第22話:十年前の上申書、ただ一人の読者
古文書庫は、屋敷の北翼の地下にございますの。
樫の扉、二重の錠。鍵の一つは当主が、もう一つは家令が持つ決まりですわ。
「こじ開けますか」
「いいえ。クレメンスに開けさせますわ。当主ですもの」
クレメンスは、抵抗しませんでしたの。この頃にはもう、あの人は、監査に協力することだけが自分の残高だと、理解しておりましたから。
黴と羊皮紙の匂い。
棚には、記録が年代順に、整然と並んでおりますわ。
私どもは、埃の上の足跡と、最近動かされた形跡のある棚を探しましたの。
「ここ、です。この棚だけ、埃が拭われてます」
フィーが指したのは、婚姻関係の記録の棚でしたわ。
先代、先々代の婚姻契約書。持参金の目録。そして——
私の、婚姻契約書。
「……開けますわよ」
八年前、十九の私が署名した羊皮紙ですわ。懐かしい、とは申しませんの。あの日の私は、親族の決めた縁談に、ただ頷いただけですもの。
セドリック様が、契約書を検めて、眉を寄せましたの。
「ロザリンド様。この契約書、おかしい」
「と、申しますと?」
「公爵家側の連帯保証人の欄です。通常、婚姻契約の保証人は両家の親族。ですが、これは第三者——『東方交易組合代表』の署名と印章がある」
「————」
東方交易組合。
存在しない、あの組合ですわ。
「八年前の婚姻契約に、半年前から金を抜き始めた架空組合の印章が、すでに捺されている。……これは、つまり」
「ええ」
背筋が、冷たくなりましたわ。
「あの組合は、半年前に作られたのではございませんの。少なくとも八年前から、この家に——いいえ、『私の結婚』に、最初から、関わっておりますのよ」
ミレーヌ様が夜中に置いていったもの、の答えも、すぐに見つかりましたわ。
私の契約書の下に、真新しい羊皮紙が一枚、挟まれておりましたの。
クレメンスとミレーヌ様の、婚姻の予備契約書。連帯保証人の欄には、同じ印章。
——次の「配置」の、準備ですわ。
それにしても、二重の錠の部屋に、夜中、お一人で。……合鍵の出どころも、帳簿に載せておきませんとね。
その晩、私は、屋敷の庭におりましたの。
頭の中で、勘定が合いませんでしたのよ。八年前。架空組合。私の結婚。誰が、何のために——
「……眠れんのか」
殿下でしたわ。給仕でも見回りでもなく、ただ、隣にいらっしゃいましたの。
「殿下。私、分からなくなりましたの」
「何がだ」
「私の結婚は、誰かの設計だったかもしれませんわ。八年間も。……でしたら私の八年は、いったい、誰の帳簿に載っておりましたのかしら」
殿下は、しばらく黙って——それから、懐から、古びた書類を出されましたの。
何度も読み返したのでしょう、角の擦り切れた、上申書ですわ。
『王国徴税制度の改革に関する試案』。
……あら?
この筆跡、見覚えがございますわ。毎日、見ておりますもの。鏡のように。
「十年前、財務局に届いた匿名の上申書だ。徴税請負の中間搾取を数字で暴いて、是正案まで付いていた。局は黙殺した。俺は——当時、戦から戻ったばかりで、これを読んで、初めて『内側の敵』という言葉を理解した」
「殿下、これ……」
「筆跡を探した。十年だ。財務局、商会、学院。見つからんはずだ。書いたのは、官吏でも学者でもなく——十七の、子爵家の娘だったのだからな」
十七の、冬ですわ。
祖父が亡くなって二年。家に残った祖父の帳簿で、徴税請負の仕組みの歪みに気づいて、若さの勢いだけで書いて、出して——お返事は、ございませんでしたの。
誰にも読まれなかったのだと、思っておりましたわ。
その二年後、私は公爵家に嫁ぎましたの。
「君の精算書を見た、と言ったな。あれは半分、嘘だ」
殿下は、まっすぐ私を見ました。
「精算書を見て、確信しただけだ。『この筆跡を、俺は十年探していた』と。……ロザリンド。君の八年が誰の帳簿に載っていたかは、知らん。だが、君の十年は、確かに俺の帳簿に載っていた。一日も、欠かさずだ」
——ずるい方ですわ。
こんな夜に。こんな、勘定の合わない夜に。
十年越しの、お返事を寄越すなんて。
「……お返事が、遅すぎますわ、殿下」
「ああ。利息は払う」
「複利でしてよ」
「望むところだ」
月が、庭の白い砂利を照らしておりましたわ。
私の頭の中で、一つだけ、勘定が合いましたの。
八年が誰の設計だったとしても——その八年の前に書いた十年前の私を、見つけてくださった方がいる。
でしたら、私という帳簿は、改竄されてなど、おりませんのよ。
十年前の匿名の手紙に、読者は一人だけおりましたの。一人で、十分でしたわ。
次話、クレメンスが、すべてを話すと申し出ますの。八年前の縁談の、裏側を。
ブックマークと評価、十年待たずにいただけますと、作者は泣いて喜びますわ。




