師直は結果を出す
高師直殿は怖い。
これは事実だ。
顔が怖い。
声が低い。
歩くだけで周りの人間が少し避ける。
そして何より、言うことがいちいち現実的すぎる。
「弥太郎」
「はい」
「その旗、持て」
俺は反射的に返事をした。
「はい!」
持った。
重い。
師直殿はもう歩き始めている。
「どこまでです?」
「前へ」
「前って」
「前だ」
説明が雑だ。
でも聞き返しづらい。
俺は旗を抱えてついていく。
後ろから孫七が笑いながら追ってきた。
「弥太郎」
「何です」
「顔が死んでるぞ」
「師直殿の前で言わないでください」
「聞こえてるぞ」
前から師直殿の声。
俺と孫七は同時に黙った。
◇
その日は、小規模な戦がある予定だった。
「小規模」と聞いて、俺は少し安心していた。
戦に小規模も大規模もないのだが、人間というのは都合のいい言葉に安心する。
敵の数は多くない。
こちらも少ない。
すぐ終わる。
そう聞いていた。
ところが、
「敵、増えてます!」
伝令が走ってきた。
俺は思った。
はい、来た。
最近もう慣れた。
師直殿はすぐに聞く。
「どのくらい」
「倍近く」
「位置は」
伝令が答える。
師直殿は一瞬考えた。
本当に一瞬だった。
「左を下げろ」
「はい!」
「中央は動くな」
「はい!」
「右から回す」
「はい!」
次々に命令が出る。
誰も迷わない。
いや。
師直殿が迷わないから、周りも迷えないのかもしれない。
俺は少し離れたところで旗を持ちながら見ていた。
「早いな」
孫七が言う。
「何がです」
「決めるのが」
確かに。
直義様とは違う。
直義様なら、
前例。
証文。
双方の言い分。
順番に確認する。
師直殿は違う。
今、ここで何をすれば一番生き残れるか。
それだけを見る。
◇
「弥太郎!」
「はい!」
師直殿に呼ばれた。
嫌な予感。
俺は走る。
「この旗を持って右へ行け」
「俺が?」
「そうだ」
「旗だけですか」
「旗だけだ」
「戦いません?」
「戦いたいのか」
「いえ」
「なら行け」
「はい!」
俺は走る。
右。
どこまで右なんだ。
と思っていたら、向こうから兵が来る。
「その旗!」
「はい!」
「師直殿の命令か!」
「はい!」
「分かった!」
兵たちが動く。
俺は少し驚いた。
旗一つで、人が動く。
いや。
正確には、旗を見て、師直殿の命令だと分かるから動く。
俺は旗を持ちながら思った。
これ、思っていたより大事な仕事なのでは。
その直後。
矢が飛んできた。
「うわっ!」
俺は伏せる。
孫七が笑いながら走ってくる。
「格好いいぞ旗屋!」
「武士です!」
「まだ言うか!」
「言います!」
◇
戦が終わった。
勝った。
大勝というほどではない。
でも、こちらの損害は少なかった。
孫七が言う。
「師直殿、すごいな」
俺も頷いた。
「怖いですけど」
「そこは変わらないんだな」
「怖いものは怖いです」
師直殿が来る。
兵たちの様子を見る。
怪我人。
死者。
武具。
馬。
全部確認している。
一人の兵が言う。
「師直殿」
「何だ」
「左を下げたのは、あれでよかったんですか」
「よかった」
「でも」
兵は少し言いにくそう。
「直義様の指示では、陣形を維持せよと」
師直殿の顔が変わらない。
「知っている」
「なら」
「守っていたら死んでいた」
即答だった。
俺は少し息を飲む。
師直殿は続ける。
「戦場で命令は大事だ」
「はい」
「だが、死んだ兵に命令は守れん」
誰も何も言わない。
師直殿は怪我人を見る。
「俺は生きて帰す方を選ぶ」
その言葉だけ聞くと、優しい人みたいだ。
実際、優しいのかもしれない。
ただ言い方が怖い。
◇
夜。
俺たちは火のそばで飯を食べていた。
孫七が言う。
「弥太郎」
「何です」
「直義様と師直殿、どっちが好きだ」
「何でそんな質問するんです」
「気になる」
「どっちも好き嫌いで見る人じゃないでしょう」
「じゃあどっちが正しい」
俺は握り飯を止めた。
またそれだ。
正成殿が言っていた。
正しいと思う者同士が戦う時が一番厄介。
俺は最近、その言葉ばかり思い出す。
「直義様は」
俺は言う。
「決まりがないと国が続かないって考えてる」
「うん」
「師直殿は」
「うん」
「決まり守って死んだら意味ないって考えてる」
孫七が頷く。
「で?」
「両方正しい」
「またそれか」
「本当にそうなんだから仕方ないでしょう」
六郎殿が後ろから言った。
「それが一番危ない」
俺たちは振り返る。
「六郎殿」
「何です」
「どちらかが明らかに間違っていれば、まだ楽だ」
「はい」
「両方に理屈があると、引けなくなる」
孫七が言う。
「じゃあ誰かが間に入れば」
六郎殿は少し黙った。
俺は思った。
尊氏様。
兄。
