第50話:第二部・完 私は筆頭ではない
翌朝、王都の支払いは、再開されましたわ。
石工の親方には、七日分の遅れに、規定どおりの遅延利息が、つきましたの。パン屋の女将は、監査庁の前で、私に、深々と、頭を下げてくださいましたわ。
「監査官様。……昨日は、すみませんでした」
「いいえ。怒って、当然ですわ」
本当に、そうですもの。明日のパンが焼けない人に、「これは正義のためです」と申し上げるのは、ずるいことですわ。……止めた方が悪いのであって、怒った方は、何も、悪くございませんの。
三日後、陛下の勅令が、下りましたわ。
一つ。機密費に、使途の記載義務を設けること。ただし、公開はせず、王室書記局の副署控えと、毎年、突き合わせること。
二つ。各省庁の年度末余剰金は、財務局を経ずに、直接、国庫へ返納すること。
三つ。王宮監査庁の予算査定権を、財務局から、王室評議会へ移すこと。
……三つ目を読んだとき、セドリック様が、珍しく、声を上げて、笑われましたわ。
「監査される側が、監査する側の財布を握る。……三年、この歪みの上で、仕事をしてまいりました」
殿下の辞表は、陛下が、破り捨てられたそうですわ。年金は、お返しにならなかったと、伺いましたけれど。
ドルン主計官は、罪を、問われましたわ。ただし、目録を残していたことが、酌量されましたの。……あの方は、判決の日、こう仰ったそうですわ。
「私は、数字を、動かしました。……ですが、消しませんでした」
消さなかったから、私たちは、勝ちましたのよ。
この王国で、いちばん地味な、勇気ですわね。
私が、マルバス侯爵——いいえ、もう、侯爵では、ございませんわね。マルバス様に、お目にかかったのは、その、さらに三日後ですの。
屋敷は、清算のために、明け渡されておりましたわ。絵も、燭台も、絨毯も、ございませんの。がらんとした広間で、あの方は、椅子一つだけを許されて、腰かけておられましたわ。
背筋は、まっすぐでしたの。
「おいでなさいませ、監査官殿」
「お邪魔いたしますわ」
「今日は、お茶も、出せませんな」
「ええ。……お互い様ですわ」
私、四十二話のことを、思い出しましたの。あのとき、この方は、机に帳簿を積んで、待っておられましたわね。
「一つだけ、伺いに参りましたの」
「どうぞ」
「九年前の、あの決裁書ですわ。起案者の欄が、白紙でしたの。……そこに、『G』とだけ、ございましたわ」
マルバス様は、答えませんでしたわ。
「あなた様は、決裁を、なさいましたわね。王印璽の副署も、お取りになった。国庫を動かせるのは、あなた様だけでしたわ。……ですから、私、ずっと、そう思っておりましたの。灰色の頂点は、あなた様なのだと」
「けれど、決裁書というものは、正直ですのよ。決裁の欄と、起案の欄は、別ですもの。……あなた様は、書けと言われて、書いた側ですわね?」
しばらく、風の音だけが、いたしましたの。
やがて、マルバス様は、ゆっくりと、顔を、上げられましたわ。
そして。
初めて、笑わずに。
「……私は、筆頭ではない」
その声は、慇懃でも、余裕でもございませんでしたわ。
ただ、疲れた、老人の声でしたの。
「私は、番頭でございますよ。金を動かす役。恨まれる役。……そして、こうして、切られる役ですな」
「では、どなたが」
「申し上げられません」
「なぜですの」
「怖いからですよ」
この方が、初めて、はっきりと、感情を、口になさいましたわ。
王国を人質に取った方が。
二百四十万クローネを闇に落とした方が。
怖い、と。
「監査官殿。一つだけ、老婆心を、差し上げましょう」
マルバス様は、がらんとした広間を、見回されましたの。
「筆頭は、帳簿を、焼きません」
「……焼かない」
「焼くのは、私のような、下の者でございます。五話で、あなたが見た炎も、そうでしょう。……筆頭は、焼きませんよ。書くのです。誰よりも、正しく、美しく、規定どおりに。書いて、そして——一冊だけ、誰にも見せずに、持っている」
私の指が、袖の中で、インク壺を、握りましたわ。
「あなたは、この一年で、ずいぶんと、たくさんの帳簿を、御覧になりましたな。塩も、港も、公爵家も、教会も、機密費も。……ですが、いちばん古い帳簿を、まだ、御覧になっていない」
