月、区、相手方、額。額の下に、一本の線。……それは商人の付け方ではございませんの。監査規程第二十二条、監査調書の様式ですのよ。
「監査の言葉で、お話しになりました」
そして祖父の最後の一言。『鍵は、手放さぬよ』。几帳面な方は、大事なものを金庫には入れませんわ。金庫は、開けられますもの。
次回、彫りの続きを、確かめてまいりますわ。二十五話から、二十五話ぶんも、放っておいてしまいましたけれど。
名前を知らない相手の、癖だけを覚えている——これがいちばん厄介ですのよ。ご感想と評価、お待ちしておりますわ。




