第2話:帳簿の魔女と、帳簿の読めない王弟殿下
王都の下町、「雌鹿亭」の二階。
私は三日間、机に向かっておりました。
泣いていたわけでは、ございませんのよ。
決算しておりましたの。——私自身の。
羊皮紙の左側に、資産の部。手元の現金、製塩所と工房の権利書、商会三社との契約。回収手続きは弁護士に委任済み。
右側に、負債の部。……二十七歳。離縁歴一件。子なし。社交界での評判は、今ごろ「冷血な金食い魔女」で確定しておりますでしょうね。
問題は、その下ですわ。
『ロザリンド・ファルケンラート。市場価値、算定不能』。
貴族の夫人が働ける場所など、この国にはほとんどございません。家庭教師、修道院の経理係……どれも、私の腕には、帳簿が三冊ほど足りませんの。
私の腕は、八年間、公爵領一つを回しておりましたのよ。
それを誰も知らないという事実だけが、唯一、勘定の合わない損失でしたわ。
扉が、叩かれました。
「ファルケンラート殿。客だ」
宿の主人にしては、声が低すぎます。
扉を開けて、私は思わず半歩、退がりました。
戸口を、塞いでおりましたの。肩幅が。
焦げ茶の外套を着た大男——けれど、外套の下の襟元に、王家の紋章が見えましたわ。短く刈った黒髪に、頬の古い刀傷。
この顔は、夜会の遠目に、二度ほど。
「……レオンハルト王弟殿下、とお見受けいたしますわ」
「ああ」
殿下は、それだけ言って、部屋の唯一の椅子を見、私を見、結局立ったままでいることになさいました。律儀な方ですのね。
「単刀直入に言う。君の精算書を見た」
「……精算書?」
「グランツベルク公爵家に出したものだ。公爵が泣きついた先の法務官が、俺の部下でな。回ってきた」
殿下は、外套の内側から、見覚えのある写しを取り出しました。
「あれは芸術だ」
「…………はい?」
「八年分の貸借が、一枚に収まっている。どの数字にも証書が付いている。反論の余地が、どこにもない。法務官が三人がかりで粗を探して、ひとつも見つからなかった」
妙な方ですわ。
私、人生で初めて、帳簿を褒められましたの。それも「芸術」と。
「率直に言う。俺は帳簿が読めん」
殿下は、恥じる様子もなく、おっしゃいました。
「読めんが、兄上——陛下から、王宮監査庁を預かっている。貴族どもの税を検める役所だ。発足して二年、成果はほぼ無い。連中は法には強いが、現場の嘘を見抜く眼が無い」
「それで、わたくしに?」
「王宮監査庁に来い。特別監査官として。……君に裁いてほしい貴族が、山ほどいる」
即答は、いたしませんでしたわ。
代わりに、一つだけ、確かめましたの。
「殿下。離縁されたばかりの女を雇えば、庁の評判に傷がつきますわ。『金で家を割った魔女』と、もう呼ばれておりましてよ」
「魔女で結構」
殿下は、眉一つ動かしませんでした。
「脱税貴族どもには、魔女より怖いものが必要だ」
……ふふ。
ふふふ。困りましたわ。この方、口説き文句だけは、芸術ですのね。
私は、机の上のインク壺に、目を落としました。
祖父——オーギュスト・ファルケンラート。王国に徴税請負人として仕えた、「帳簿の家」の当主。私に数字のすべてを教えてくれた人。
十二年前、王都へ向かう街道で、馬車の事故で亡くなりましたわ。雨の夜でしたの。
祖父の口癖を、今でも、覚えております。
——数字は嘘を吐かない。嘘を吐くのは、数字を書く手だ。
——だからロザリンド、お前は、手を見る人間におなり。
「……一つ、伺ってもよろしくて?」
「言え」
「なぜ、わたくしですの。法務官なら、精算書の出来栄えだけで人は雇いませんわ。あなたは、わたくしの何を、ご覧になりましたの」
殿下は、ほんの一瞬——本当に一瞬だけ、答えに詰まりましたの。
「……精算書を見た、と言ったはずだ」
「ええ。伺いましたわ」
見た、ですって。
あの言い方。まるで、ずっと前から探していたものを、やっと「見つけた」ときのような。
……まあ、よろしいですわ。回収は、いずれ。
「お受けいたします」
私は、立ち上がって、一礼いたしました。
「ただし、条件が一つ。監査の現場には、わたくしの流儀で入らせていただきます。帳簿は、机の上ではなく、現場で嘘を吐きますの」
「構わん。明日、辰の刻に監査庁へ。……ファルケンラート監査官」
殿下は、戸口で一度だけ振り返りました。
「言い忘れた。給金は前職より出る」
「あら。前職は無給でしたのよ」
「……公爵領の経理が、八年、無給?」
「ええ。『夫婦だから』だそうですわ」
殿下は、何かをこらえるような顔をなさって、それから、低く一言。
「……取り立てたな、さっき」
「ええ。利息付きで」
その夜、私は新しい羊皮紙に、こう書き加えましたの。
『資産の部、追記。——再就職先、一件。雇い主の眼力、評価額未定』
帳簿の読めない上司と、帳簿しか読んでこなかった部下。意外と、釣り合いが取れておりますでしょう?
次話、監査庁に着任。……ようこそ、と言ってくれない同僚と、ようこそすぎる新人がお出迎えですわ。
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