第28話:聖なる免税は、神様の署名がございませんわね
オルロ・ヴァレンス司教は、絵に描いたような聖職者でしたわ。
白髪を短く整え、深紅の司教服を纏い、胸には黄金の聖印。声は低く、穏やかで、祝福を垂れるように、私を迎えましたの。
「ようこそ、聖アガタ大聖堂へ。監査官殿。……主の家に、税の役人がお越しとは、珍しいこともあるものです」
私は、膝を折って礼をいたしましたわ。相手が誰であろうと、礼儀は尽くしますの。礼儀は、刃を抜く前の、鞘の会釈ですわ。
「お目にかかれて光栄ですわ、司教猊下。陛下の直命により、王室財務局の会計検査を進めております。その一環で、聖アガタ大聖堂の慈善免税について、伺いたく」
「慈善の、免税」
司教は、静かに微笑まれましたの。
「監査官殿。免税とは、王が教会にお与えになった、恩寵です。いえ——正しくは、神と、王国との間で交わされた、古き契約。俗世の帳簿で測るべきものでは、ありません」
来ましたわ。聖なる壁ですの。
「寄進は、信徒の魂の献げ物。それがどこへ流れ、どう用いられたか。それを問うのは、人ではなく、主の御業。監査官殿の物差しは——この門の内側では、少々、短うございますな」
なるほど。俗世の監査は、教会の敷居をまたげない、と。
そうおっしゃりたいのですわね。
「猊下。ひとつ、教えてくださいませ」
私は、顔を上げましたわ。
「その、神と王国の契約書には——神様の、ご署名が、ございますの?」
司教の微笑みが、ほんのわずか、止まりましたわ。
「聖なる免税、と、皆様おっしゃいますけれど。私が財務局で拝見した免税認可の綴りには、神様のご署名は、一枚もございませんでしたの。押されていたのは、王室財務局の、認可印。……つまり、この免税をお認めになったのは、神様ではなく、人間ですわ。人間が認めたものは、人間が、確かめてよろしいのではございませんこと」
しばしの、沈黙。
やがて司教は、ゆるりと立ち上がり、大聖堂の奥へ、私を導きましたわ。壁一面に、寄進者の名を刻んだ石板が並んでおりますの。ずらりと、王国じゅうの貴族の名が。
「監査官殿。これをご覧なさい。聖アガタへの寄進者です。……ラング侯爵。ゼーバルト伯爵。フレーベル辺境伯。この国の、名だたる家々が、魂の安寧のために、ここへ寄進しておられる」
石板の名を、私は、目で数えましたわ。数えるのが、私の仕事ですの。
「もし監査官殿が、この慈善免税を『不正』と申し立てれば——ここに名を刻んだ、すべての貴族が、脱税の疑いをかけられることになる。彼らは皆、寄進によって、正しく税を軽くしていただけなのですからな」
……なるほど。
これは、脅しですわ。上品な形をした、人質ですの。
この免税を崩せば、王国貴族の半分が、道連れになる。陛下も、それはお望みではないでしょう、と。
寄進者名簿という、盾ですわ。厄介なこと。
「賢明な監査官殿なら、おわかりでしょう。ある種の帳簿は——閉じたままにしておくのが、王国のためなのですよ」
司教は、慈悲深く、微笑まれましたわ。
そして、立ち去りぎわに、ふと、足を止めて。
「時に、監査官殿。ファルケンラート家の、お嬢様でしたな」
私の名を、なぜ、この方が。
「あなたのお祖父様。オーギュスト・ファルケンラート殿も、かつて、聖アガタへ、たいそう多額の寄進をなさっておいででしたよ。……徴税請負で財を成した方が、晩年、しきりに教会へ足を運ばれた。魂の平安を、お求めだったのでしょうな。何か、重いものを、抱えておられたのかもしれません」
——お祖父様が。
教会に、寄進を。
亡くなる前の冬、財務局に日参していた祖父。『古い口座のことで、確かめたいことがある』と。
その祖父が、聖アガタにも、通っていた。
偶然でしょうか。
私、ぴったり合う数字を見ると、まず疑いますの。
「ご忠告、痛み入りますわ、猊下」
私は、深く、礼をいたしましたわ。深く、深く。怒りが深いほど、私の礼は、丁寧になりますの。
「祖父の寄進のことも、後ほど、ゆっくり拝見させていただきますわね。……ええ。聖なる免税に、神様のご署名がないのでしたら。人間の署名は、きっと、どこかに残っておりますもの。人間は、署名をせずには、いられない生き物ですから」
オルロ司教、登場ですわ。剣ではなく祈りで、名簿という人質で武装した強敵ですの。「閉じたままにしておくのが王国のため」——さて、ロザリンドが帳簿を閉じたままにしたことが、一度でもございましたかしら。
そして、祖父オーギュストの名が、教会にも。亡くなる前の冬、祖父は何を確かめようとしていたのでしょうね。灰色は、どこまでも、灰色ですわ。
次話、聖なる壁を破る、たったひとつの綻びを見つけますの。認可なさったのは、神様ではなく——。
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