第34話:置き手紙の、続きを読みますわ
監査官になって、私は、たくさんの帳簿を、拝見してまいりましたわ。
北の塩。南の港。元・我が家。聖なる大聖堂。他人の帳簿の、嘘を、いくつも暴いてまいりましたの。
けれど、今日、卓の上に広げたのは。
——私の、婚姻契約書ですわ。
「ロザリンド様。本当に、いいんですか。これ……ロザリンド様の、結婚の書類ですよ」
フィーが、心配そうに、覗き込みましたわ。
「ええ。ミレーヌを追うには、この帳簿から始めるのが、筋ですの」
消えた囁き屋、ミレーヌ。二十三話で、置き手紙を残して消えた、あの人。『次の配置へ』と。グリム様は、おっしゃいましたわ。囁き屋という「配置された手」を辿れば、頭に届く、と。
ならば、ミレーヌが、いちばん長く「配置」されていた場所から、辿るのが道理ですわ。
それが——私の、結婚生活ですの。
私は、監査官の目で、自分の婚姻契約書を、読みましたわ。八年前、十九の私が、何も知らずに署名した、一枚の紙を。
妙ですわ。
あのときは、ただの、めでたい書類でしたのに。今、監査官の目で見ると、あちこちが、香水の匂いがいたしますの。隠したい匂いが、ございますのよ。
「セドリック様。この、婚姻契約の、持参金の保証人欄」
「はい。……これは」
セドリックの顔が、こわばりましたわ。
「東方交易組合。……また、これですか」
東方交易組合。
三十一年前に印章登録された、架空の組合。元夫の裏帳簿にも、機密費口座にも、顔を出した、あの灰色の道具ですわ。
私の結婚の、持参金の保証人が。
架空の、組合。
「私の縁談は」
私は、静かに、申しましたわ。声が、震えないように、努めて。
「灰色台帳の、一項目、でしたのね」
めでたい書類だと思っていたものが、帳簿の、一行だった。
私は、恋をして嫁いだつもりでしたわ。……いいえ、恋ですらなかったかもしれませんけれど。少なくとも、自分の意思で、結婚したつもりでしたの。
それが、誰かの、盤の上の、一手だった。
私、監査官ですのに。数字の裏を読むのが、仕事ですのに。
自分の人生の帳簿だけは、八年間、一度も、監査しておりませんでしたわ。
……いちばん、うかつな、依頼人ですこと。
「ロザリンド様」
フィーが、そっと、私の袖を、掴みましたわ。
私、大丈夫ですのよ、と、微笑みましたわ。取り乱したりは、いたしませんの。取り乱すのは、私の流儀では、ございませんわ。弱さは、インク壺を握る指先に、預けておきますの。
その晩、殿下に、ご報告いたしましたわ。
「私の結婚そのものが、囁き屋の任務だった可能性が、高うございますわ。ミレーヌを追う手掛かりも、そこから」
殿下は、しばらく、黙っておられましたの。それから、静かに。
「……つらい監査だな」
「監査に、つらいも、楽しいも、ございませんわ。数字は、数字ですもの」
そう申しながら、私、ふと、妙なことを、考えましたの。
もし、私の結婚が、盤の上の一手だったのなら。
……では、今、こうして。この方の前に、立っている、この私は。
これも、誰かの、盤の上の、一手なのかしら。
殿下が、私をスカウトなさったことも。
私が、監査官になったことも。
全部、誰かの、書いた、帳簿の通りに——
「ロザリンド」
殿下の声で、私、我に返りましたわ。
「今、妙なことを、考えたな」
「……いいえ。何も」
「顔に出ている。君は、数字を疑うときと、同じ顔をする」
この方、時々、私の心の帳簿まで、読んでしまわれますの。数字は読めないくせに。ずるうございますわ。
「……なんでもございませんわ。さ、ミレーヌを、追いましょう。置き手紙の、続きを、読みませんとね」
私は、扇を、開きましたわ。心の揺れを、その陰に、隠すように。
「囁き屋は、囁く相手のいる場所にしか、いられませんの。……次に、あの人が、誰の耳元に立っているか。拝見させていただきますわ」
第5章、開幕ですわ。ついに、ロザリンドが「自分の帳簿」を監査し始めましたの。他人の嘘は八年間暴いてきたのに、自分の結婚だけは、一度も監査していなかった——いちばんうかつな依頼人、というロザリンドの自嘲が、少し、切のうございますわね。
そして、心に忍び込む一つの疑い。「殿下との今も、誰かの盤の上では」。……数字は疑えても、自分の感情の収支だけは、この人、いつも計算が合いませんの。
次話、いよいよ、消えた囁き屋ミレーヌと、再会いたしますわ。「奥様、お気づきになるの、遅すぎますわ」——。
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