将軍。
直義様も師直殿も、
尊氏様を大事にしている。
なら、尊氏様がうまくまとめれば。
俺は少し安心した。
たぶん。
大丈夫だ。
◇
数日後。
屋敷。
直義様が師直殿を呼んだ。
俺はまた近くにいた。
最近、こういう場面に居合わせすぎている気がする。
「師直」
「はい」
「先日の戦」
「はい」
「陣形を変えたそうだな」
「変えました」
「命令に反して」
「反しました」
言い訳しない。
師直殿はそういう人だ。
直義様の表情が硬い。
「なぜだ」
「そのままなら負けるからです」
「結果論だ」
「結果がすべてです」
空気が冷える。
俺は思った。
やばい。
この二人、前より悪くなってる。
直義様。
「結果だけで決まりを破れば、誰も命令を守らなくなる」
師直殿。
「命令だけ守って負ければ、誰も国を守れません」
直義様。
「勝てば何をしてもよいというのか」
師直殿。
「負けて全部失うよりはましです」
沈黙。
尊氏様がいない。
俺は心の中で叫ぶ。
今こそ来てください。
師直殿が言う。
「直義様」
「何だ」
「あなたは国を守ろうとしている」
「当然だ」
「俺も同じです」
直義様は少しだけ目を細めた。
「なら、なぜ従わぬ」
師直殿は答える。
「守り方が違う」
俺は思った。
ああ。
これだ。
この二人。
敵じゃない。
守りたいものも、
大きくは違わない。
なのに、方法が違う。
だから、余計に近づけない。
◇
廊下。
師直殿が出てくる。
俺は避ける。
でも師直殿が止まった。
「弥太郎」
「はい!」
名前を覚えられている。
嬉しくはない。
怖い。
「お前はどう思う」
やめてください。
本当に。
この人たちは、なぜ俺に聞くのか。
俺は慎重に答える。
「何をでしょう」
「俺と直義様」
逃げ道がない。
俺は少し考える。
「……どっちも正しいです」
師直殿が鼻で笑う。
「便利な答えだな」
「便利じゃないです」
「では何だ」
「困る答えです」
師直殿が俺を見る。
俺は続けた。
「どっちかが間違ってた方が楽です」
師直殿の表情が少し変わる。
「でも」
俺は言う。
「直義様の言ってることも分かるし、師直殿の言ってることも分かります」
「だから?」
「仲良くしてください」
沈黙。
言ってしまった。
師直殿は俺を見る。
しばらく。
本当にしばらく。
そして笑った。
「無理だな」
「即答!」
「考えが違う」
「少しくらい努力してくださいよ!」
「お前、俺にそんなこと言う奴は初めてだぞ」
「俺も言いたくて言ってるわけじゃないです!」
師直殿は少し笑って歩いていった。
俺は息を吐く。
生きてる。
よかった。
◇
その夜。
尊氏様が帰ってきた。
俺は少し安心した。
これで何とかなる。
尊氏様は話を聞いて、直義様を見る。
師直殿を見る。
そして困った顔をした。
「二人とも正しいな」
俺は思わず顔を上げた。
同じこと言った。
直義様。
「兄上」
師直殿。
「尊氏様」
尊氏様は笑う。
「まあまあ」
直義様。
「まあまあでは済みません」
師直殿。
「そうです」
二人が同時に言った。
尊氏様が少し困る。
俺は思った。
駄目かもしれない。
尊氏様は言う。
「お前たちは両方必要だ」
直義様。
「それは分かっています」
師直殿。
「俺もです」
尊氏様。
「なら」
二人。
「ですが」
また同時。
俺は天を仰いだ。
孫七が後ろで笑っている。
「弥太郎」
「何です」
「大丈夫そうか」
「全然」
「さっき安心してたじゃないか」
「撤回します」
六郎殿が言う。
「遅い」
俺はため息。
◇
数日後。
また戦。
また旗。
また使者。
いつもの毎日。
でも、俺には前と少し違って見えていた。
直義様。
師直殿。
尊氏様。
三人とも。
この国を守ろうとしている。
少なくとも、本人たちはそう思っている。
だけど。
守り方が違う。
人を信じる尊氏様。
決まりを信じる直義様。
結果を信じる師直殿。
三人が同じ方向を向けば、きっと強い。
でも向かう方向が少しでもずれたら。
どうなるんだろう。
俺は旗を結ぶ。
孫七が聞く。
「何考えてる」
「嫌なこと」
「何だ」
「言ったら本当になりそうなのでやめます」
「何だそれ」
俺は笑った。
その時、使者が走ってくる。
「急ぎです!」
はい。
まただ。
俺は聞く。
「今度は何です」
使者は答える。
「直義様のもとへ!」
「何が起きたんです」
使者は少し息を整えた。
「足利直冬殿のことで」
俺は首をかしげた。
「誰です?」
孫七も首をかしげる。
六郎殿だけが、少しだけ顔を曇らせた。
俺はまだ知らない。
その名前が尊氏様と直義様の間にある亀裂を、もっと深くすることを。
そして、次にややこしくなるのは、兄弟だけじゃない。
親子だということを。




