第44話:王印璽は、財務局の外にも押されますの
王室書記局は、王宮の、北の端にございましたの。
日の当たらない廊下の、突き当たり。財務局の扉が樫の一枚板でしたのに、こちらは、塗りの剥げた、古い樅の扉ですわ。
中は、紙の匂いで、いっぱいでしたの。
天井まで、棚。棚。棚。詰まっているのは、控えばかりですわ。誰も読まない、けれど、捨てられない紙の、山ですの。
「王室書記局書記官長、ヴィンターでございます」
現れたのは、小柄な、老人でしたわ。背中は丸く、指はインクで黒く、眼鏡は、鼻の先まで、ずり落ちておりますの。
「監査官殿。ご用の向きは」
「王印璽の、副署控えを、拝見したいのですわ。過去五年分、機密費に関するもの、すべて」
ヴィンター書記官長は、まばたきを、二度、なさいましたの。
「……お断りいたします」
「まあ。理由を、伺っても?」
「規則でございます」
背後で、セドリック様が、ほんの少し、身を乗り出されましたわ。同族の気配を、嗅ぎつけた顔ですの。
「昨日、王室財務局より、当局宛に、通達が参りました。『機密費に関する一切の書類は、非公開特権の対象であり、いかなる部局の閲覧にも供してはならない』。……大蔵卿閣下の、ご署名でございます」
早いこと。
私が伺うより、先回りしていらっしゃいましたのね。
「では、書記官長」
セドリック様が、前に、出られましたわ。
背筋を伸ばして、書類鞄を、胸の前で構えて。この方の、いちばん強い姿勢ですの。
「監査庁主任監査官、セドリック・モローです。一つだけ、確認させてください。……その通達は、規則ですか? それとも、通達ですか?」
ヴィンター書記官長の、眼鏡の奥の目が、初めて、動きましたわ。
「……お続けなさい」
「王室書記局の文書取扱規則、第三条。当局の保管する副署控えの開示可否は、書記官長の専決事項である。第九条、他部局からの通達は、当局の規則に優先しない。……つまり、大蔵卿閣下の通達は、財務局の内規です。この部屋には、掛かりません」
「その通りでございます」
ヴィンター書記官長は、あっさりと、お認めになりましたわ。
「では、規則により、閣下の通達は、無効ですか」
「無効ではございません。ただ、当局に対して、効力を持たぬだけでございます。……ですが、モロー殿。それでもなお、わたくしは、お断りいたしますよ」
「なぜです」
「機密費の非公開特権は、王国法にございます。通達より、上位でございましょう」
「では、伺います」
セドリック様が、条文の綴りを、開かれましたの。
「機密費の非公開特権は、何を、非公開にするものですか」
「……使途を」
「その通り。使途です。金額でも、日付でも、決裁の連番でもない。使途、ただ一つです。ならば、副署控えの、使途欄以外の部分——連番、日付、金額、決裁者の署名——これらを開示することは、特権を、一切、侵しません」
ヴィンター書記官長は、黙って、聞いておられましたわ。
「そして」
セドリック様は、そこで、一度、息を、継がれましたの。
「使途欄については、こちらから、閲覧を求めません。塗り潰していただいて、結構です。……規定により、それでもなお開示を拒む根拠は、この王国の、どこにも、ございません」
紙の匂いの中で、しばらく、誰も、話しませんでしたわ。
やがて、ヴィンター書記官長は、鼻の先の眼鏡を、押し上げて。
小さく、笑われましたの。
「……三十七年、この部屋におりますが」
老人は、棚の奥へ、歩き出されましたわ。
「わたくしに、規則で話しかけた方は、二人目でございます」
「二人目」
私、思わず、伺いましたの。
「一人目は、どなたですの」
ヴィンター書記官長は、振り返りませんでしたわ。
「徴税請負人の、オーギュスト殿でございます。十二年ほど、前でしょうか。……あの方も、副署控えを、お求めになりましたよ」
私の指が、インク壺の、彫りを、なぞりましたの。
祖父は、ここに、来ておりましたのね。
私と、同じ扉を、叩いて。
「あの方は、その後、いらっしゃいませんでした」
書記官長の声は、淡々としておりましたわ。
「わたくしは、記録の側の人間でございます。誰が善で、誰が悪かは、存じません。ただ、来た方の名と、日付は、控えてございます。……それが、この部屋の、仕事ですので」
やがて、台車が、二台。
運ばれてまいりましたの。
積まれていたのは、綴じられた副署控えの束ですわ。使途の欄は、律儀に、墨で塗られておりましたの。
私たちは、その日、日が暮れるまで、頁を、繰りましたわ。
やることは、単純ですの。書記局の副署控えの連番を、一つずつ読み上げ、財務局の白い帳簿に、同じ番号があるかを、確かめる。それだけですわ。
フィーが、読み上げますの。
「三百七——あります。三百八——あります。三百九——……」
声が、止まりましたわ。
「あの、えっと……ロザリンド様」
「どうなさいましたの」
「三百九が。書記局には、あります。……財務局の帳簿に、ありません」
私は、フィーの隣に、腰を下ろしましたの。
「片方にしか、ないのですわね」
「はい。……それで、あの。そういうの、他にも、あります」
フィーは、頁を、めくりましたわ。指が、震えておりますの。けれど、数字を追うときの、あの子の目は、もう、震えておりませんでしたわ。
「……七十一件です。五年で、七十一件。王印璽の副署は、押されてます。でも、財務局の帳簿には、一件も、載ってません」
私、静かに、扇を、開きましたの。
連番というものは、正直ですわ。片方にだけ残った番号は、「そこに何かがあった」と、叫んでおりますの。書かないことでは、消せませんわ。
王が、副署なさった支出。
けれど、財務局の機密費簿には、存在しない支出。
つまり。
「機密費の帳簿は、二冊、ございますのね」
空白は、突き合わせられませんわ。
けれど、他人様の帳簿とは、突き合わせられますの。
私、大蔵卿の、白い帳簿を、思い出しましたわ。
あの方は、嘘を、お書きにならなかった。
……その代わりに、番号を、一つ、書き飛ばしてしまわれましたのね。
セドリック様の回でしたわ。「規定により」——嫌味な書類男として登場したあの方の口癖が、今回は、王宮の扉を開ける鍵になりましたの。剣でも王命でもなく、条文の読み方ひとつで、大蔵卿の通達を無力化する。監査官の戦い方ですわ。
そして、ヴィンター書記官長。敵でも味方でもなく、「記録の側」に立つ老人。……十二年前、同じ扉を叩いた人がいた、という一言が、そっと置かれましたわね。
王印璽は押されているのに、財務局の機密費簿には載っていない支出が、七十一件。空白は突き合わせられませんが、他人様の帳簿とは、突き合わせられますの。二冊目の機密費簿が、存在しますわ。
次話、その欠番の束の中に、ロザリンドは、自分の名前を、見つけますの。
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