「いちばん、古い」
「三十一年前に、この王国で、最初に、灰色の一冊を書いた人の、帳簿です」
マルバス様は、そこで、口を、閉じられましたわ。
もう、何を伺っても、お答えになりませんでしたの。
広間を出るとき、背中に、一言だけ、届きましたわ。
「……オーギュスト殿は、そこまで、辿り着かれた」
私、振り返りませんでしたの。
振り返れば、この方が、私を憐れんでいる顔を、見なければなりませんもの。それは、まだ、見たくございませんでしたわ。
監査庁へ、戻りましたの。
窓から、夕日が、入っておりましたわ。机が十四。書記が、明日の書類を揃えて、フィーが、算盤を磨いて、セドリック様が、条文に、付箋を貼っていらっしゃいますの。
……三年目の、小さな役所ですわ。
この役所が、王国の大蔵卿を、崩しましたのね。
「ロザリンド」
殿下が、隣に、立たれましたわ。
「終わったな」
「一区切り、ですわね」
私は、インク壺を、机に、置きましたの。
祖父の形見ですわ。二十五話で、彫りに続きがあるような気がして、それきり、確かめておりませんでしたの。……いつか、確かめる日が、参りますわね。
「ロザリンド」
「はい」
「二十二話で、俺は、言ったな。利息は払う、と」
私、扇を、落としそうになりましたわ。
「……あら。何のお話でしたかしら」
「覚えていないのか」
「監査官は、忘れませんの。ですから、覚えておりますわ。ええ、しっかり、複利で、記帳いたしましたわね。……ですけれど、殿下」
私、扇を、開きましたの。今度は、しっかり、顔を、隠しましたわ。
「あの、その。……債権の、取り立ては。もう少し、期日を、置いていただけますと」
「そうか」
それだけ、でしたわ。
そして、ほんの少しだけ、口の端を、上げられましたの。
「急がん。……利息は、待つほど、増えるのだろう」
……この方、帳簿は読めないと仰いますのに。
こういうときだけ、正しく、複利を、お使いになりますのね。
夕日が、机の上の、インク壺を、照らしておりましたわ。
離縁状を突きつけられた、あの夜。
私が屋敷から持ち出した、たった一つの、私物ですの。
あれから、一年。ずいぶんな数の帳簿を、めくってまいりましたわ。
塩の樽を数えて、港の札を数えて、元夫の借金を数えて、孤児院のパンを数えて、囁き屋の配置を数えて、そして、王国の国庫を、数えましたの。
その全部に、同じ印が、ございましたわ。
「G」。
まだ、顔が、ございませんの。
けれど、もう、遠くは、ございませんわね。
私は、インク壺の蓋を、開けましたの。
明日も、帳簿を、開きますわ。
——第2部・完——
第2部「灰色台帳編」、これにて完結ですわ。第26話から第50話まで、お付き合いくださいまして、本当に、ありがとうございました。
聖なる免税、囁き屋、そして王国徴税の元締め。第2部は、ロザリンドが「他人の帳簿」から「自分の帳簿」へ、そして「国の帳簿」へと、手を伸ばしていく二十五話でしたの。仕組まれた結婚の真相は、四十五話で、すべて明らかになりましたわね。屈辱の八年は、敵が彼女を恐れ続けた八年でしたの。
そして、最後の一言。「私は、筆頭ではない」。
……皆様、この第2部のあいだ、ずっと、大蔵卿が黒幕だと思っていらっしゃいましたでしょう。作者も、そう読んでいただけるように、書いておりましたの。
筆頭は、帳簿を焼かない。書く。誰よりも、正しく、美しく、規定どおりに。
三十一年前、この王国で、最初の灰色の一冊を書いた人が、いる。
……ところで、皆様。第1話から、ロザリンドがずっと持ち歩いている、あの祖父のインク壺。二十五話で、彫りに続きがあるようだ、と申しておりましたわね。
まだ、開けておりませんの。
さて。離縁状を受け取った夜から、ここまで。ロザリンドの決算は、ひととおり、片づきましたわ。持参金も、元夫も、司教も、囁き屋も、大蔵卿も。……ぜんぶ、耳を揃えて、返していただきましたのよ。
第3部「最後の監査編」、はじまりますわ。まずは——十二年前の雨の夜、ミュール街道の関の綴りから。あの夜、祖父の馬車は、そこを通っておりませんの。
ブックマークと評価は、ここまで書き切るための、何よりの軍資金でしたの。第3部も、どうぞよろしくお願いいたしますわ。




