第35話:奥様、お気づきになるの、遅すぎますわ
ミレーヌの足取りは、意外なほど、たやすく辿れましたわ。
いいえ。辿れた、のではございませんの。
辿らせて、くださった、のですわ。
王都の外れ、瀟洒な貸家の一室。私が扉を叩くと、中から、あの、甘い声がいたしましたの。
「どうぞ、お入りなさいませ。奥様。……ずいぶん、遅かったこと」
ミレーヌは、窓辺で、お茶を飲んでおりましたわ。八年前と、少しも変わらぬ、砂糖菓子のような笑顔で。まるで、私が来るのを、ずっと、待っていたかのように。
「もう、奥様では、ございませんのよ。離縁いたしましたもの。あなたの、おかげで」
「あら。お礼を、言ってくださいますの?」
ミレーヌは、くすりと、笑いましたわ。
「わたくし、いい仕事を、いたしましたでしょう? あなたと、クレメンス様の、ご結婚。そして、ご離縁。……どちらも、それはもう、丁寧に、お膳立ていたしましたのよ」
私、扇の陰で、指先を、握りしめましたわ。
結婚も、離縁も、お膳立て。
この人は、認めましたわ。あっさりと。誇らしげに、すら。
「……最初から、そうでしたの。私を、クレメンスに嫁がせたのも」
「ええ。わたくしの、お役目でしたわ」
ミレーヌは、お茶を、一口。
「わたくしは、配置される人。灰色の帳面に、名を書かれて、必要な場所に、置かれますの。八年前、わたくしは、グランツベルク公爵家に、配置されました。……あなたを、あの家に、迎え入れて。八年、飼って。そして、要らなくなったら、離縁で、追い出す。それが、任務でしたのよ」
飼って。
私の、八年間を。
「なぜ」
私は、尋ねましたわ。監査官の、いちばん大切な問いを。
「なぜ、私だったの。ファルケンラート家には、借金もございませんでしたわ。あなた方の、灰色の債務も、負ってはおりませんの。……なのに、なぜ、私を、わざわざ、盤の上に」
ミレーヌの笑顔が、ほんの少し、深くなりましたわ。
「あら。そこまで、お気づきになりましたのね。……でも、奥様。お気づきになるの、遅すぎますわ」
彼女は、立ち上がり、私の耳元に、囁きましたの。砂糖菓子の、甘い声で。
「わたくしは、置かれた駒ですのよ。駒は、盤を動かす手の、名前を、知りませんの。……知っていたら、とっくに、切り捨てられておりますわ。駒が長生きする秘訣は、知らないふりですのよ。奥様も、そろそろ、覚えたほうが、よろしくてよ」
この人は、本当に、知らないのかもしれませんわ。あるいは、知っていて、身を守っているのかも。どちらにせよ、この場で、口を割る人では、ございませんの。逃げ足の速さは、囁き屋の、いちばんの武器ですわ。
「一つだけ、餞に、教えて差し上げますわ」
ミレーヌは、扉へ向かう私の背に、囁きましたの。
「あなたの結婚を、『買った』お金が、どこから出たか。……大蔵卿の、お庭を、覗いてごらんなさいな。きれいな薔薇が、咲いておりますわよ。根元に、何が埋まっているかは——ご自分で、お確かめになって」
振り向いたとき。
窓辺の椅子は、もう、空でしたわ。
お茶だけが、まだ、温かく、湯気を立てておりましたの。
……囁いて、消える。
本当に、囁き屋、ですこと。
けれど、ミレーヌ。
あなたは、一つ、忘れておいでですわ。
囁きは、声。声は、消えますわ。
けれど——数字は、消えませんの。
あなたが「配置された」なら、必ず、あなたに「配置料」が、支払われておりますわ。お金は、動けば、必ず、跡を残しますの。甘い声は追えなくとも、甘い声に払われた、お金は、追えますのよ。
「大蔵卿の、お庭ですわね」
私は、扇を、閉じましたわ。
「ええ。拝見させていただきますわ。……薔薇の根元まで、きれいに、掘り返して」
ミレーヌ、再登場ですわ。「奥様、お気づきになるの、遅すぎますわ」——見せ場の一言、いただきましたの。結婚も離縁も任務だった、と誇らしげに認める彼女。けれど「駒は、盤を動かす手の名を知らない」と、自分の身を守ってもおりますわ。
そして撒かれた、大蔵卿の名。ミレーヌは声のように消えましたけれど、ロザリンドが追うのは、声ではなく、お金。「囁きは消えても、囁きに払われたお金は追える」——監査官らしい、返し技ですわね。
次話、意外な人物が、自分の秘密を明かしますの。「わたしの家も、灰色でした」。
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