第16話:八年ぶりの我が家は、他人の家ですわ
グランツベルク公爵領は、王都から馬車で二日。
街道の並木が見えてきたあたりから、フィーとセドリック様が、妙に静かになりましたの。
「あの。ロザリンド様。その、つかぬことを伺いますが」
「私なら平気ですわよ、フィー」
「いえあの、そうじゃなくて……お、お屋敷の方々と、気まずく、ないのかなって」
「気まずいでしょうね、先方が」
ええ。私は監査令状を持っておりますもの。気まずさの貸借で申せば、こちらは債権者側ですわ。
……と、申し上げたものの。
屋敷の門が見えたとき、私、扇を持つ手に、少しだけ力が入りましたわ。
八年間、毎朝くぐった門ですの。
出迎えの列に、トマの顔は、ございませんでした。
「執事のトマは、いかがなさったの」
「先代からの使用人は、三月前に、おおかた解雇されました」
代わりに立っていたのは、見知らぬ管財人と——玄関ホールの大階段の上から、ゆっくり降りていらっしゃる、蜂蜜色の巻き毛。
「まあ、まあ、まあ! ロザリンド様!」
ミレーヌ様は、両手を広げて、それは嬉しそうに笑いましたの。
左手の薬指に、見覚えのある指輪——グランツベルク家代々の、婚約指輪を光らせて。
「ようこそ、いらっしゃいませ。……あら、ごめんなさい。『お帰りなさいませ』のほうが、よろしかったかしら?」
「監査でございますので、どちらでも結構ですのよ。本日より、当家の帳簿をすべて拝見いたしますわ」
「ええ、ええ、どうぞご存分に! わたくし、帳簿のことはさっぱりですの。難しいことは、ぜーんぶ賢い方にお任せで」
ふわふわと笑って、ミレーヌ様は私の耳元で、囁きましたの。
「——奥様の椅子、座り心地、最高ですわよ」
あら。
宣戦布告にしては、可愛らしいこと。
「それはようございましたわ。……椅子の代金が、どの帳簿から出ているかも、すぐに分かりますわね」
クレメンスは、書斎におりました。
半年で、別人のようでしたわ。頬がこけ、目の下に隈、机の上は手付かずの書類の山。
「……ロザリンド」
「グランツベルク公爵。王宮監査庁です。債務繰延の申請に伴い、領地経営と納税の全般を監査いたします」
「ああ……ああ、そうか。君が、来たのか」
あの夜、勝ち誇って離縁状を突きつけた人は、そこにはおりませんでしたの。
繰延申請の書類に署名する手が、小さく震えておりましたわ。
監査初日の所見を、申し上げますわね。
ひどい、なんてものでは、ございませんでしたの。
「収支の帳簿、最後の記帳が四月前です。それ以前も、書き方がばらばらで……あれ? この筆跡、途中で三回、変わってます」
「管財人が三人、替わっているそうです。前任は二人とも、任期半ばで辞めている。理由の記録なし」
「税の納付は、二期分が滞納。王室財務局への報告書は、数字の根拠となる元帳が見当たらない。……これは監査以前の問題ですよ。帳簿が、存在していない」
フィーとセドリック様の報告を聞きながら、私は、自分の中の何かが、静かに冷えていくのを感じておりましたの。
八年。
毎月末、蝋燭を二本灯して、最後の一クローネまで合わせましたのよ。南の凶作の年も、橋の架け替えの年も、あの家の帳簿は、一度も嘘を吐きませんでしたの。
それが、半年で、これですわ。
「ロザリンド様。それと、妙なことが一つ」
セドリック様が、声を落としました。
「使用人の給金台帳、出入りの商人の請求書、馬丁の記録まで検めましたが——ミレーヌ嬢に関する支出が、どこにも、一行もありません」
「……一行も?」
「ドレスも、宝石も、馬車も。あの方は半年、この屋敷で暮らして、指輪までしているのに、帳簿の上では『存在していない』んです」
帳簿に存在しない人間など、おりませんのよ。
人は、暮らせば、必ず数字の跡を残しますの。それが残っていないということは——
どなたかが、別の帳簿から、あの方の暮らしを払っている、ということですわ。
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【監査手帖】
・帳簿は四月前から死んでいる。管財人は三人交代、前任二人は行方不明に近い。
・税は二期滞納。なのに屋敷の暮らしは維持されている。資金源が別にある。
・ミレーヌ嬢、帳簿上に不在。「存在しない人」の暮らしを払う「存在しない帳簿」。
——この家は、半年で食い潰されたのではなく、半年かけて「付け替えられて」いますわ。
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帳簿に存在しない人——本章の鍵ですわ。
次話、死んだ帳簿の解剖を始めますの。八年分の記憶は、伊達ではございませんのよ。
ブックマークと評価、八年ぶりの里帰りの手土産にいただけますと嬉しいですわ。




