第40話:口を割る前に、消される数字
証言の、朝ですわ。
私は、いつもより早く、監査庁へ、向かいましたの。ミレーヌの証言を、一言一句、記録するために。大蔵卿への、確かな一手にするために。
拘束房の前が、騒がしゅうございましたわ。
護衛が、慌ただしく、出入りしておりますの。
嫌な、予感がいたしましたわ。監査官の性で、ぴったり合わない光景を見ると、まず、疑いますの。この、慌ただしさは、証言を待つ朝の、慌ただしさでは、ございませんわ。
「監査官殿……」
護衛の一人が、青い顔で、私を、見ましたの。
私は、房に、入りましたわ。
ミレーヌは、寝台に、横たわっておりましたの。
眠っているように、静かに。砂糖菓子の仮面を、脱いだ、素顔で。
けれど、その頬は、もう、温かくは、ございませんでしたわ。
卓の上に、飲みかけの、お茶が、一つ。昨夜、差し入れられたものだそうですわ。誰が、差し入れたのか、記録は——ございませんでしたの。まるで、初めから、なかったように。
医師は、心の臓の、発作だと、申しましたわ。持病の、ある人だった、と。
……そういう、ことに、なりましたの。
私は、しばらく、その場に、立ち尽くしておりましたわ。
昨夜の、あの笑み。
「明日、ね」。
あの人は、わかっていたのですわ。
自分が、盤から、下げられることを。だから、あんなに、寂しそうに、笑ったのですわ。
私、庇護を、約束いたしましたのに。
記録に残せば、誰も、勝手には下げられない、と。……数字は、消せない、と。
間に合いませんでしたわ。
台帳は、私の記録より、一晩、早かったのですの。
「……フィー。セドリック様」
駆けつけた二人に、私は、静かに、申しましたわ。
「口を割る前に、消されましたわ。証言の、前夜に。……持病の、発作、ということに」
フィーが、口を、押さえましたの。セドリックは、拳を、握りしめて、俯きましたわ。
これが、灰色台帳の、やり方ですわ。
金を貸し、人を配置し、要らなくなれば——切り捨てる。
人を、数字で、扱う帳簿は。人を、数字を、消すように、消しますの。
そして、私は、気づいてしまいましたわ。
この、静かすぎる消し方に。
持病の、発作。誰も、疑わない、自然な死。記録は、初めから、なかったように。
……どこかで、聞いたことが、ございますわ。
十二年前。雨の夜。馬車の、事故。誰も、疑わない、不運な死。
お祖父様の、死と。
同じ、匂いが、いたしますの。
台帳は、口を割りそうな者を、切り捨てる。
祖父も、灰色に、触れてしまったから——
いいえ。
私、拳を、握りしめましたわ。憶測は、監査ではございませんの。数字が、足りませんわ。今は、まだ。
けれど、この、冷たい房の中で、私、一つだけ、確かなことを、悟りましたの。
私が戦っている相手は。
貴族の脱税でも、司教の横領でも、囁き屋の偽造でも、ございませんでしたわ。
人を、平気で、消す、仕組みですの。
顔のない、数字の、仕組み。
……いいえ。違いますわ。
「セドリック様。人を消すのは、仕組みでは、ございませんの」
私は、顔を、上げましたわ。
「仕組みには、手が、ございませんもの。お茶を差し入れた手が、必ず、どこかに、ございますわ。その手を動かした、頭が。……顔の、ない、敵など、おりませんの。顔を、隠しているだけですわ」
私は、ミレーヌの、冷たくなった手を、そっと、握りましたの。
宿敵でしたわ。私の八年を、奪った人。
けれど、最後は、盤から下げられるのを、怯えていた、一人の、駒でしたの。
「ミレーヌ。……あなたの声は、間に合いませんでしたわ。私の、力不足ですの。ごめんなさいね」
私は、そっと、頭を、下げましたわ。
「でも、あなたが、盤の上で、書き残した数字は。……私が、必ず、読みますわ。あなたを消した手の、名前まで。きっと、たどり着いてみせますの」
……つらい回を、書きました。ミレーヌは、証言の前夜に、消されましたわ。持病の発作、ということに。宿敵でありながら、最後は盤から下げられるのを怯えていた、一人の駒。ロザリンドの庇護は、一晩、間に合いませんでしたの。
そして、この静かすぎる消し方が、祖父オーギュストの「馬車の事故」と、同じ匂いだと、ロザリンドは悟ります。……ただし、まだ数字は足りません。憶測は監査ではない、と自らを律しながら。
「顔のない敵など、おりませんの。顔を、隠しているだけですわ」——ロザリンドの、静かな怒りの宣言ですわ。
次話、第5章・完。糸の先に立つ、大蔵卿マルバス侯爵の姿が、いよいよ。
ブックマークと評価が、この監査官の、何よりの支えですの。どうぞよろしくお願いいたしますわ。




