第30話:計算では、合いません。ぜったい、合いませんわ
合同審理の日ですわ。
大聖堂の一室に、教会法廷の長机と、王国監査の席が、向かい合わせに置かれましたの。壇上には、教会側の陪席司祭が三人。傍聴には、寄進者名簿に名を連ねる貴族が、何人も。皆、自分の名が読み上げられぬかと、青い顔をしておりましたわ。
オルロ司教は、悠然と、中央に座しておられましたの。その傍らに、顧問弁護士のギース法務官。
「では、始めましょうか」
ギース法務官は、分厚い帳簿を、恭しく開きましたわ。
「監査官殿は、聖アガタへの寄進が孤児院に充当されていない、とお疑いのようですが。とんでもない誤解です。ご覧なさい。これが、聖アガタ孤児院の、正式な会計。寄進は、すべて、適正に、子供たちのために用いられております」
なめらかな帳簿ですわ。数字が、綺麗に並んでおりますの。
完璧すぎる帳簿は、香水をつけすぎた淑女——このお話の、はじまりの教訓ですわね。
「たとえば、給食費。孤児院の子供たちのパンのために、年、三千クローネを計上。四十二人の子供に、一人あたり、年、七十一クローネ余。……十分すぎる、慈愛でございましょう」
傍聴の貴族たちが、ほう、と息をつきましたわ。数字で言われると、人は、信じてしまいますの。三千クローネ、四十二人。もっともらしゅうございますわ。
ギース法務官は、勝ち誇って、フィーを見ましたの。
「そちらの、元・出納係殿。何か、ご異議でも? もっとも、平民の子供の記憶では、この精緻な帳簿に、異議の唱えようもございますまいが」
フィーが、立ち上がりましたわ。
膝が、少し、震えておりましたの。この子は、貴族の前で挨拶を噛む子ですわ。大勢の貴族に見られて、平民だと侮られて、いちばん怖い場所に、立っておりますの。
でも。
この子は、数字のときだけ、別人になりますのよ。
「い、異議、あります」
噛みましたわ。可愛らしいこと。
けれど、次の瞬間には。
「給食費、年三千クローネ。四十二人で、割ります。一人あたり、七十一クローネと、端数四十二。ここまでは、合っています」
フィーの声から、震えが、消えましたわ。
「でも、パンの値段で、割り直します。王都のパンは、一斤、一クローネ。子供一人が一日一斤食べたら、年で、三百六十五クローネ要ります。七十一クローネでは——一年の、五分の一しか、食べられません。つまり帳簿通りなら、この子たちは、五日に一日しか、パンを食べていない計算です」
法廷が、ざわめきましたわ。
「でも、実際に配られたのは、一日、半斤でした。年で、一人、百八十二クローネ分。……あれ? 帳簿の七十一クローネより、多いんです。おかしいですよね。実際に配ったパンのほうが、計上された給食費より、多いんです」
フィーの指が、宙で、数字をなぞりますの。速く、迷いなく。
「これ、答えは一つです。帳簿の三千クローネは、パンには、使われていません。パンは別のお金——院長先生が、こっそり六百クローネの中からやりくりした、そのお金で買われました。じゃあ、三千クローネは、どこへ行ったんですか。ギース法務官様。あなたの帳簿の、給食費三千クローネは、どのパン屋に、支払われたんですか。領収書は、ありますか」
ギース法務官の口が、開いて、閉じましたわ。
「そ、それは……仕入れの、まとめ払いで……」
「まとめ払いなら、まとめた記録があります。パン屋の名前と、日付と、金額が。見せてください。ないなら、三千クローネは、パンに、なっていません。……計算では、合いません」
フィーは、まっすぐに、ギース法務官を見ましたわ。もう、震えておりませんの。
「ぜったい、合いませんわ」
——移りましたわね。私の口癖が。
ふふ。可愛い弟子ですこと。
法廷が、静まり返りましたわ。
平民の、元・出納係の子供が。暗算ひとつで、精緻な帳簿の、いちばん柔らかいところを、貫きましたの。数字は、身分を問いませんわ。合うか、合わないか。それだけですもの。
ギース法務官は、額に汗を浮かべて、司教を見ましたわ。
オルロ司教は。
——微笑んで、おられましたの。
まだ、微笑んで。
そして、静かに、立ち上がられましたわ。
「見事な暗算です。……ですが、監査官殿。数字は、あなた方のものかもしれない。しかし、この帳簿には、もう一つ、数えられていないものがある」
司教は、壁の石板を——寄進者の名を、指し示しましたの。
「ここに名を刻んだ、王国貴族の、半数。彼らは皆、聖アガタへの寄進で、税を軽くしてきた。もし、この免税が不正だと裁かれれば——この者たち全員が、脱税者となる。ラング侯爵も、ゼーバルト伯爵も。……陛下は、王国貴族の半分を、一度に、脱税者となさるおつもりか?」
傍聴の貴族たちが、ざわりと、怯えましたわ。
「監査官殿。あなたは、大きすぎるものを、釣り上げてしまった。この魚は、網ごと、あなたを、海へ引きずり込みますぞ」
名簿という、最後の人質。
王国の半分を道連れにする、という、聖なる脅しですわ。
私は、扇を、開きましたの。
「まあ。ずいぶんと、大きなお魚ですこと」
私、微笑みましたわ。丁寧に。
「では——明日、その大きなお魚の、捌き方を、お目にかけますわね。ご安心なさって、猊下。私、お魚は、骨まで、綺麗にいただく質ですの」
フィーの、暗算無双ですわ! 貴族に侮られ、平民だと証言を封じられた子が、数字ひとつで、聖なる壁のいちばん柔らかいところを貫きましたの。「計算では、合いません。ぜったい、合いませんわ」——ロザリンドの口癖、しっかり弟子に受け継がれておりますわね。
けれど、司教の最後の盾は、まだ折れておりませんの。寄進者名簿という人質。王国貴族の半分を道連れにする、という脅し。この大きすぎる魚を、ロザリンドは、どう捌くのでしょう。
次話、いよいよ——決算を、申し上げますわ。
ブックマークと評価、フィーへの喝采、どうぞよろしくお願いいたしますわ。




