023『夜空に名前を馳せて』
お風呂上がりの火照った体を冷ますため、俺はポチを連れて2階のベランダへと出ていた。
夜風が少し濡れた髪を撫でていき、とても心地よい。
「ふぅ……最高だな」
木の椅子に腰掛け、銅のコップに入れた冷水を一口飲む。
文明の味だ。石器時代から始まり、ここまで生活水準を上げた自分を褒めてやりたい。
今や銅の時代だ。とはいえ、実際のところは鉄が欲しいのは変わらないのだが、ないものは仕方がない。
第6区画は少し置いておく必要があるな……せっかくのブランチマイニングだったが、あそこは温水管理施設的なものにしてもいいかもしれないな。
少しズレてしまうだろうが、あの場所をそのまま掘り進んでいこうかなとは思う。浸水はしたものの、パイプも設置したから大丈夫だろうしな。
「わふ?」
「ん、どうしたポチ。お前も喉乾いたか?」
「わんっ」
足元に擦り寄ってきたポチの頭を撫でてやる。
ポチ。
俺がつけた、安直だけど呼びやすい名前。名前を呼べば、こうして嬉しそうに尻尾を振って応えてくれる。
「……そういえば」
ふと、気付いてしまった。
「ポチには名前があるのに……俺、自分の名前考えてなかったな」
「わふう!?」
ポチが「マジかお前!?」と言いたげに目を丸くして俺を見上げる。
いや、雰囲気なのかもしれないが、間違いなくそう思われている。呆れられている気がする。
「いや、だって仕方ないだろ。一人暮らしだし、呼ぶ相手もいないし……」
言い訳をしながら、俺は夜空を見上げた。
街灯なんて一つもない異世界だ。満天の星空が広がっている。そして、その中心には大小二つの月が浮かんでいた。
青白く輝く大きな月と、赤く滲んだ小さな月。この世界特有の『双月』だ。
「……前世の名前は」
夜空を見上げたまま、記憶を探る。俺はゲーマーで、男で、日本で暮らしして……。
あれ?
「……思い出せない」
ゲームの知識やサバイバルの知識はある。どんな人生を送ってきたかも覚えている。
なのに、自分が「誰」と呼ばれていたのか、その固有名詞だけが靄がかかったように出てこない。
転生の弊害か、それとも「もう必要ない」と脳が判断して消去してしまったのか。
そういうパターンの異世界モノもあったな……こうして前世の知識とかはあるけど、名前とかがわからないこの状態。
なんとも言えない気分にはなるが……別に気にするものではないか。
「まあ、いいか」
不思議と焦りはなかった。
元が男の名前(たぶんケンタロウとかショウタとか)だったとしても、今のこの可憐な美少女ボディには似合わないしな。
俺は自分の髪をひと房つまんで、月明かりに透かしてみた。サラサラと流れる白銀の髪。そして、手鏡で見た右の赤目と左の青目。
「キラキラしてて、まるで夜空みたいだな」
この姿になって初めて抱いた、自分へのポジティブな感想かもしれない。なら、名前もそこから取るのがいいだろう。
「月、か」
月から取って『ムーン』? いや、それだと某セーラー服の戦士を思い出してしまうから却下だ。
かといって『ルナ』だと、ありきたりすぎるか?
「ルナ……ステラ……ラテン語だったよな」
ふと、ゲームで覚えた単語が口をついて出た。
ルナは月。ステラは星。
「ルナステラ? ……いや、合体させるのは中二病っぽいな。長いし」
口の中で転がしてみる。
白銀の髪は、月明かりというよりは、尾を引く彗星や星の輝きに近い気がする。この何もない森の中で、たった一人で輝き始めた開拓者。
「……ステラ」
「わん」
呟くと、ポチが短く鳴いた。悪くない響きだ。女性名としても違和感がないし、呼びやすい。
「よし、決めた」
俺は椅子から立ち上がり、二つの月に向かって宣言する。
「今日から俺の名前は『ステラ』だ」
「わおーん!」
ポチが遠吠えで祝福してくれた。
ステラ。星。
この未開の異世界で、しぶとく輝いて生き抜いてやる。そんな決意を込めて。
「よろしくな、ポチ。俺がステラだ」
俺――ステラは、少しだけくすぐったいような、でも誇らしい気持ちで、相棒の頭を優しく撫でた。




