第3話:特別監査官、着任いたしますわ
王宮の西翼、三階の端。
王宮監査庁は、思っていたより、ずっと小さな役所でしたわ。
大部屋が一つ。書架が壁三面。机が八つ。
そして、八つの机の主のうち、私に挨拶を返してくださったのは、二人だけでしたの。
「本日付で着任いたしました、ロザリンド・ファルケンラートですわ。よろしくお願いいたします」
しん、といたしました。
羽根ペンの音だけが、かりかりと続いております。
一番奥の机から、銀縁眼鏡の男性が立ち上がりました。仕立てのよい紺の文官服。歳は私と同じくらいかしら。
「セドリック・モローです。モロー伯爵家三男、王立法学院首席、当庁の主任監査官を務めています」
経歴の読み上げ、ありがとう存じますわ。
「率直に申し上げる。私は今回の人事に反対しました」
「あら。理由を伺っても?」
「監査は法の仕事です。条文と判例と手続き。……離縁された夫人の、家計簿の腕前で務まるものではない」
大部屋の何人かが、くすりと笑いましたわ。
なるほど。この職場の貸借対照表、把握いたしました。資産の部に法学の誇り、負債の部に現場の成果ゼロ、ですわね。
「ご忠告、痛み入りますわ。では一つだけ」
私は、セドリック様の机の上の書類に、目を落としました。
「そちらの審査書類。三枚目の運上金の合計、十の位が繰り上がっておりませんわ。……家計簿の腕前ですけれど」
眼鏡の奥の目が、書類に落ち、見開かれ、私に戻ってまいりました。
お返事はございませんでした。ええ、結構ですのよ。数字がお返事してくれましたから。
「あ、あのっ!」
そのとき、入口脇の一番小さな机から、栗色のお下げの女の子が、勢いよく立ち上がりました。勢いがよすぎて、インク瓶が倒れかけて、彼女は両手でそれを抱きとめて、それから真っ赤になりましたの。
「ふ、フィーです! 計算係です! えっと、その、ようこそ、です!」
「ありがとう。あなたが、挨拶を返してくださった二人目ですわ」
「い、一人目はどなたですか」
「殿下ですわ。『来たか』と」
「それ、挨拶ですか……?」
フィーは、十七だそうですわ。平民出身、王都の孤児院の出。教会の出納係をしていたところを、計算の速さを買われて庁に拾われたとか。
「フィー。五千三百二十六クローネの年三分複利、四年で?」
「五千九百九十四クローネと、端数が四十六です」
瞬きの間でしたわ。
……まあ。この子、私より速くてよ。
昼過ぎ、殿下の執務室に呼ばれました。
「初仕事だ」
机の上に、ぽん、と置かれたのは、分厚い帳簿の束。
「ベルマン子爵領。北部の塩の産地だ。塩税の納付額が、ここ数年、妙に安定している。安定しすぎている、と兄上が仰った。……だが、提出された帳簿は、これだ」
私は、一冊目を開きました。
塩竈ごとの生産記録。荷出しの記録。税の計算。納付の控え。
頁をめくる。めくる。めくる。
「……完璧、ですわね」
「ああ。法務官あがりの監査官が二度入った。『一切の不備なし』。それで終わりだ」
「殿下。一つ、申し上げてよろしくて?」
「言え」
「完璧すぎる帳簿ほど、怪しいものはございませんのよ」
帳簿というものは、生き物ですの。
現実の商いには、雨の日も、樽の壊れる日も、職人の喧嘩する日もございます。正直な帳簿には、必ず、訂正の跡や、端数の乱れという「生活の皺」が残りますわ。
この帳簿には、皺一つ、ございませんの。
まるで、誰かが「検査される前提で」清書したかのように。
「現地に参りますわ。帳簿は机の上では嘘を吐き通せますけれど、現場では、必ず尻尾を出しますの」
「許可する。護衛と——」
「それから、二名お借りいたします。計算係のフィー。それと」
私は、にっこりいたしました。
「セドリック・モロー主任監査官を」
「……あの男は君に反対した側だぞ」
「ええ。ですから、ですわ。現場をご覧になったことのない法の専門家ほど、現場で価値の出る方はおりませんのよ。条文は、私、専門外ですもの」
殿下は、ふ、と息だけで笑いました。
「魔女というより、人買いだな」
「人買いは買い叩きますわ。私は適正価格で評価するだけですの」
退出間際、殿下が言いました。
「ファルケンラート監査官。……現場では、嫌われるぞ。徴税の検めは、戦場より恨みを買う」
私は、振り返って、一礼いたしました。
「殿下。私、八年間、評価されない場所で働いておりましたの」
「……それで?」
「嫌われるのは、平気ですわ。『いない者』として扱われるより、ずっと上等ですもの」
監査チーム、結成ですわ。嫌々の法学エリートと、元気な計算係と、魔女。
次話、北の塩の町へ。完璧な帳簿の「皺」を探しに参りますわよ。
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