第33話:先代総裁は、灰色を知る前から
ヴァルター・グリム様のお住まいは、王都のはずれ、林檎の木に囲まれた、小さな家でしたわ。
伝説の監査官、監査制度の父——そう伺っておりましたので、もっと厳めしい御方を想像しておりましたの。けれど、迎えてくださったのは、白い髭の、穏やかな老人でしたわ。膝に、猫を抱いて。
「おや、おや。レオンハルト殿下の使いの、お嬢さんかね。……いや、使いではないな。その目は」
グリム様は、私を見て、ふ、と、目を細めましたわ。
「監査官の、目だ。数字の裏側を見ようとする、あの目でね。……久しぶりに見たよ。オーギュストと、同じ目だ」
——お祖父様と、同じ。
「祖父を、ご存じですのね」
「知っているとも。オーギュスト・ファルケンラートは、私の、いちばん古い友だった。若い頃、二人で、この国の徴税を、一から数え直したものだよ。……あれの孫娘が、監査官とはね。血は、争えん」
グリム様は、私を、炉端に招いてくださいましたわ。温かい、林檎のお茶を出して。この御方の暖炉には、ちゃんと、薪がくべられておりましたの。
私、単刀直入に、伺いましたわ。回り道は、性に合いませんの。
「グリム様。財務局の、古い免税認可の記録を、辿りたいのですわ。ある不正な認可が、証明もなく、通されておりました。その認可の、決裁ラインを遡りたいのですけれど、今の財務局は、口を噤んでしまって」
「ふむ。免税認可の、決裁な」
グリム様は、猫の背を、ゆっくりと撫でながら、おっしゃいましたわ。
「認可というのはね、お嬢さん。判が、いくつも、連なって成るものだ。窓口の係が受け、課の長が検め、局の長が認める。だが——その、いちばん最後に、責を負わずに判を押せる場所が、一つだけある。財務局の、機密費に関わる決裁だよ」
「機密費」
「うむ。機密費の決裁は、記録の閲覧が、大蔵卿の許可を要する。つまり、大蔵卿だけが、その最後の判を、誰にも見られずに押せる。……お嬢さんの追っている、証明なき認可。それが機密費の決裁を通っているなら、辿り着く先は、一つだ」
大蔵卿。マルバス侯爵。
二十話で、監査中止の圧力をかけに、監査庁へ乗り込んでこられた、あの御方。
やはり、そこへ、繋がりますのね。
「マルバス侯爵の、機密費決裁を、開けばよろしいのですわね」
「そうだ。……だが、気をつけなさい、お嬢さん」
グリム様は、少しだけ、声を、落とされましたわ。
「大蔵卿は、賢い。あれは、自分の手を、決して汚さん。汚れ仕事には、必ず、別の手を使う。人を配置し、囁かせ、いざとなれば、その手ごと、切り捨てる。……あれを追うなら、まず、あれが『配置した手』を、探すことだ。手を辿れば、頭に届く」
配置した、手。
——ミレーヌ。
元夫の傍らに配置され、私の結婚と離縁を、囁いた、あの人。二十三話で、置き手紙を残して、消えた、囁き屋。
私の胸の内で、点と点が、繋がりましたわ。
助かりましたわ。この御方は、迷路の、いちばんよい近道を、教えてくださいますの。祖父の盟友というのは、本当のようですわ。
「ありがとうございます、グリム様。おかげで、道が、見えましたわ。……あとは、灰色の帳元さえ、辿れれば」
そう申しかけた、そのときですわ。
「灰色は、厄介だよ」
グリム様が、静かに、おっしゃいましたの。
……あら。
私、まだ、灰色の帳面のことを、この御方に、何も、申し上げておりませんでしたわ。灰色の封筒のことも、灰色の通い帳のことも。「灰色の帳元」という言葉すら、口にしておりませんでしたの。
なのに、この御方は。
「灰色は、な、お嬢さん。三十年、いや、それ以上、この国に、根を張っている。オーギュストも、最後は、それに、触れてしまった。……だから、ああなった」
「グリム様」
私は、努めて、穏やかに、伺いましたわ。監査官の性を、微笑みの下に、隠して。
「祖父は、馬車の、事故で、亡くなりましたの。……『ああなった』とは、どういう」
グリム様は、ほんの一瞬、口を、噤まれましたわ。
それから、林檎のお茶を、一口。優しい、老人の顔で。
「……老いた者の、繰り言だよ。友の死は、いつだって、事故には思えんものでね。歳を取ると、そう感じるのさ」
そう言って、猫の背を、また、ゆっくりと、撫でられましたわ。
私、それ以上は、伺いませんでしたの。
いいえ、伺えなかった、というのが、正しゅうございますわ。
この御方は、灰色を、私が話す前から、知っていらした。
祖父の死を、事故だと、思っていらっしゃらない。
それだけなら、祖父の古い友の、当然の勘、かもしれませんわ。……ええ、きっと、そうですの。
ただ、監査官の性が、ざわめきますのよ。
ぴったり合いすぎる数字を、見たときと、同じように。
帰り道、私は、殿下に、ご報告いたしましたわ。次の監査先は、大蔵卿マルバス侯爵の、機密費決裁。そして、そこへ届くための、最初の一手は——消えた囁き屋、ミレーヌを、見つけ出すこと。
「ミレーヌを、探しますわ」
私は、扇を、開きましたの。
「あの人は、二十三話で、置き手紙を残して、消えましたわ。『次の配置』へ、と。……ならば、必ず、次の盤の、どこかに、いらっしゃるはずですの。囁き屋は、囁く相手のいる場所にしか、いられませんもの」
林檎の木の家を、振り返りましたわ。
窓辺で、グリム様が、猫を抱いて、こちらを見送っておられましたの。優しい、笑顔で。
優しい、笑顔で。
——第4章・完——
第4章「聖なる免税」、これにて締めですわ。フィーの古巣を救い、聖なる壁を破り、そして——祖父の盟友、ヴァルター・グリムに出会いましたの。
優しい御方でしたわ。道を教えてくださり、近道を示してくださった。……ただ、一つだけ。ロザリンドが話す前から、「灰色」を、知っていらした。祖父の死を、事故だとは、思っていらっしゃらなかった。
それが何を意味するのかは、まだ、誰にも——ロザリンド自身にも、わかりませんの。監査官の性が、ざわめいただけですわ。
次の第5章は、「囁き屋」。消えたミレーヌを追ううちに、ロザリンドは、自分の結婚そのものの、真相へ触れてまいりますわ。二十三話の置き手紙の続きが、いよいよ動きますの。
第2部、ますます面白くなってまいりますわよ。ブックマークと評価、続きの何よりの軍資金ですの。どうぞよろしくお願いいたしますわ。




