第27話:帳簿には温もりが、暖炉には薪がございませんの
聖アガタ孤児院は、大聖堂の裏手にございましたわ。
立派な鉄の門ですの。門柱には、寄進者の名を刻んだ真鍮の板が、ずらりと。どれも磨き上げられて、春の陽を照り返しておりましたわ。
門は、たいそう温かそうでしたの。
中は、そうではございませんでしたわ。
通された広間には、暖炉がございましたが、灰は白く冷え切って、薪の一本もございませんでしたの。四月とはいえ、王都の朝はまだ冷えますわ。子供たちは、擦り切れた毛布を肩に巻いて、身を寄せ合っておりましたの。
その数を、私は数えましたわ。監査官の性ですの。
——四十二人。
「フィー」
私の隣で、フィーが、立ち止まっておりましたわ。ずっと、動けずに。
「……ここ、変わっていません。何も」
小さな声でしたの。
「あの毛布、わたしがいた頃の毛布です。あの窓の割れも。……八年、経ったのに」
八年。この子が孤児院を出てからの、年月ですわ。
八年ぶりの我が家が、他人の家に変わっていた誰かさんとは、逆ですのね。フィーの我が家は、八年前のまま、時が止まっておりますの。凍りついたように。
院長のマチルダ様は、年老いたシスターでしたわ。私たちを迎える手が、震えておりましたの。歳のせいだけでは、ないように見えましたわ。
「王宮監査庁の、監査官様が……このような、貧しい院に、何のご用でしょう」
「マチルダ院長。突然の訪問を、お許しくださいませ。伺いたいのは、寄進のことですの」
その一言で、老院長の顔が、白くなりましたわ。
私は、財務局から持ち出した写しを、静かに広げましたの。
「こちらの帳簿には、聖アガタ孤児院に、年に十二万クローネの寄進があった、と記録されておりますわ。五年分で、六十万クローネ。……院長。この暖炉に、その六十万クローネのうち、いくら、くべられましたの」
マチルダ院長は、答えませんでしたわ。
震える手で、ロザリオを、握りしめただけでしたの。
答えないことも、立派な証言ですわ。
「では、伺い方を変えますわね。この院の、去年一年の、実際の入りは、いかほどでしたの」
「……六百、クローネ、ほどで、ございます」
六百クローネ。
帳簿の、二百分の一ですわ。
残りの、十一万九千四百クローネは、どこへ行ったのでしょう。
神様の、お財布にでも、入りましたのかしら。
「院長。あなたは、毎月、寄進の受領印を押していらっしゃいますわね。この帳簿に。届いてもいない寄進に」
私は、受領欄の朱印を指しましたわ。几帳面に、毎月、同じ場所に押された朱印。
「押さねば、パンが、止まると言われました」
院長の声は、もう、隠しておりませんでしたわ。
「印を押せば、六百クローネは来る。押さねば、その六百も止める、と。……子供たちに、パンを食べさせるために、わたくしは、嘘の帳簿に、印を押し続けました。三十年、ずっと」
三十年。
この老いたシスターは、三十年、子供のパン一切れと引き換えに、司教の嘘に、印を押し続けたのですの。
これは、脅されて共犯にされた人の、帳簿ですわ。
いちばん、たちが悪いやり方ですの。人の善意を、人質に取る。
「院長」
私は、努めて、静かに申しましたわ。
「あなたを、責めに来たのではございませんの。子供たちのパンを守った印を、私は、責められませんわ。……ただ、その印を押させた手を、私は、拝見しに来ましたの」
そのときですわ。
広間の扉が開いて、法服の男が入ってまいりましたの。教会の顧問弁護士、ギース法務官ですわ。あとで名乗られて知りましたけれど。
「これはこれは。王宮の監査官殿が、孤児院で、老いた院長を尋問とは。慈悲深いことですな」
「尋問ではございませんわ。お茶のお話ですの。……もっとも、この院には、お茶を出す余裕も、ないようですけれど」
「監査官殿。念のため申し上げておきますが」
ギース法務官は、フィーを、ちらりと見ましたわ。値踏みするように。
「そちらの計算係。聖アガタ孤児院の、元・出納係だそうですな。院を出た平民の子供の、古い記憶。……そのようなものは、証言にはなりませんぞ。教会法においても、王国法においても。平民の、それも子供の頃の記憶など、帳簿の一行の重みもない」
フィーの肩が、びくりと震えましたわ。
この子の、いちばんの地雷。
平民であることを理由に、証言する資格すら、否定されること。
私、扇を、ぱちりと閉じましたわ。
「あら。ずいぶんと、お詳しいのね。……平民の子供の証言が、何を崩しうるか。それを、こんなに早く、封じにいらっしゃるということは」
私は、微笑みましたわ。丁寧に。
「この子の記憶が、よほど、正確だということですわね」
帳簿には温もりが、暖炉には薪がない。その差額こそが、監査官の獲物ですの。
そして、フィーの過去が、ついに監査の現場と重なりましたわ。三十年、パンと引き換えに嘘の印を押し続けた老院長。……敵は、人の善意を人質に取るのがお上手のようですわ。
次話、いよいよ、その手の主——オルロ司教が姿を現しますの。聖なる免税の壁は、なかなか厚うございますわよ。
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