第42話:王国の財布を、拝見いたしますわ
第6章、始まりますわ。今度の監査先は、王国でいちばん大きな、お財布ですの。
王室財務局の扉は、監査庁のそれより、三倍ほど、大きうございましたわ。
樫の一枚板に、王家の紋章。開けるのに、衛士が二人がかりですの。……お金の集まる場所ほど、扉が重い。これは、どこの国でも、同じですわね。
私は、王印璽の押された令状を、手に、その扉を、くぐりましたの。
「監査庁特別監査官、ロザリンド・ファルケンラートですわ。王命により、王室財務局の機密費に関する、特別会計検査に、参りましたの」
この局の敷居を跨ぐのは、二度目ですわ。二十六話で伺いましたときは、免税の認可を拝見しに参りましたの。あのときの令状では、開けられない棚が、一つだけ、ございましたわ。
今日の令状には、王の印璽が、押されておりますの。
名乗りながら、私、気づいておりましたわ。
誰も、慌てておりませんの。
書記たちは、静かに筆を走らせ、主計官たちは、頭を下げて、道を空ける。廊下には、埃ひとつ、ございませんわ。……聖アガタの大聖堂も静こうございましたけれど、あれは、隠す静けさでしたの。
ここのは、違いますわ。
これは、待っていた静けさですの。
奥の執務室で、その方は、お茶を、飲んでいらっしゃいましたわ。
「おいでなさいませ、監査官殿」
大蔵卿、マルバス侯爵。五十八歳。王国徴税の、元締め。
「二十話でお目にかかって以来ですな。あのときは、お茶も出していただけませんでしたが」
「あら。よく、覚えていらっしゃいますこと」
「数字を扱う者は、貸し借りを、忘れませんのでね」
マルバス様は、にこやかに、机を、示されましたわ。
積み上がっておりましたの。
帳簿が。
背表紙を揃えて、年度順に、几帳面に。埃も、折れも、ございませんわ。用意していらした、ということですの。
「機密費の、過去五年分でございます。どうぞ、心ゆくまで」
セドリック様が、私の背後で、小さく、息を呑まれましたわ。
「……ロザリンド様。これは」
「ええ」
私、扇を、開きましたの。
完璧すぎる帳簿は、香水をつけすぎた淑女——四話で、そう申し上げましたわね。隠したい匂いがあるときほど、人は、塗り重ねますの。
けれど、この帳簿は、香水すら、つけておりませんでしたわ。
開いてみて、私、初めて、その意味を、知りましたの。
——白いのですわ。
「支出、一件。金額、八千クローネ。……用途の欄が、空白ですわね」
「機密費ですので」
「こちらも。一万二千クローネ。空白」
「機密費ですので」
「五年分、すべて」
「機密費、ですので」
マルバス様は、同じ言葉を、三度、同じ調子で、繰り返されましたわ。腹も立てず、慌てもせず。
「監査官殿。国には、書けぬ支出がございます。密偵の給金、他国への根回し、王家の私事。それらを帳簿に書いてしまえば、国が滅びますでしょう。ゆえに、機密費には、使途の記載義務がございません。……法が、そう定めておるのですよ」
「存じておりますわ」
私、頷きましたの。
そして、背筋が、冷えるのを、感じましたわ。
これまでの方々は、皆、嘘をお書きになりましたの。ベルマン子爵は樽の数を、ドラクロワ伯爵は検査札を、オルロ猊下は寄進の額を。嘘を書いたから、私は、それを暴けましたわ。
この方は、何も、お書きにならない。
記載義務のない支出は、嘘を吐く必要すら、ございませんの。空白は、矛盾いたしませんわ。突き合わせる相手が、ないのですもの。
……なるほど。
これが、王国でいちばん大きなお財布の、守り方ですのね。
「監査官殿。老婆心ながら」
マルバス様が、茶碗を、置かれましたわ。
「監査とは、国家の健康診断のようなもの。健やかなうちは、結構。ですが、心の臓に刃を入れれば、患者は死にますな。……財務局は、王国の心の臓でございますよ」
「まあ。ご心配、痛み入りますわ」
私は、令状を、机に置きましたの。
「けれど、私、診断に参ったのではございませんの。決算に、参りましたわ。……失礼ながら、お名前を、いま一度。記録いたしますので」
「マルバス・フォン・シュタイン。侯爵。大蔵卿」
「ありがとうございます。私は、ロザリンド・ファルケンラート。ファルケンラート子爵家の、孫娘ですわ」
そのときですの。
マルバス様の、指が。
茶碗の縁で、ほんの一瞬、止まりましたわ。
一瞬ですの。まばたきほどの。……けれど私、八年、公爵家の帳簿をつけてまいりましたわ。人が、都合の悪い数字の前で、筆を止める間合いは、存じておりますの。
「オーギュスト殿の」
その名を、この方は、ご存じでしたわ。
私が、申し上げる前から。
「懐かしい名ですな」
マルバス様は、目を細めて、微笑まれましたの。慇懃に。優しくすら、見えるほどに。
「あの男も、雨の日に、同じことを申しましたよ。……『決算に参りました』と」
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【監査手帖】
・機密費は嘘を吐かない。書かないから
・大蔵卿は祖父を知っている。「雨の日」
・十二年前、祖父が死んだ夜も——雨
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私は、そのとき、扇を握る指に、力が入るのを、止められませんでしたわ。
雨の日。
馬車の、事故。
「……失礼。年寄りの、繰り言でございます」
マルバス様は、次の茶を、召し上がりましたの。
私は、深く、息を、吸いましたわ。
わざと、ですわね。
私を、揺らすために。感情で監査をさせるために。
……ええ。承知いたしましたわ。
「では、拝見させていただきますわね」
私は、白い帳簿の、一冊目を、開きましたの。
王国でいちばん大きな、お財布を。
第6章「大蔵卿監査」、開幕ですわ。相手は、これまでの敵と、根本的に違いますの。司教のように聖性で武装もせず、囁き屋のように影にも隠れず——法と権力の、ど真ん中に、堂々と座っております。
そして、いちばん厄介なのは「嘘を書かない」こと。記載義務のない支出は、突き合わせる相手がございませんの。ロザリンドの「帳簿の眼」は、嘘を見つける眼。書かれていないものは、見えませんわ。
そのうえ、マルバス侯爵は、祖父オーギュストを知っていた。「雨の日に、同じことを申しました」。……十二年前、祖父が亡くなった夜も、雨でしたわ。
次話、大蔵卿の反撃が始まりますの。剣でも毒でもございませんわ。もっと、恐ろしいもので。
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